五話 動悸
その日、宵人は惣一の元にいた。あることの確認を取りに、である。
「はい。ナオと旭ちゃんのデータ。」
渡された資料をペラペラとめくる。宵人が知りたかったのは、『力の融合』について。
「……うーん、なんとも言えねえな……。」
眉間に皺を寄らせながらそう言うと、宵人は惣一の方を見た。彼は宵人が渡した事件資料を読み込んでいる。
「…………うん。俺も同じ感想。ここで立てられるのはあくまでも仮説。でもそれにしてもなんとも言い難いね。」
顔を上げた惣一が眉尻を下げて微笑む。その顔を見ながら宵人は項垂れた。
暴発事件を追い始めてから既に1ヶ月程度経過している。この間にまた数件事件は起こり、そのどれもで黒い斑点は見られた。そして、それは最終的に被疑者たちの『力』を濁らせる。未だにどういうことが起こっているかはわからないが、宵人はその濁りの原因に東弥の気配を感じ取っていた。
「他人の『力』を濁らせる、ねえ。数値は上がってはいるけど、考慮すべき値でもないし。君の目が捉えていることが全てってわけか。」
惣一の言葉に頷いて、先日のことを思い出す。この所見を捜査本部でも説明したのだが、いまいち手応えは得られなかったのだ。全員、証拠を欲しがる目をしていた。
「君もわかっただろうけど、ナオたちのときとはちょっと違うかな。あれは2人の中で融合はしてたんだけど、それぞれの『力』が独立してはいたから。」
それはわかっていた。というか、溶け合ってしまってはそれぞれの『異能』を使うために分けることができなくなってしまうだろう。
あまりいい感触は得られなかったことに宵人はため息をつきながら資料をしまう。なんとなく良くない感じだ。
「というか、何?今単独行動中なの?早岐くんは?」
そのときふと、お茶を手に取った惣一に1人で訪ねてきたことへの言及をされる。まだギクシャクしている相棒の名前に宵人の顔は引き攣った。
「一巳は、ほら、もう主任なんで。コンビ解消中みたいな感じです。」
歯切れの悪い言葉に惣一が笑う。
「へえ。主任、かぁ。懐かしい響きだなぁ。君のお父さんも主任さんだったよね。」
予想外の人物から予想外の話をされて、宵人は固まる。それはあまり話したくないことだったから。
「ええ。まあ。俺はその頃の父の仕事の様子とか全く知りませんけどね。」
誤魔化すように湯呑みを手に取る。その瞬間、惣一の目が何かを探るように光った。
「ああ。確か折り合いが悪かったんだっけ?よく話すのはお兄さんの方とか言ってた気がする。」
続けたくないなぁと思いつつ真面目な宵人は隠さずに頷く。
「俺の目が、父には忌まわしかったみたいで。あまり視られたくなかったみたいですね。避けられがちでしたし。」
頭の中に浮かぶ父の印象は背中が多い。自分とは目を合わせないように、曖昧な返事をされていたあの頃。
「……でも兄と違って話す必要もなかったんですよ。俺が目指していた道にあの人の意見は必要なかった。」
目を伏せ、そう語る宵人の雰囲気は仄暗い。惣一は彼を観察しながら頬杖をついた。
「確か、保育士さんだっけ?君ピアノ上手だもんね。面倒見いいし。」
他人の口から自分の目指していたものを語られるのは少々変な気分。もう、ずいぶん前の話に感じてしまうが。
「『特務課』の人たちってさ、難儀な人生を歩みがちだよねえ。もっと気楽に生きなよ。」
貴方も人のことは言えないだろ。そう思いつつ口に出すのは控えた。彼はたぶん、彼なりに好き勝手生きているのだ。
「そういう意味では、君はお父さんにそっくりだ。駄目だよ?あの人見習っちゃ。」
惣一のしみじみとした言葉に宵人は目を丸くする。なんだか最近父の話をよくされるような。
「あ、そういえば。不愉快かもしれないんだけど君って『杉崎勇気』の『力』、視たことあるよね。それこそお父さんを視たときに。」
嫌な方向に話が舵を切ってしまった。宵人は頬を引き攣らせながら、惣一の続きを待つ。
「旭ちゃんの話聞いたでしょ?なるべくたくさんの手がかりが欲しくて。君は何か覚えてることない?なんでもいいんだ。」
