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Lemonade  作者: 洋巳 明
1/8

1話 無表情な彼女


 それは、兎美が忠直の元を去ってから数ヶ月後のこと。季節は春。新たな年度に人々が心を躍らせる中、御厨宵人みくりやよいとは何かを憂うように目の前の高い門を見上げた。

 午前10時。定刻ぴったりに彼はそこを出てくる。自分の出てきた方向に向かってぴっちり90°の礼。一見ふざけているように見えるくせに、こういうところ、ムカつく。


「お迎え、ご苦労!」


 顔を上げた彼は背後に控えていた宵人の方を見てニカッと笑う。幾分かいい顔になったんじゃねえの。片方だけ口の端を上げて、宵人は肩をすくめた。


「お勤めご苦労さん、クソ兄貴。」


 冗談めかしてそう言うと、笑えねえなと隼人は笑った。



「ん、おはよう御厨。」

 事務所を訪れると、宵人の上司である永坂忠直が1人ぽつんと作業をしていた。挨拶を返して荷物を下ろし、宵人は忠直の方へ向かう。今朝方兄の迎えに行ったことで、今日の彼は午後からの出勤だったのだ。

「隼人はどうだった?その様子だと変わりなかったみたいだが。」

 機嫌がいいのを見抜かれたのは恥ずかしいが、その通りなので否定しない。母親も似たようなものだった。

「はい。相変わらず飄々としてました。……ちゃんと反省もしてるみたいですよ。」

 付け加えると忠直は微笑んだ。彼の中でも隼人の印象は昔からブレていないのだろう。

「あくまでも仮釈放だが、隼人なら大丈夫だろう。しばらくは家にいるのか?」

 訊かれて頷く。兄はこれから実家の花屋で働く予定。もう黙ってどこかに行くようなことはするな、と宵人にも母親のひかりにも口酸っぱく言われたので、しばらくは大人しくしてくれるはずだ。

「そうか。なら、今度顔を見に行くと伝えておいてくれ。積もる話も、聞きたいこともある。」

 わかりました、と返事をして、じっと上司のことを見つめた。兎美が去ってから数週間は、ほんの少しだけいつもと違う寂しさを纏っていた彼だが、今ではもうすっかり落ち着きを取り戻している。

 今年度から正式に岸から仕事を引き継ぎ、“課長”に昇進した忠直は業務自体はそう変わらないが、前線に出ることは減っていた。そのおかげか、常に顔に滲んでいた疲労感も多少マシになっている。

 だが、そんな彼にも少し変わった点がある。

「まだ旭さんの『力』、安定しないんですか?」

 宵人は忠直のデスクに乗っている黒い手袋を見つめながら尋ねた。

 そう。兎美がいなくなってから、忠直の中に残された彼女の『力』の制御が効かなくなってしまったのだ。宵人の目には忠直の体に充満する兎美の色が視えている。

 別に日常生活を送る分には問題ないのだが。

「ああ。まだ、この手袋に頼らなければ自分の『異能』が使えない。」

 そう。兎美の『力』に邪魔されて、忠直自身の『力』が外に出せなくなってしまったらしい。

 そこで、“発明課”の課長である安保八千代に頼んで、手袋を特注したのだ。これがあれば制御が効くようになる。

「だが昇進して、書類仕事が増えたからそこまで困ってはいない。気にするな。」

 そうですね、と頷きつつも宵人は気になっていた。今のところ問題はないから見守るに留めているが、いつか何か起こるような、もう起こっているような。

 それでも忠直が気にするな、と言うので深く追求はしない。彼と兎美にまつわる話は既に特務課のメンバー全員が聞いた。それにより、忠直が何かしら1人で動いていることも知っているから。

「書類仕事だからといって、根は詰めないでくださいね。それこそ旭さんに怒られる。」

 だからそれとなく嗜めておく。いつかどこかで彼が踏み外さないように。

 忠直は怒られてしまった、と笑ってパソコンに向き直った。宵人もそれを見て自分の仕事を始めた。


 ここ2、3ヶ月で、局はとある事件の対応に追われていた。それは、『異能者』が『力』を暴発させる事件。

 それ自体はあまり珍しいことではない。どうしても制御が難しいこの『力』という物質は、使いこなすことのできない人間がほとんどだから。

 だけど、今回起こった事件に関しては規模が大きいのだ。怪我人も多く出ている。

 これに関しては『捜査課』の管轄であって、本来事件の初期に駆り出される『特務課』の仕事ではないのだが、宵人の目の能力が買われて、最近はずっと彼はそちらの方で仕事をしている。

