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Lemonade  作者: 洋巳 明
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三話 動揺


 からんからん、と心地よいベルの音。隼人は顔を上げずに作業を切りのいいところまで進めながら口を開いた。

「らっしゃいませー。」

 言ってから顔を上げる前に後頭部に衝撃。痛みよりもぐらんぐらんと脳が揺れて、隼人は顔を顰める。誰かに頭を殴られたのだ。そして、間髪入れずに不機嫌極まりない声が降ってくる。

「アホ兄貴。挨拶はちゃんとしろよな。」

 見上げたところにいたのは弟の宵人。おや、と思いつつ立ち上がり、彼の様子を観察する。

 宵人は私服であった。今日は休日なのか。

「いらっしゃいませ。ご多忙な異局の職員さんがご実家の花屋にどんなご用事で?」

 結構痛かったので嫌味ったらしく言うと、彼は肩をすくめて勝手に店の奥の方に進んでいく。なんだよ、用がないんなら殴る必要もねえだろ。

 母親に直接注文を済ませて戻ってきた弟の隣に立って、隼人は彼をじろじろ見ながら訊いた。

「何?疲れてんなら休日くらいちゃんと休めば?」

 ぎょっとする宵人を鼻で笑いながらその頬をぎゅむ、と引っ張る。彼はどこか疲れた顔をしていた。隼人は人のそういう顔はあまり好きではないのだ。

「別に。そこまで疲れてねえよ。」

 不愉快そうに手は振り払われる。だけどこれは図星の反応。

「それに今日は人と約束があるんだよ。」

 花を携えて会う相手なんていたのか。隼人は置いて行かれたような寂しさを得る。置いて行ったのは自分のはずなのに。

「宵人、できたわよ。」

 そのとき、母親のひかりがひょこっと店に顔を出した。それに応じて宵人はレジに向かってしまう。隼人は彼の背をぼうっと見つめた。

 その後ろ姿を見ると最近切なくなるのだ。草臥れたようにも落ち着いたようにも思える顔つきや、しゃんと歩いていく姿勢。その雰囲気はどこか、憧れていた父親の姿に似てきている。

 弟が立派になったのは嬉しい。だが、それが成因不明の不安で胸を満たす。

 隼人は手に取った箒に体重をもたれかけさせて、ため息をついた。それに反応するように宵人がくるりと彼の方を向く。

「サボんなよ、兄ちゃん。」

 ちらりと見えた彼が持つ花束は質素なものだ。仏花だろう。一体、誰への。

「んー、善処するわ。」

 へら、と笑うと今度はこちらが呆れたようなため息をつかれてしまった。可愛くなくなってしまったものだ。

「あ、宵人!今日はこれから天気崩れるらしいから、気をつけなさいよ!」

 ひかりの言葉にわかった、と笑いながら返して、そのまま店を出て行った宵人。寂しさをかき混ぜるように隼人は箒で散った花びらを掃き集めた。



「すみません、お待たせしました。」

 午後3時。待ち合わせ場所で明鈴と落ち合うのにも慣れてきた。

 1ヶ月の恋人関係を要求してからもう1週間が経過していた。その間に3回ほど食事をしたが、明鈴は案外“普通の人”だった。少々世間知らずで、自分の意思を主張することが苦手なきらいがある程度。

 そもそも言っていた通り、まともに男性と交際すること自体が初めてのようで、服装からやることから全て教え倒す羽目にはなったが、世話好きな宵人からすればそれはあまり苦痛ではなかった。いや、むしろ。

「いえ。こんにちは、宵人さん。」

 無機質な表情の中にもちゃんとわかりにくいが細やかな感情があることに気づけるようになった。そんな些細な穏やかなひとときを彼女とは過ごしている。だが。

(……今日もいるな。気が緩んでいるのか、わかりやすくなった。)

 宵人が疲れている、と隼人に言われた原因。それは、明鈴と会うと必ず何が起こっていることにあった。ちょうど2回目のときのあれがいい例だ。

 そして、明鈴と過ごすときには『監視』の目がある。今日も自分たちの後ろをぴったり同じ間隔でついてきて、じっとこちらを窺っているその目。事件と関係がありそうなのだが、確たる証拠はない上に目的もわからない。明鈴が何かに巻き込まれている影響だとしたら、彼女から話を聞く方が先だと思って今はまだ泳がせているが。