彼の目は真剣そのもので、決して宵人が思い出したくないことを掘り返してやろうとしているわけではないことは伝わった。だけど。
「…………すみません、俺から話せることは、何も。」
少し悩んで、でもやはり言えなかった。この前自分が一巳によって何を言わされようとしたか。忠直から聞いたが、それはたぶん父親のことだった。
彼の死についての明確な記憶はない。いや、自分の体がそうしている。そうしなければあのときは耐えられなかった。今でも体にこびりつく恐怖。思い出せば、どうなるのかわからない。
「……そう。何か思い出したら、俺でもナオでもいいから教えてくれる?」
宵人の表情が固くなったことに気づいたのだろう。惣一も深く言及してくることはなかった。
ホテルを出て重要な連絡が来ていないかを確認する。その中に明鈴からの連絡を見つけて、宵人は複雑な表情を浮かべた。
なし崩し的に次が最後になって申し訳ない、という会話をしたのが1週間とちょっと前。次に会うときには東弥の話も何もかも、ちゃんと聞かせてもらうという約束をした。
真中東弥には何かある。捜査課にも彼の『力』について報告をして、身辺調査を行ったところ不自然なほどにボロが出なかった。さすがにこちらの方は証拠がなくとも勘のいい職員たちに押されて捜査は続けられている。
だけど、宵人は焦っていた。東弥を追っていけば、いずれこの事件は解決を迎えるだろう。しかし、それまでに明鈴はどうなるのか。宵人にあんな要求をしてでも逃げたかった相手に当てがわれてしまうのではないか。
ほんの少しの期間関わっただけの人に、そこまで感情移入する必要はないのかもしれない。だけど宵人は縋るように伸ばされた手をはたき落とせるような性格をしていない。
(明日。それまでに踏み込める何かは揃わないだろうな。)
一応言い出した義理として続けられるだけはこの関係を、と明鈴と連絡は取り合っている。最近、彼女は電話口で笑ったような気配を感じさせてくれることがあるのだ。その度に顔が見たいな、と思うのは。
(良くない。非常に良くない傾向だ。)
胸にチラつく不埒な感情を抑えつつ、宵人は局に戻った。
「母さーん、閉店作業終わったー。」
店の方に繋がるドアを閉めて、母親に帰ったことを知らせる。彼女は台所の方から曖昧な返事をしてきた。帰ったことが伝わればいい、と隼人はそのまま部屋に戻ろうとして。
「あ、隼人!お父さんにご飯持っていって!」
捕まってしまった。ひかりに呼び戻された隼人は渋々台所に顔を出し、彼女からお供え用のご飯を受け取る。
そのまま玄関を通り抜けて、畳の間に向かった。炊き立ての米の匂い。まだ熱いそれを仏壇に供えながら、隼人はりんを鳴らした。静かに手を合わせ、それが終わってもただぼんやりと仏壇を見上げる。
父の死は突然のことだった。忠直とその同僚であった壱騎の報告を受けたとき、ひかりは泣き崩れ、宵人は実感が湧かないという顔をしていたが、ただ1人隼人だけは来たるべき時が来た、と感じた覚えがある。
「……なー、親父。俺、アンタはちゃんと宵人と話しておくべきだったと思うよ。」
愚痴を漏らすように呟く。弟の“目”から逃げていた父親は、それを常に後悔していたから。
米の匂いに混じって、雨の匂いが鼻をついた。ふと、窓の外を見ると嫌な感じの曇り空。そろそろ梅雨が来てもおかしくない時分になる。
そのとき、ガラガラッと襖が開く。入ってきたのは宵人。
「あれ、おかえり。今日帰ってくる日だったっけ?」
驚きつつ尋ねると、彼はこくんと頷く。どうやら弟は独り立ちした後も、母親のことを心配して週に1回は実家で晩御飯を食べるようにしていたらしい。彼女には立て続けに夫と息子を失ったことで不安定な時期があったから。
隣に正座して、手を合わせ始める宵人を見ながら、いなかった時間で彼には随分と迷惑をかけたことを自覚する。
「……何だよ、見んな。」
鬱陶しそうに眉を顰められてしまった。人の気も知らないで。隼人は苦笑しながらなんでもない、と誤魔化した。
「父さんって、俺のこと苦手だったよな。」
ひかりが風呂に入っている間のこと。リビングに残ってテレビをぼーっと見ていたときに不意に宵人が口を開いた。