「申し訳ありません。遅くなりました。」

 捜査課のドアを開ける。中にいたのはしまという捜査課の職員。彼は養成学校時代の宵人の同期である。

「あれ?嶋1人?」

 他の職員はほとんど出払ってしまっていた。尋ねると彼は頷く。

「さっき、出動命令があった。また、だ。」

 また、とは、たぶんこれで数度目になる事件が起こったらしい。ほとんどの職員はそれで現場に駆り出されていった、と。

「マジか。現場は?」

 確認を取ると、嶋にきょとんとした顔を向けられる。怪訝な顔をした宵人に嶋は言った。

「え、御厨も行くの?」

 間の抜けた問いかけに思わず顔を顰める。

「バカ、行くに決まってんだろ。」

 現場を視なければわからないことは多い。つい最近捜査本部に加わった宵人からすれば好都合だ。

 宵人に叱られる形になって現場のことが気になったらしい嶋も引き連れて、宵人は車を走らせた。


 そこは、とあるビルの前。現場の整理は進んでいて、人通りもまばらになっていた。

 今回『力』を暴発させたのは、30代のサラリーマン。この目の前のビルで働いていたようだ。

 中で事を起こさなくてよかったな、と思いながら拘束されている男の様子を見る。そこで宵人はむ、という顔になって近くにいた嶋を呼んだ。

「嶋、G以上で縛り直して。このままだと危ない。」

 言いながら『異能封じ』を渡す。この縄はAからZまでの等級があり、それによって封じられる『力』の濃度が変わってくる。あまりに低くて柔らかいものだと、等級が上の相手に対しては千切られてしまうことがあるのだ。

「報告の濃度だと、これで問題ねえはずだけど。」

 また顔を顰める。課が違うと、自分が常識だと思っていたことが通用しないこともままあるから。

「暴走状態に至った相手は、2つ上の等級で縛った方がいい。今回もそう。」

 端的に述べると嶋は感心したように頷く。彼にそこを任せている間、宵人はその『力』の跡を追った。

(現場はここで間違いないな。彼の『力』も間違いない。だけど、これは、何か“混ざってる”?)

 透き通った色の中に黒い斑点。悪事を犯す人間の『力』の色は濁ることがある。しかし、これは少し違うようだ。濁るというより、何者かの『力』が点在しているような感じ。

 今までの被疑者たちはこうではなかった。みんなそれぞれに淀みを持っていて、良くないな、と思えたのだが。

(もしかするとこれは……。いや、あくまでも可能性の話だな。)

 1つ1つ気になる事項を押さえながら現場を彷徨く。捜査課や総務課の話も聞きながら自分の中で仮説を組み立てていった。

 隈なく周囲を見て回って、他の人間の『力』の痕跡がないことを確かめて、大体宵人の中で答えが固まったそのとき、ふと背筋を嫌な気配が舐める。

 ほとんど反射でその気配の方を振り返る。その『力』の残滓が目に入った瞬間、ゾワゾワゾワッと肌が粟立った。

(……何、だ?)

 濁っていて、醜い。宵人は慌ててその跡を追う。胸のあたりのムカつきを無視して走った。心臓が嫌な感じで早鐘を打つ。


(あの『力』、すげえ、“あれ”に似て……。)


 それは、秋と冬の入り混じる寂しい夕暮れ時。彼の体に充満する、どす黒く、濁り切ったあの。


「おい!御厨!」


 後ろから肩を掴まれて宵人は立ち止まった。恐る恐る振り向くと、そこには嶋が。息を切らしているので、たぶん走って追ってきたのだろう。というか、自分も息が、心拍数が上がっている。

「どこ、行くんだよ。もう、先輩たちは撤収だって。」

 撤収。だんだん落ち着いてきて自分の周りを確認すると、もう少しで車道に出るところだった。よく見れば宵人の追ってきた『力』もそこで細くなっている。車にでも乗ったのだろう。