「本当に俺がついて行っていいんですか?」

 気を取り直して。

 本日のデートは、明鈴の希望を聞いた形になった。

 彼女に尋ねるとこく、と頷かれる。微妙な気持ちではあるが、自分にも無関係な死ではないので特に異論は言わない。

「妹や一巳は父のことがあまり得意ではなかったので。」

 そう。今日は明鈴の父親の墓参りに行く予定なのだ。

 去年の予見家の騒動は彼の死によって始まった。当時の予見家当主であり予見令悟の護衛についていた明鈴と夕鈴の父親、早岐はいき 小夜さよ。令悟の妻であった紗良が引き入れた暴漢によって、令悟を庇って殺された男である。

 宵人は彼のことを知らない。だが、あの事件に関わった以上、全くの無関係でその死に責任がない、とは言い難い。墓前に手を合わせる義理くらいはあるだろう。そういう考えもあって、付き合うことに大した抵抗はなかった。


 そこは、長い坂を登ったところにある霊園だった。ずらりと並ぶ青みがかった灰色の墓。晴れたこの日と対称的になんとなく寂しく見える。

 明鈴は無言でそのまま父親の墓に向かって歩く。それは話しかけてはならない雰囲気で、宵人も黙って従った。

 先祖代々入ってきたらしい墓はどこか古ぼけていて、でも立派な構えだった。刻まれた小夜の名前が、まだ生々しく新しいのが嫌なことを思い出させる。

 2人は黙って掃除をして、宵人は実家で買ってきた仏花を供えた。

 示し合わせたかのように墓の前に並んで立って、手を合わせる。宵人が顔を上げた後も、明鈴はじっとしばらくそこから動かなかった。

 

「付き合っていただいて、ありがとうございました。」

 霊園を出て、しばらく歩いたところで明鈴に頭を下げられる。宵人は構わない、というように首を横に振って、静かに明鈴の隣を歩く。

「このタイミングを逃せば、もうここには来られなかったかもしれないので。」

 窺った彼女の瞳が昏く光った。何か含みがあることには気づいたが、あえて掘り下げない。今彼女が聞いて欲しいことはそれではないはずだから。

「……お父さん、どんな方だったんですか?」

 明鈴の目が細まる。墓参りのときから思っていたが、明鈴にとって父親は何か特別な存在らしい。

「寡黙な人でした。家に忠実に、主人に忠実にあれ、と。それを常に口癖のように唱えていました。」

 父親を思い出すようにどこかを見るその横顔は美しかった。

「あの人のことを優しいと思ったことはありません。厳しい人で、私にとっては師でもありましたから。」

 じわ、とその目に感情が滲むのを見て、宵人は心の奥の方が切なくなるのを感じた。どこか自分と重ねてしまったのかもしれない。

「それに、父の笑顔を見たことがありません。……そういう人でした。お嬢様には、私たちはそっくりだと言われたことがあります。」

 淡々と、だけど大事なことを打ち明けるようで。彼女にとって父親の墓参りというのは特別なことだったのだろう。

「明鈴さんはお父さんのことが好きだったんですね。」

 話の内容を噛み締めるようにそう言うと、明鈴には不思議そうな顔をされてしまった。

「そう、思われましたか?」

 尋ねられて頷くと彼女が目を伏せる。

「……私は出来損ないでしたが、父を慕うことはできていたんでしょうか。」

 呟くような一言。彼女が父を亡くしたのはたった1年前で、突然のことだっただろう。きっと、自分と同じようにろくな話もできなかった可能性が高い。

 それなのに、このタイミングを逃せば、と彼女は言っていた。今回のことの裏にある事情のせいなのだろうか。でも、何かのせいで墓参りすらできないのは悲しすぎやしないか。

 そんなことを考えて明鈴の表情を窺うと、彼女の横顔にいつの間にか寂寥感が染みていた。その様子が少し前までの忠直と被って。

「……俺でよければ付き合いますよ。」

 思わず口をついて出てきた言葉。明鈴が何か思うことがあるようにこちらをじっと見つめてきた。

「いつでも会いに来ましょう。貴女がお父さんに会いたくなったとき、いつでも。」

 くりくりと丸くなるその瞳。不快ではなさそうだが、頭上にはてなマークが浮かんでいる気がして、宵人は慌てて取り繕った。

「すみません。さすがに図々しいですね。」

 これはこの状況下だから同伴を頼まれただけである。終わってしまえば自分はもう用済みだろうから。

「……いえ。ありがとうございます。」

 だけどその声色はどこか嬉しそうで、明鈴の表情を窺ってはみたが今の自分にはその心境を推し量ることができなかった。

 