「ふーん、お前はそう思ってんだ。」
意地の悪い言い方をすると、宵人に顔を顰められてしまう。くすくすと笑いつつ、父親の顔を思い浮かべて隼人はざまあねえな、と内心呆れた。
「兄ちゃんはそう思わねえの?」
珍しい話題だ。それもひかりがいないときを狙って。これは何かあったな。
「さあな。俺が言えるのはあの人の自業自得ってことだけ。」
そう言って肩をすくめると、使えねえなぁと可愛くない反応。たまにマジで可愛くない。
「急に何?親父のこと思い出すような何かがあった?」
忘れたことなど片時もないだろう。だけど、強く想起される瞬間は他とは違う。そうさせる何かがあったのだろうか。
「あー、いや。……一巳の『異能』浴びたんだよ。」
ああ、と隼人は頷いた。確か事件のときに自分も受けたことのある『異能』。人に自白を促す感じだったはず。
「あいつがムキになってたから加減の効かないスレスレまで脳味噌いじくられたんだけど、それ以来夢に父さんが出てくんだよなぁ。」
それは少々心配な話だ。父が死んだ事件のとき、弟は父親のことをあまり考えないようにしていたから。
「……何か、忘れてる気がする。父さんの体に充満するあいつの『力』は確かに視た。強烈だったはずなのに、俺は曖昧にしか覚えてないんだ。」
じっと弟のことを見つめた。彼の目は少し昏くて嫌な感じがする。
「忘れてるってことは、思い出したくねえんだろ。そのままでいいんじゃね?」
不安を悟られない軽さで言うが、宵人から漏れるのは曖昧な返事。ほんと、こういうところ親父に似てきた。
「最近、関わってる事件で似てるそれに出会ったんだ。避けようがねえんだよ。」
彼の思考が色んなところに張り巡らされている気がする。なんか、あんまり良くない。というか嫌だ。
「……父さん、あの人が死んだとき。俺は、何を視たんだ?」
宵人の眉間に皺が寄る。最早、その様子はこちらのことが見えなくなっているようで、はあ、とため息をついた隼人は手を前に出した。
ベチンッと痛そうな音。デコピンの威力によろめきつつ、宵人は額を押さえた。
「ッてえ!?何しやがるクソ兄貴!」
ものすごい勢いで睨まれる。でもその方が心地よくて隼人は微笑んだ。
「油断しまくりの間抜けヅラだったぜ。してやったり。」
ピースサインを向けると、意味のわからない攻撃を受けたことに怒った宵人が立ち上がった。おっとこれはまずい。隼人も立ち上がって逃げ始める。
「コラ!あんたたちは、いい歳になってまで喧嘩しないの!」
程よく暴れ回ったところで風呂を出たひかりに怒鳴られてしまった。宵人は少々気まずそうであったが、隼人はその感じにも安堵を覚えて笑っていた。
彼は、自分の仕える主人の協力者だった。だからといって何も特別な人ではなかった。礼儀正しくて、優しくて、でもそういう人は沢山いる。そのくらい、わかっていた。
「あ、いつもありがとうございます。明鈴さんの淹れるお茶、美味しくて好きなんですよ。」
それは些細なやり取りだった。主人である麗佳の手伝いで最近はいつものようにここを訪れていた彼に茶を出したときにそう言われて、自分でも不思議なほどに心が動いた。
御厨宵人。去年の時点で24歳。A型。身長173cm。特筆すべき点はその“目”。だけどそれ以外は至って普通の成人男性。
麗佳に近づく人間は徹底的に調べられる。だから、彼の兄が犯罪者であることは知っていたし、父親を事件で亡くしていることも、なんなら彼が大学進学を目指していたのに急な方向転換をしたことも知っていた。
麗佳にとって無害な人間。それどころか有益な人間であるとすら考えていた。忠直以来、麗佳はいくつもの縁談を蹴り倒してきていたが、だけど昨年の事件で彼にはかなり信頼を置いているようだったから。
異質な環境である予見家にも、麗佳に協力するうちに彼は馴染んでいた。どうにも息のしにくいこの場所で、彼は居心地の悪さなどおくびにも出さずに茶の感想まで言ってのけたのだ。
「恐縮です。」
小さく会釈して、明鈴はそこに佇む。偶然そのときは麗佳が席を外していて、その部屋の中で宵人と2人きり。
「今日、少し冷えましたね。秋ってどうしてこんなにすぐ過ぎるんだろう。」