「……悪りぃ。重要参考人な気がしたんだけど。」

 細いといえどまだその『力』は視えている。追えないことはないが、自分の勘が追うな、と叫んでいたのでそこはぐっと踏みとどまった。

「いや、ごめん。忘れて。とりあえず今日わかったこと報告しないとな。」

 そう告げると嶋は深く頷いて、来た道を戻り始める。宵人もその背を追いながら、心臓に纏わりついた嫌な気配が、いつか視ないフリをした何かを呼び起こそうとするのを無視した。



「よ。よいっちゃんおつかれ〜。」

 宵人が事務所に戻ったのは、空で橙と紫の混じり始めてから。今日のことで事件は進展しそうだったので、少々粘って捜査課の職員と話し込んでいたのだ。

 明かりが点いていたので忠直かと思ったのだが、残っていたのは一巳。その顔に少し安堵を覚えて宵人は彼の近くに椅子を寄せて座った。

「お前が残ってんの珍しい。何?新主任さんは忙しいの?」

 イジる体で尋ねると顔を顰められてしまう。宵人は笑いながら立ち上がって、彼の分もコーヒーを淹れた。

「慣れないことも多くてね。てか、元主任が厳しいんだよ。見て、この量。馬鹿なの?あの人。」

 一巳に示された方向を見ると、処理の終わっていない山積みの仕事。ご愁傷様、と笑って宵人はコーヒーを啜る。

 去年の11月頃に下った辞令で忠直が課長になったのに連なって、一巳も主任に昇進した。引き継ぎやら何やらで忙しくなった彼とゆっくり話す機会はこのところ少なく、いつも通りに話せていることがすごく落ち着く。相手もそのようであった。

「はー、やめやめ。残業したって捗んないし。明日やろう。」

 明日やろうは馬鹿野郎だぞ、と揚げ足を取ると露骨に嫌そうな顔。宵人は口角を上げつつ、ふう、とため息をついた。

「……何?飲む?」

 そのため息に反応して一巳が割と真面目なトーンで訊いてくる。一瞬悩んだが、首は横に振った。

「やめとく。明日からちょっと忙しくなりそう。」

 忙しいのは案外好きなのだ。別に疲れたわけではない。宵人がため息をついたのは別の理由。

「何だよ、付き合い悪りーの。上司の酒が飲めねえってか。」

 ふざけて言われた言葉に乾いた笑いを見せる。一巳が不快そうな顔をしたことには気づいたが、どうしようもない。

「……フン。ま、いいけど。忙しくなるなら、そのコーヒー飲んでさっさと帰れ。」

 しっしっと手で追い払われてしまった。軽く笑って言われた通りにコーヒーを飲み干して立ち上がる。どうにも話を続けていると余計なことを言ってしまいそうだ。

「一巳、まだ残るなら戸締まりよろしくな。上司命令は素直に聞いとく。」

 荷物を持って一巳の方を見ると、彼はわかっている、というように頷いた。が、それに安堵して背を向けた瞬間、思い出したかのように告げられる。

「あ、そうそう。麗佳の馬鹿が何か連絡してきたら無視してね。身内のことは身内で処理したいから。」

 え、と振り返るが、そのときにはもう一巳の意識は宵人から逸れていて、『深くは訊くな』と示していた。



 一巳に気になることを言われたものの、麗佳からの連絡は入っていない。なんだ。買い物袋を抱えて家に帰った宵人は、ぐでえ、とソファに上半身を預けた。

 なんとなく、それとなく。そんな感じの疲労がふつふつと溜まっていて、体が怠い。その原因がわかっていることが尚更キツい。

 今年度が始まって、忠直が課長になり、一巳が主任になった。兎美がいなくなったことで、杷子は何かしらの覚悟を決めたようだし、今年から2年目になる円もまだまだやることの多さに目を輝かせている。