 その後はもう解散しようという雰囲気になっていたので、駅の方向へと共に歩く。相変わらず監視の目はあったが、今日は動く様子がない。これからだろうか、と宵人がそちらの気配も窺っていると。

「……あれ?」

 ぽつ、と一粒。思わず明鈴と顔を見合わせる。

「そういえば、今日、天気が崩れるって。」

 ひかりに言われたことを今更思い出して、焦ったがもう遅かった。堰を切ったようにすぐに雨足が強まる。

「うわー、やっちまった。この辺コンビニもねえんだよな。」

 自分の上着を脱いで明鈴に差し出す。手短に断りを入れて、きょとんとしている明鈴の頭の上からそれを被せた宵人は彼女の腕を引いた。

「ないよりはマシかと。もう傘を買うより俺の家の方が近いので走りましょう。」

 その提案に明鈴は無言で頷く。それを見届けて宵人は走り出した。



 明鈴の足が予想よりも早かったこともあるが、案外早く家に辿り着いた。とはいえ、ひどい雨だ。2人ともそこそこ濡れてしまった。明鈴を玄関で待たせて風呂を沸かすと、タオルを持って彼女の元に戻る。

「かなり濡れましたね。出先にちゃんと聞いてたのにやっちまった。」

 貸した上着を退けて、明鈴の頭を拭く。きちんと整っていた髪の毛がくしゃくしゃになってしまって申し訳ない。濡れている肌も拭いて、までいったところでふと彼女と目が合う。

 何か言いたげな明鈴。おや、と思った宵人は視線を合わせるようにほんの少し膝を曲げた。

「あの、自分でできますので、貴方はご自分の体を。」

 言われて初めてハッとする。失礼なことをしてしまった。

「うわ!すみません!つい。不愉快でしたよね。」

 完全に無意識ではあったが、気づくと恥ずかしくなって顔が染まる。うわー、やってしまった、とタオルを渡しながら、内心頭を抱えた宵人は何かもご、と口の中で発言した明鈴に気づかない。

「先に風呂使ってください。もう少しで溜まると思うので。」

 恥ずかしさを誤魔化すような笑顔を浮かべつつ、明鈴を中に促す。ちゃんと家を出る前に風呂掃除を終わらせておいてよかった。

「濡れた服は洗濯機に。乾燥が終わるまでは俺の服で我慢してもらうことになります。大丈夫ですか?」

 そういうのがダメな人ではないだろうか、という確認を入れると明鈴は大丈夫だと示すように頷いた。

 簡単に風呂の説明をして、明鈴が中に入ったのを確認してから洗濯機を回す。なんとなく一緒くたにするのは偲びなくて、自分の服は部屋で一旦ハンガーにかけておいた。

 適当に着替えた後、ちゃんと気の利いた飲み物やお茶請けはあっただろうか、と台所を漁る。自分の趣味に寄ったものしかないが、この前買い物に行ったばかりなのでまだ揃っている方だ。それにしてもわりと潤沢にあるのはどうして。

 そこで最近一巳を家に呼んでいないことに気づく。円が戻ってきてからは彼もたまに参加することがあったので、少し前まではそういう嗜好品の消費が速かったのだ。

(……あいつが主任になってから、あんまり飲んでない。)

 相手が忙しくなってしまったというのも大きいが、実際のところは。宵人はため息をついた。いい加減自分をどうにかしなくては。


 適当に掃除をしながら外の様子を窺う。帰ってきたときよりも雨はひどくなっている気がした。

(晩飯のことも考えた方がいいな。でも、女の人を泊めるなんて。)