ぼやくようなそれは、明鈴に対しての投げかけのような違うような。でもそのときから彼の声は、誰よりも耳が拾うようになった。
「……それは、貴方が秋が好きだから、でどうでしょう。」
自分でもらしくない返答だったな、と。宵人もその返事に驚いたように明鈴を見て、でもすぐにふにゃりと笑った。
「あはは、そうかも。明鈴さん、そういうこと言うんだ。そうなんだ。」
随分と気を許したように笑うのだな、と感じて少し驚く。自分に対して楽しそうな笑顔を向けるのは家族か主くらいだと思っていたものだから。
「好きなことしてるときって時間が早く過ぎますよね。うん、そうかも。素敵な考えですね。」
息がしやすかった。何も求めないその空気感。その笑顔が自分に向けられたものだと思うと、ただ存在するだけで自分のことを肯定されているような気がした。
ピンポーン
インターホンを鳴らすのはなんとなく久しぶりに感じる。すぐにガチャリと開くドア。顔を出した彼はいつもよりも少し堅い表情。
「お久しぶりです。明鈴さん。」
「はい。こんにちは、宵人さん。」
些細な挨拶にも微笑んでくれる。それに目を惹かれながら明鈴は彼の家に足を踏み入れた。
監視は撒いてきた。今日だけは誰にも邪魔されたくなかったから。
家に上がるのにほんの少しの緊張。彼が何もしないことはわかっている。だけど、そうじゃなくて。
「飲み物、適当で大丈夫ですか?」
尋ねられて明鈴は首を横に振った。珍しい反応に宵人がきょとんとする。
「ティーポットがあるようでしたので、茶葉を持ってきました。」
以前のやり取りを彼が覚えているとは思わなかったが、今日が最後だと思うと全部悔いのないようにしておきたかったのかもしれない。
迷惑だっただろうか、と宵人の様子を窺うと彼は嬉しそうにニコニコしていた。
「やった。明鈴さんの淹れるお茶、美味しいですから。」
無邪気な笑顔には目を奪われてしまう。彼は、よく笑うのだ。
「もしかして、俺が前に好きだって言ったこと覚えてました?」
かちゃかちゃと食器棚からティーポットを取り出しながら何気なく訊かれて、明鈴は小さく驚く。それはこちらこそ聞きたい。覚えていたのか。
「……なんて、自意識過剰かな。お湯沸かしますね。わざわざありがとうございます。」
だけど返事をする前に彼は切らしていた水のペットボトルを取りに玄関の方へ向かってしまった。
「やっぱり美味しい。上手に淹れられるの羨ましいな。」
素直に喜んでくれる姿を見ると、持ってきてよかった、と安心する。明鈴は目を細めて、よかったです、と答えた。
「この1週間、変わったことはありませんでした?」
雑談の体だが宵人の目は真剣で、ここからが本題だと示しているようだった。
「はい。特に何も。」
素直に安堵されると巻き込んだ身としてはズキンと胸が痛む。目を伏せると、慈しむように微笑まれてしまった。
「よかった。今日は監視の目もありませんでしたよね。撒いてきたんですか?」
頷くと逞しい、と感心される。宵人は微笑みを崩さずにマグカップをことんと置いた。
「じゃあ遠慮なく訊けますね。真中東弥。彼についてはお嬢さんから大体のことは聞きました。」
それにも頷く。こちらの方も宵人に話したことは麗佳から確認済みであったから。
「俺が知りたいのは、どうして貴女が彼との婚約を承諾したか、です。それはきっと俺への頼みに繋がるんですよね?」
じっとこちらを射すくめるような目。何度か見せられた、明鈴の真意を知りたいときのもの。明鈴は一瞬目を伏せて、でもすぐに口を開いた。
「父の遺言によるものです。父は東弥様に対して、『明鈴を頼む』という旨のものを遺されていました。」
言いながら明鈴が差し出してきた紙。そこには確かに堅い表現でそのような文面が綴られている。
「私にとって絶対であるものが2つございます。主と父の命令。その彼が最後に遺したものであれば遂行するのが私の務めです。なので結婚を受け入れました。」
淡々と告げると宵人の表情は苦くなった。こういう言葉が苦手なことは知っている。