 自分、だけ。自分だけ立ち止まっている。そう感じて宵人は最近ずっと憂鬱な気分に駆られている。

 特務課に入ってからもう6年目に差し掛かった。仕事には慣れて、でも自分の伸び代がわからなくなってきて。

 こうなっている原因が情けなさすぎることにも辟易している。どうにかしなくては。

 そう思いながら日々仕事をこなすことにはとても疲れた。

(……瞼閉じちまったらこのまま寝そう。風呂には入らねえと。)

 怠い体を叩き起こして風呂を沸かすために立ち上がる。くい、と背伸びをして、自分の頬をペチペチと叩いた。立ち止まっていたって時は待ってくれない。

 そう自分を奮い立たせながら着替えようとワイシャツに手をかけたところで。


 ピンポーン


 インターホンが鳴った。外そうとしていたボタンを弄ったまま固まって、ぎこちない動きで時計を確認する。時刻は夜の9時。約束も無しに人が訪ねてくるには少々遅い気が。

 そう思ったが電気が点いているため、居留守も通用しないだろう。宵人は恐る恐るインターホンのディスプレイを確認した。

 暗くて最初は見えなかったが、よく見るとそこに写っていたのは知り合いの顔。おや、と思った宵人は急いで外の電気を点けてドアを開けた。


「こんばんは、明鈴さん。」


 そこに立っていたのは早岐明鈴。一巳の義姉で、彼の妹に当たる麗佳の護衛を務めている女性。

 私服姿は初めて見たが、いつもはスーツ姿なので、ラフな格好をしているだけで少しだけ印象が違う。

「こんばんは、御厨宵人さん。」

 ぺこり、と頭を下げられた。宵人もそれに返すように頭を下げて、何の警戒心も含んでいない声色で尋ねる。

「こんな時間にどうされましたか?」

 訊きながら彼女の周囲を窺うが、主人である麗佳や双子の妹である夕鈴の姿は見当たらない。どうやら今日は明鈴の個人的な用事でここを訪れたらしい。

「貴方にお願いしたいことがあって。」

 はあ。このときの自分はだいぶ間抜けな顔をしていただろう。そのお願いがどんなことなのかを知らなかったから。

「俺にできることであれば協力しますよ。一体何を……。」


「私と性交渉をしていただけますか?」


 せ。…………。


「……は?」


 宵人の口から非常に間抜けな声が漏れる。目の前の明鈴は眉一つ動かさずにじっと宵人のことを見ている。


「…………すみません、何ですか?」


 思わず眉間を押さえつつ聞き返す。たぶん、聞き間違いだろう。こんな綺麗な人の口からそんな単語。


「私と、(ピー)してくれますか?」


 規制音入っちゃったじゃん。言わせた形になって、宵人はついに頭を抱えた。


「……酔ってます?」


 明鈴の目は全く潤んでいないし、顔も赤くなっていないし、足もしっかりしているし、なんなら1ミリも表情は動いていないが、これが彼女の泥酔状態なのかもしれない。いや、きっとそうだ。酔ったついでに弟の友達でも揶揄いたくなったのだ。


「いえ。飲酒はしておりません。」

 

 淡々と否定されてしまった。素面の方がよっぽど冗談キツい。


「じゃあ、夢遊病の類の疾患は……。」


「ありません。」


「だ、誰かが化けてます?それで俺を揶揄いに。」


「その是非は貴方が1番おわかりのはずです。」


 まったくふざけている様子のない明鈴。疲れている頭に本当に勘弁してほしいが、どうやら真剣なお願いのようだ。

「……とりあえず本気なのはわかりました。その上でお断りします。」

 はっきり告げたが、明鈴は動かない。宵人を真っ直ぐに見つめたまま。宵人はため息を吐きながら、ほんの少し怒ったように言った。

「一夜限りだとか、その場のノリで、とかそういう無責任なの向いてないんです。後腐れない相手がいいなら他所を当たってください。」

 その言葉にはさすがに明鈴も目を伏せる。だけど表情は一定で、それがすごく怖い。考えていることが窺い知れなかった。

「……それでも、貴方でなければなりません。」

 こちらを見上げてくる目は吸い込まれそうなほどに深い。真剣なその眼差しに胸の奥が変な疼き方をする。いや、本当に冗談キツい。

「俺にこだわる理由は?すみません、貴女が何をしたいのかがよくわからなくて。」

 帰ってください、と突き放しても良かったのだが、尋常ではない様子なのでとりあえず聞き出せることは聞いておこう。何か、大変な事情が。


「貴方の子どもが欲しくて。」


「…………は?」


 頭が痛くなってきた。尚更無責任は駄目だろう。というか、なんでそんなこと。

「……明鈴さんは俺のことが好きなんですか?」

 この流れで訊くには少々間の抜けた質問だとは思ったが、断る理由を探すように彼女の事情に分け入っていく。

「…………違います。」

 