 そこまで考えてはたと固まる宵人。自分は何か非常に大切なことを見落としてはいないだろうか。そもそも自分と明鈴はどういうことからこんなことを。


「宵人さん。」


 気づかないうちに彼女は風呂を上がっていたようだ。鼻をつく石鹸の香り。なんとなく振り返ってはならない気がする。


「貴方の髪、まだ濡れていますね。」


 首筋にかかった吐息が肩を舐める。宵人はくすぐったさに顔を顰めて、ごくりと唾を飲み下した。蛇に睨まれた蛙になった気分だ。いやに艶かしい女の感触。

 そうだ、この関係、明鈴のとんでもない発言から始まったんだった。この1週間余りにも目まぐるしくて忘れていた。ミスを犯したことに気づいて自分が恨めしくなる。

 するりと服の裾元から手が。女の人の手ってこんなに柔らかかったっけ。後ろからぎゅっと抱き締められた瞬間、生々しく背中に当たる彼女の。

「……やめてください。」

 勝手に血流を巡らせ始める心臓が心底憎い。それを悟られる前に明鈴の手を引き剥がして宵人は振り返った。

 予想通り、一糸纏わぬ彼女と目が合って、ため息が漏れる。

「ああもう。濡れてたから風呂場に押し込んだのに、びちゃびちゃのまま出てこないでください。」

 平常心を装って、話題を逸らすために叱るような口調を使った。そして、あまり見ないようにしながら、彼女の背後に落ちていたバスタオルに手を伸ばす。

 しかし、それを掴むか掴まないかくらいで強引に体重をかけられた宵人は簡単に床に背をつけた。押し倒されたのだ。

 そのまま馬乗りになられて目を見開く。平和ボケした頭が急に危険信号を鳴らし始めた。女の人に襲われる日が来るなんて。

「ッ、明鈴さん、冗談……。」

 やめろと振り解くつもりで彼女を見上げると、明鈴はやけに無機質な表情でこちらを見下ろしていた。その顔を見た途端、振り払おうとしていた嫌な熱がフッと冷める。

「貴方は寝ているだけで大丈夫です。もう何も考えないで。」

 明鈴がグッと腰を曲げて宵人に肉薄した。抵抗されることを予期して済んでのところで彼女は止まる。

 が、宵人は動かなかった。

 予想外の反応に固まった明鈴を、握りしめていたバスタオルで包むようにそのまま彼は抱き締めた。


「明鈴さん、俺、そんなに怯えてる人とする趣味はないよ。」


 その言葉に驚いたのか身じろいだ明鈴の背中をあやすように撫でながら、宵人は続ける。

「襲ったのに怖がってるのはなんで?よく、わからないな。」

 ほんの少しだけ責めるような口調を使ってみる。するとすぐに彼女の体が強張った。

「この前からずっと、貴女は監視されてますよね。どうしてですか?貴女がこんなことをしなければならない理由と関係があるんじゃないですか?」

 話してくれなさそうだとは思った。それでも訊かずにはいられなかったのだ。

 明鈴と1週間程度過ごしてみて、それだけでもこの人が案外素朴な人だということには気づいた。少なくとも突然あんな提案をするような人ではない。

「…………。」

 宵人の質問に明鈴は黙り込んでしまった。その沈黙には困り果てたような色が入り混じっていたので、それ以上責めることはやめておく。追い詰めたかったわけではない。

「……もう少し、自分を大切にしてください。いや、今日に関しては完全に俺の過失なんで申し訳ないですけど。」

 彼女の必死さを知っていながら不注意にも家に連れ込んだのは自分だ。だけど、この一件のお陰でほんの少し、明鈴の抱える事情の歪さが掴めたような気がした。


「雨、止まねえな。」

 窓の外はバケツをひっくり返したような大雨。先程は雷も鳴っていた。ここまでひどいと家に帰すに帰せない。

 あの後明鈴は案外大人しく上から退いてくれた。というか宵人の言葉のどこかが刺さったのか、気まずくなってしまったのか、感情を悟らせないモードに入ってしまって。

 宵人が部屋のものは好きに使ってくれて構わない、と言い置いて風呂に行くときもぼんやりとした返事をされた。

 なんとなくだが、今日はもう迫られることはないだろう。自分を押し倒したときの明鈴の顔はびっくりするくらい青白くて、その体は小刻みに震えていた。こうやって宵人と関わっているのは明鈴の本意ではない気すらしてきて、このまま関係を続けてしまって大丈夫なのかと悩むほど。

(あんなことがあったし、なるべく家に帰してあげたいんだけど。雨止まねえかな。)

 あの反応からして監視のことは知っていたようだが、明鈴はそれによって悩まされているようでもあった。あれが事の元凶か。そして、彼女の口からは話せないこと。

(今度、お嬢さんにでも探りを入れてみるか。)