「……じゃあなぜ、俺のところに来たんですか?このタイミングで妊娠なんてしたら話はめちゃくちゃに拗れる。わかるはずですよね。」
宵人の質問に明鈴は目を伏せた。どう答えればいいのか悩む。
そんな彼女に助け舟を出すように続けて宵人が口を開いた。
「今の話から、結婚を承諾することは貴女の意思じゃなかったんですよね。それなら、俺に頼んできたことがあんたの本音?」
言葉があぶくのように浮かんでは消えていく。だけど、どの言葉も相応しくなくて、頭の中で探した。
宵人の顔を見る。彼は今日、いや最初からずっと明鈴のことを心配そうに見つめている。彼と関わった今なら、その心中で渦巻いている感情が少しはわかる気がした。
「……貴方の顔が、浮かんだんです。」
宵人は静かにこちらの声に耳を傾けている。その姿勢に安堵して、明鈴は続けた。
「結婚を承諾して、自分の将来のことを考えました。きっと、東弥様の元へ行けば仕事以外で私の自由は許されなくなります。」
真中も堅い家柄だが何より東弥の性格上、明鈴が人と関わることを、特に男性と関わることは禁じられるだろう。
「彼との子どもを望まれて産むことになるでしょう。それが“今まで通り”。私がそもそも求められていた形ですから。」
父もそれを望んでいたと紙の上で残っている。異論などないはずなのに。
「それでよかったはずでした。ですが、私の中にもしも、がよぎったんです。もし、その形を他の誰かと築けるのなら。」
顔を上げて宵人の方をじっと見つめた。その顔があのとき浮かんでしまったのだ。些細な会話だった。彼はただ、自分の淹れたお茶を美味しいと言ってくれただけ。
なのに、その一言で何かが芽生えてしまっていたのだ。自分でも気付かないうちに。
「気付けばここにいました。呼び鈴を押すと、貴方は何も警戒せずにドアを開けてくださって。こんな、妙な女に対して真剣に返事をしてくださいました。」
そのときはまだ、ぷつぷつと胸の中で小さな泡が弾けるような感覚。だけど会うたびに何かが質量を増していった。関われば関わるほど駄目だ、と感じた。
「……馬鹿な女です。浅はかな行動の全てが裏目に出ました。貴方を危険に晒し、剰え巻き込んでしまった。本当は、ほんの数回、それだけ。」
一旦言葉が途切れる。続きは口に出すのが躊躇われたから。
「それだけでいいから、貴方に愛されてみたかった。」
吐き出した息も吸い込んだ息も震えた。情けない。
宵人は動けないようだった。静かに息を呑んで、そっと目を伏せる。彼の今の思いは読み取れなかった。
「……貴方の予想通り、東弥様はあまり良くない場所に身を置いていらっしゃいます。」
明鈴の口調が淡々としたものに戻る。その瞬間、ハッとしたように宵人が顔を上げた。明鈴がいつか見たような無機質な表情を作っていたから。
「どうかこの件についてはお忘れください。貴方の追っている事件は程なく解決します。」
宵人が立ち上がる。嫌な予感でもしたのだろう。でも、もう遅い。
「さようなら、御厨宵人さん。貴方と過ごせて幸せでした。」
明鈴も立ち上がって深々と彼に向かって頭を下げる。その手を掴もうとした宵人の体はテーブルの方にぐらりと大きく揺れた。
驚いたように目を見開いて、でもすぐに彼は苦い顔でマグカップを睨む。
「ッ、明鈴、さん、行くな、たのむ。」
切れ切れに絞り出したような言葉が愛しい。最後まで心配そうな顔をさせてしまった。
耐えられなくなったらしい彼の体がふらりとよろめく。それを抱き留めて、宵人の体の重みに負けて座り込んだ。
その温かさに胸の奥が落ち着かない。無防備な彼をぎゅっと抱き締めて肩に顔を埋めると初めてなのにしっくりくる。
「……お慕い申し上げております。」
明鈴は小さく呟くとそっと宵人を手放した。ソファにかけてあったブランケットをかけて、クッションを頭の下に差し入れる。
ふと、その顔が目に入った。眉間に皺が寄っていて、先程の苦痛な表情のまま眠りに落ちているようだ。
ごめんなさい、と謝って、彼の頭を撫でると魔が差した。そっと顔を近づけて唇を落とす。これくらいは許されないだろうか。
もう一度謝って、明鈴は物音を立てないように静かに部屋を後にした。