「じゃあ、俺が1番そういう相手として都合がよかった、とか?」


「それは違います。」


「誰かの代わり、とか?」


「違います。」


「結婚とか異性に興味はないけど子どもは欲しい、って考え方ですか?」


「いえ。そういうわけではありません。」

 

 その後も似たような質問を投げてみたが彼女のしたいことはわからない。だけど、突き放すには何か抱えていそうで。

「……大体わかりました。とりあえず俺とじゃなきゃ駄目な理由があって、貴女は子どもが欲しい。」

 確認を取るように尋ねると、明鈴はこくん、と頷いた。

「それはやむに止まれぬ事情があるから、とかですか?俺には貴女が男を食い物にするような人間には見えない。」

 それには頷いてくれない。宵人はため息をついて、一応尋ねておく。

「その事情を俺に話しておく気はありませんか?」

 明鈴はぴたりと静止して動かない。話す気はないらしい。あくまでも宵人を何かしらの事情に巻き込みたくはない。そんな感情が読み取れた。

「……わかりました。」

 一巳が言っていた『身内』という単語が頭の中をぐるんぐるん巡る。たぶん、明鈴のこれと一巳のそれは同じものが裏にある。

「事情がわからないまま、貴女に無責任に手を出せません。この話はなかったことにしましょう。」

 その前の段階まではまだ考えようもあるかもしれないが、子どもとなると中途半端なことはできない。だからはっきりと告げると、明鈴は目を伏せた。

「……承知致しました。」

 彼女はぺこりと最初のように頭を下げて宵人に背を向ける。

「あ、待って。」

 しかし宵人が呼び止めた。不思議そうに振り返った明鈴に向かって、気まずさを覚えつつ彼は言った。

「さすがにこの暗い中、1人で歩かせるわけにはいきません。どうやって来られました?送ります。」

 明鈴がじっとこちらを見ている。さすがに気まずいだろうか。断られればそれまで、とは思ったのだが。

「……ありがとうございます。」

 淡々と言われたのに、その中に何かしらの感情が入り混じっている気がして。少しだけ悪いことをしたな、と思っていた。



「女の人が子どもを産みたいって思うのってどういう相手?」

 翌日の昼休み。宵人は杷子を誘って局の近くの喫茶店でランチをしていた。もちろん、昨日のことを相談するためだ。普段は何か起こったら真っ先に一巳に相談するのだが、相手が相手なだけに彼や忠直に頼るのは避けた。

 宵人の質問に杷子は怪訝な顔をする。気心の知れた彼女のことだ。たぶん面倒事の匂いを察したのだろう。

「それは大抵の場合は好きな相手だと思われますけど……あの、大丈夫ですか?美人局つつもたせとか……。」

 普通に心配されてしまった。宵人はどうにもならない気恥ずかしさに眉間を押さえる。

「美人局ではないと思う。まあ、あの、掘り下げないでもらえるとありがたい。」

 そうですか、と言ってくれたもののまだ心配そうな杷子。しかし、掘り下げられても大半がわからないことだらけなのでどうしようもないのは事実である。

「話を続けると、他には『異能者』の社会だと優秀な異能とか珍しい異能を持った子が欲しい、っていうこともありますね。」

 それはあまりろくなことにならないことが多く、揉めて局に案件として舞い込んでくることもたまにある程度には問題視されているケース。宵人もその線は一応考えた。

「そのくらいでしょうか。あ、単純に子どもは好きだけど相手はいらないっていう方もたまにいますよね。」

 それは昨夜訊いて否定されたこと。でも、考慮するのは無駄ではないだろう。だけど。

「……うん、やっぱそんな感じだよなぁ。そうなんだけど、でもどれも違う気がする。てかよくわかんない。」

 自分の勘が違うと告げている。昨夜の明鈴はなんというか、“理性的”ではなかった気がして、彼女の奥の本音が読み取れていればごく単純な感情に基づくものだった気がするのだ。