 そこで浮かんだのは麗佳の顔。明鈴の主人に当たる彼女であれば、何か知っているかもしれない。

 よし、そうしよう、と決めた宵人はリビングに戻った。物音ひとつしなかったので、寝てしまったのだろうか、と思っていたが違う。明鈴は少し予想外のものを手に取っていた。

「それ、気になります?」

 ゆっくりと顔を上げた彼女が持っていたのは楽譜。積み上げていたもののひとつだ。

「……“月の光”。これだけ、やけにくたくたでしたので。」

 印刷してあるのはドビュッシーの『月の光』。端々が黄ばんでしまって、少し折れ曲がっている。それもそうだ。初めて弾いたのは10数年も前だから。

「ピアノ、弾かれるんですか。」

 尋ねてくる彼女の目はどこか好奇心に満ち溢れている。それに対して笑顔を向けつつ頷いた。

「一時期は熱心に。今は、もうお遊び程度ですけど。」

 楽譜を積み上げたその下でカバーをかけられていたのは電子ピアノ。現れたそれに宵人はぽん、と手を置いた。

「酔うと一巳がせがむんですよ。近所迷惑になるから音量小さくして、こっそり“月の光”を弾くんです。」

 今日は月、見えてませんけど。戯けたように言って明鈴の方を振り返ると、彼女は外の様子を確かめるためにカーテンを開いた。相変わらずひどい雨。遠くの空で雷も光った。

「…………今夜は、帰せそうにありませんね。」

 ため息混じりの宵人の言葉。それに反応して振り向いた明鈴が、恐る恐るというように口を開いた。

「よろしいのですか?あんなことをした私を追い出さなくて。」

 自分で言うとは。宵人は苦笑いを浮かべた後、言葉を返した。

「自覚があるなら、ちょっとは事情を話してくれてもいいと思うんですけどね。」

 珍しくわかりやすく苦い表情を浮かべる明鈴。それを見られただけでもまあいいか、と笑って、宵人はクローゼットの扉に手をかける。

「狭い家なんでここで寝ることになりますけど、一応客用布団があるので。もう襲わないでくださいよ。なんて、自分が言う日が来るとは思いませんでした。」

 定期的に一巳が泊まりに来るのでちゃんと布団はこまめに洗濯しておいて良かった。下手をすれば自分のベッドよりも清潔だろう。

 クローゼットからそれを引っ張り出して部屋の端に置く。

「さて、ご飯にしましょう。残念ながら大したものは出せませんけど。」

 

 あり合わせのもので作ったキーマカレーを振る舞うのは気の毒だったが、明鈴は文句ひとつ言わず、というよりもどこかホッとした顔でスプーンを進めていた。

「口に合いました?いや、ほんと、適当に作ったもので申し訳ないんですけど。」

 明鈴の普段の食事の様子など知らないので少々不安だったが、いつもの無表情で首を横に振ってくれる。

「仔細ありません。」

 こういうところを見ていると、彼女は本当に素朴な人のようだ。特段何も気にしていない様子でぱくぱくとカレーを食べている。

「カレールー買っててよかった。兄ちゃんがこれ好きなんです。」

 隼人は家事をする方ではない。宵人の方が母親の手伝いを頼まれる側で、幼い頃はよく「俺は兄ちゃんの奴隷じゃない!」と不満を漏らしたものだ。一人暮らしのときに役立ったので結果オーライだが。

「お兄さんが。仲がよろしいんですね。」

 明鈴が言ったのはそのままの意味だろうが、素直に頷くのはなんとなく憚られて、宵人は苦い表情を浮かべた。

「仲がいいっていうか、なんというか。」

 曖昧な返答は明鈴には通じにくい。途中で気づいて彼女の様子を窺ったときには既に、その頭にはてなマークが浮かんでいた。

「悪い、のですか?」

 やはりうまく伝わらなかった。そうではない。宵人は諦めて首を横に振った。

「いや、いいんですけど、なんか素直に認めたくないとかいう変な意地です。」

 イチから説明すると恥ずかしい。少々頬を染めると、明鈴にはいつものようにじっと見つめられる。

「仲いいです!いいですから、あんま見ないで。恥ずかしい。」

 照れた顔を手で覆うようにすると、くすりと笑われた気配。え、今笑いました?

 だが、顔を上げたときにはもう明鈴はカレーに意識を戻してしまっていて。宵人も気恥ずかしさを残しながらスプーンを手に取ったとき。

「……カレー、美味しいです。」

 ぽつり、と呟くように告げられた。思わず固まって、でも宵人はすぐにニコニコと笑った。

 自分が自炊をする方で良かった、と思いつつテレビの電源を点ける。

「明鈴さん、何見ます?あ、うち映画観れますよ。」

 そう言うと、あまりピンと来ていない顔をされてしまう。その反応を見た宵人はハッとして微笑んだ。

「そういえば、あまり娯楽の類を楽しんだことがないんですっけ。」

 前に言っていたのだ。麗佳による改革の前は、護衛という特殊な立ち位置のため休日も完全に気を抜くわけにはいかなかったとか。

 だから、初めてのデート時にプラネタリウムを提案したときには、どういう施設なのかの説明を求められた上にドレスコードなどを問われて驚いたものだ。

「何がいいかな。自分で見たことなくても、誰かに勧められたものとかあります?」

 訊き方を変えると、思い当たるフシがあったらしい。明鈴の言った作品名を検索バーに打ち込んで……。


「ぎゃぁぁぁあっ!!!」

 キィィィンッぐちゃぐちゃぐちゃ

「うわぁぁぁあっ!!!!!」

 ベチャッ!ぐちぐちぐち、ゴリッゴリッ


 これ、映画初心者に勧めるのやべえだろ。宵人は少々顔を引き攣らせつつ画面を眺めていた。

 明鈴が告げたその映画はキツめのスプラッタホラー。グロい描写のオンパレードでストーリー性の薄い作品。

 宵人はそういう作品がそこまで苦手ではないが、さすがに食事中に観るものではない、と思いながら隣に座る明鈴の様子を窺った。多少顔を顰めたりしているかな、と思ったのだが。

(あれ、楽しそう。)

 彼女は目を輝かせていた。というか齧り付いて観ている。どうやらお眼鏡にかかったらしい。こういうの、好きなのか。

 食べ終わってもじっとその場を動かない明鈴。その様子は何かに夢中になる子どものようで微笑ましい。画面は全く微笑ましくないが。

 宵人は物音を立てないようにそっと食器を下げて、片付けを済ませる。机を拭いて、までしたところで映画はエンドロールに入った。

「……あ、申し訳ありません。」

 使い古した布巾で丁寧に机を拭きあげる宵人に気付いて、明鈴が漏らしたのは間抜けな声。本当に失念していた、というそれに宵人はくすくす笑う。

「いいえ。楽しそうでしたね。面白かったですか?」

 一旦手を止めて明鈴の隣に腰を下ろす。人1人分空けた隙間を眺めつつ、彼女の感想を聞いた。

 あんなに齧り付いて観ていたのに、彼女の口から飛び出した感想は妙に淡々としていて無機質。それがどこか面白くて宵人は楽しげに相槌を打つ。

「へえ、じゃあ映画は夕鈴さんに勧められたものだったんですか?」

 こういうタイプの映画観るのか。いつも何に対してもビクビクしている夕鈴から考えるとむしろ苦手そうなものだが。

「はい。男性と観るならこういうものを選べ、と。」

 瞬時に咽せ返る宵人。しかし明鈴はどうして男性と観るものとして、ホラー映画を勧められたのかまではわかっていないらしく、宵人の反応にきょとんとしている。

「……な、なるほど。いや、まあ、あの齧り付き具合なら問題ありませんけど。」

 先程の明鈴は純粋に映画を楽しんでいるようだったから問題ないだろう。だが。

「それ、他の男性には言わない方がいいですよ。世の中変な奴もいますし、あんた綺麗なんだから。」

 先程の文言を聞けば変な勘違いをする人間もいないとは言えない。とりあえず注意をしておくと、まだよくわかっていなさそうな明鈴は肝に銘じます、と頷いた。

 布巾を洗って戻ってきた宵人は、適当なテレビ番組を流しながらまた明鈴の隣に座った。彼女に手渡したのは温かいレモンティー。柔らかくて明るい茶色が目に優しい。

「レモン、お好きなんですね。」

 マグカップを握り締めながら明鈴はぽつりと呟いた。

「はい。柑橘類が好きで。すみません。今俺の好みに偏ったものしか家にないんです。」

 宵人が眉尻を下げてそう言うと、彼女は複雑そうな顔をして俯く。

「いえ。……謝らなければならないのは私の方ですから。」

 罰の悪そうな顔を見せる明鈴。襲った上に世話になって、といったところだろうか。

「貴方がどうしてこんな提案をしてくださったのか、私にはよくわからないんです。」

 じっとこちらを窺うような目。明鈴の癖だろう。

「私の目的を探るため。そうであることはわかるのですが、貴方が強引にそれを聞き出そうとしたことはありません。」

 マグカップを握ったまま縮こまる彼女はなぜかほんの少し幼く見える。宵人は子どもの一生懸命な言葉を聞くような気持ちで隣に座っていた。

「貴方は私に求めない。命令も、指示もなさいません。それが、すごく。」

 困ります。消え入るような声で悩ましい眼差しを向けられる。

(…………襲われるよりよっぽど……。)

 それが、やけに。余計なことを考えそうだった頭を振って、宵人は見ないフリをした。

「……当たり前です。仕事でもないのに強引なことはしません。命令とか指示とかも、俺は明鈴さんを虐げたいわけじゃありませんから。」

 叱るような口調を使う。心のどこかが波立つような気配。自分に何かを求められている気がして、それは同時に直視してはいけないもののような気がしたのだ。

「別に恋人関係じゃなくても、あんたと何かしらの繋がりが持てればよかったんです。あんな提案してきた人をそのままにしておけないでしょう。心配だ。」

 事情を知りたいのは山々だ。このまま1ヶ月が経って、何も掴めていなければ明鈴の望むように相手をすることになるから。

 でも、無理矢理聞くのはガラじゃない。

「俺に話したくないのは俺のことが信用できないからでしょう。だからこっちのことももう少し知ってください。それで明鈴さんが話をしてくれたら1番いいんですけどね。」

 俺が考えてるのはそのくらいですよ。そう言って微笑むと、ぐるぐると明鈴の目の中で様々な感情が回っていることがわかった。

「……やはり、よく、わかりません。」

 最終的に困ったように言ってレモンティーに口をつける姿は可愛らしい。これは、早めに片を付けなければまずいな、と宵人は苦笑いを浮かべた。




 その翌日。少し早めの朝を過ごして、明鈴を家に送り届けてから出勤した。遅刻ではないが少々遅めの時間。人通りもまばらだ。

 急ぎ足で歩いて、今日やることを頭の中で整理して。比較的ぼんやりとしながら歩いていた宵人は不意にびくりと肩を震わせた。

 今、見られた。明鈴といるときのあの視線のような、いやこれはもっと粘着質な。

 ぞわりと総毛立つ。後ろだ、と慌てて振り返った瞬間に頬が熱くなって、鼻の奥が弾けた。


「お前、昨夜どこにいた!?」


 は?何が起きてんの?


 殴られたことに気づいたのは頭が疑問で満たされてから。目の前に立つ男は目を吊り上げて、フーッフーッと明らかに興奮している息遣い。宵人の胸ぐらを掴む腕は乱暴だ。


 昨夜どこに。いや、家ですけど、その前に。


「あんた、誰だ?」


 怒りや恐怖よりも何よりも、突然知らない人に殴られたことへの戸惑いが先だった。鼻から口に伝う鼻血をそのままに、じんじんと痛み始めた頬に顔を顰める。


「しらばっくれるとはいい度胸だな、この薄汚い溝鼠が。彼女に何をした!?」


 質問には答えずに捲し立ててくる相手を冷静に観察して、宵人の頭の中でいろんなものが組み上がっていく。昨夜。彼女。もしかしてこれ。

「……早岐明鈴さんの関係者ですか?」

 男が眉を顰めた。宵人が本当に何も知らない様子であることに気がついた様子。彼はゆっくりと宵人から手を離し、幾分か落ち着いた様子で口を開いた。

「まさか、何も知らないのか?」

 頷く宵人を見て、男は何か考え込むように目を伏せる。その間に宵人は相手を観察した。

 仕立ての良いスーツにほんのり香る男物の香水。とんがった靴はよく磨かれていて、チラリと覗いた腕時計はブランドもの。それらに着られていない程度には品のいい男だ。

 偏見だが、少々プライドの高そうな顔をしていて、オールバックにセットした髪の毛には一点の乱れもない。全身から満ち溢れる自信。

 しかし、宵人が気になったのは彼の奥。『力』の色と質。この男も『異能者』だ。

(……なんだ、こいつ。やべえ。)

 思わず顔を顰めた。彼の『力』はすごく粘っこくて、汚い川のヘリにこびりついている苔のような色。着飾った奥の人間性がここまで歪んで視えるのも珍しい。

 背中に浮いた脂汗。対面しているだけでもあまり気持ちのいい相手ではない。詳しく話を聞きたいところだが、体が完全に拒絶反応を起こしていた。

「……突然、申し訳ありませんでした。“婚約者”のこととあって、取り乱しました。」

 男の声で我に返る。いつの間にかぺこりと簡素に頭を下げられていた。

 ああ、いえ。なんて曖昧な返事をして、彼の言ったことを頭の中で噛み砕く。婚約者?

「貴方は何も知らなかったようですね。うちの明鈴がご迷惑をおかけしました。」

 随分な手のひら返しだとは思いながらも特に余計なことは言わず、淡々と流す。これは、明鈴に訊かなければならないことが増えた。

「つかぬことを伺いますが、明鈴とはどういうご関係ですか?」

 ふと、そう訊かれて、宵人は固まった。この男の話を信じるならば、明鈴は彼の婚約者。その人に恋人の真似事をやらせています。なんて言えるわけがない。

「……親しい友人です。たぶん、俺と彼女の間に貴方が心配するようなことはありません。」

 ここ最近のことを考えればそれは嘘まみれのような気もしたが、宵人の中では比較的正しい認識であった。

 このあたりで頭が冷えてきた宵人。目の前の男は最初に昨夜のことを訊いてきた。そのことでハッとする。もしや、こいつ。

「特に友人の範疇を超える付き合いはしてません。食事に行った程度ですよ。昨夜は雨宿りをしていただけです。」

 その言葉に相手が眉を顰めたのを見て、ぼんやりしていた疑惑がきちんと形を帯びていく。

「では、昨夜は何もなかったのですか?」

 男のそれはほぼ確信を得られる言葉だった。宵人は丁寧な返事をしながら頭の中でぐるぐると考えを巡らせる。

「はい。……あの、俺もまだ混乱してて。早岐さんに確認を取りたいので貴方のお名前を伺っておいてよろしいでしょうか。」

 明鈴を言い訳にして、男の素性を探る。案外無防備に名刺を渡してくれた。そこに後ろ暗いところはないらしい。

「今日は本当に申し訳なかった。私は真中まなか 東弥とうやと申します。慰謝料等の請求もしていただいて構いません。」

 名刺に記載されている名前に偽りはなく、書いてある会社名、というか役職が。

(……代表取締役……。)

 なるほど、と頷く。仕立てのいいスーツも自信に溢れたその姿も実力によるものだ。こんな人が婚約者。

「ただ、私から一つだけお願いがあって。」

 宵人を何も知らないと断定したらしい彼は下手に出る方向に決めたらしい。急に物腰が柔らかくなる。

「明鈴との交際を控えていただきたい。実はやっと結婚の話に進みまして。今、何か不都合が起こるのは困るのです。」

 この一言で明鈴の起こした突飛な行動の理由がわかった気がした。宵人は気づかれないようにため息をついて、応じるように頷く。

「……わかりました。だけどあと一度、彼女と会うことを許してもらえますか?もう既に約束してて。それを反故にするのは気になりますから。」

 出した条件に一瞬渋る様子を見せた東弥だが、すぐににこりと微笑んで構いませんと言ってくれた。

「では、出勤前にすみませんでした。」

 もう一度頭を下げて背を向けた東弥をじっと見て、宵人は頬を引き攣らせた。


(めちゃくちゃ怖かった……。)


 男の姿が完全に見えなくなって、車が去ってから宵人はそこにしゃがみ込む。

 なんと言い表しようもないあの濃密な嫌な気配。あの類の『力』は父親が死んだときのことを思い出させる。父の体にこびりつく何者かの執着、彼の息の根を止めてもなお粘ついて離れなかったあの気配。

(……あ、やべ。)

 心拍数が上がってきた。体が強張る。嫌な汗がぽたぽたと滴った。

 人が死ぬときの色。あれはもっとどす黒く、鼻を満たすような、心臓に纏わりつくような。

 考えるな、と首を横に振る。でも体が泥のように重たくなってくる。嫌だ、もう、平気なはずなのに。


「御厨さん?お、おい、どうしたんすか?」


 慌てたような青年の声。それで我に返った宵人は顔を上げた。

 自分を心配げに覗き込んでいるのは円だ。彼はおろおろと手を差し出そうか出すまいか悩んでいる。その仕草に思わず笑みが漏れた。

「……悪い、柴谷。手、貸してくんね?」

 おずおず差し出された円の手に甘えてなんとか立ち上がる。情けなく膝が笑っていた。

「ありがとう、助かった。」

 笑顔を向けても円は不安そうで、手を握ったまま離さない。それもそのはず。宵人の顔は真っ白だったから。

「と、とりあえず、これ。」

 だけど意思の疎通が取れることに安心したらしい円は、宵人にお茶のペットボトルを握らせた。素直に甘えて口をつけると、だんだん体に血が通うのを感じられる。そのことにホッと息をついた宵人は、円に向かって頭を下げた。

「ごめんな、朝から醜態晒して。まめが通りかかってくれてほんと助かった。」

 円の背筋がピンと伸びる。あ、嬉しそう。でもすぐにまた心配そうにしてくれる部下は可愛らしかった。

「行くか。もう遅刻ギリギリ。」

 そう円を促すと、2人は並んで事務所へ向かった。


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