「ちなみにそれ、誰に言われたんですか?あ、名前を出せってことじゃなくて、どういう関係の方に。」

 杷子の手先でくるくると巻かれるジェノベーゼのまろい緑を眺めながら宵人はため息をついた。

「知り合い、ってところかな。池田も知ってると思うけど俺に今、彼女はいない。」

 麗佳は知り合い、と呼称するよりも友人の方が適していると思うのだが、明鈴とは深く関わったわけではない。本当に知り合いという距離感がぴったりな相手。

「知り合い程度の人に、子どもが欲しい、なんて頼むと思う?それも美人局ではなさそうで、揶揄われたわけでもなかった。」

 だからなんとなく納得いかない。後腐れのない人間ならもっと知らない人物を、信用のおける相手ならもっと近しい人物を選ばないだろうか。宵人の立ち位置は微妙すぎる。

「会話の流れはどんな感じだったんですか?まさか迫られた、とか?」

 いやいやいや。宵人は首を横にブンブンと振った。

「淡々とお願いされた。断ったらすんなり引き下がってくれたけど。」

 あ、断ったんですね。杷子がふむふむと頷きながらフォークを口に運ぶ。

「何か前触れとかありました?連絡が多くなった、とかちょっと前に偶然会った、とか。」

 そんなことは別になかった。昨日急に家に来て、さらっと帰って行った。そんな感じだ。

「本当に突然の出来事だったんだぞ。だから俺もはっきり断りはしたんだけど、あの人が何を思ってそんなこと頼んできたのかが無性に気になって。」

 何を思って、という言葉に杷子の目がキラリと光る。

「うーん、案外すごく単純に先輩のことが好きだったから、とかじゃないんですかね。」

 半分くらいは冗談めかして言われた。いやいやいや。宵人はまた首を強く横に振って否定する。

「知り合い程度の人なんだぞ?そこまで話したこともないし、突然来てそんなこと頼まれるほど惚れられるきっかけがねえよ。」

 おかしなことを言ったつもりはなかったのに、杷子には怪訝な顔をされてしまった。え、何その表情。

「突然だったのは先輩にとってだけだったのかもしれませんよ。」

 含めるように言われて考えてみる。明鈴の顔を思い浮かべて、その表情を加味して。

「…………いや、やっぱそれはなさそう。」

 どの可能性を考えるにもあまりにも材料が少ない。宵人はため息をついて、カラカラ、とアイスコーヒーの氷を鳴らした。黒い液面が光に照らされて深い赤や茶に揺らめく。

「きっと何かに困ってたんだろうけど、話したくなさそうにしてた以上、俺はもう忘れるべきかな。……もう少し知りたかった。」

 店内の人間の色を視たくなくて視線を外に逃がす。2階にあるこの店からは海が臨めて、そこは静かに揺蕩う青が穏やかだ。

「なら、それを今度は伝えてみたらどうですか?」

 杷子がさらりと言った言葉に反応して、宵人は彼女の方を見る。食べ終わった皿にご馳走様でした、と告げた彼女は笑った。

「貴女のこと、もう少し知らないとどうにもなりませんって。いっそ、ほら、期間限定でお付き合いしてみるとかどうです?」

 最後のそれは杷子にとっては冗談のつもりのようだったが、悪くないかも知れない。と、思いかけて首を横に振る宵人。

「いや、もう断っちゃったし、後の祭りだな。……気にはなるけど忘れることにする。」

 少々モヤモヤするが致し方あるまい。話を聞いてくれてありがとう、と杷子に言って、2人で局に戻るのだった。




 杷子とそんな会話をした1週間後の夜である。


 ピンポーン


 また、だ。また9時ぴったりにインターホンが鳴った。

 もう時計を確認する必要もない。絶対に彼女だ。

 それでも祈りながらディスプレイを確認して、変な悲鳴を漏らしてしまう。そこに立っていたのはやはり明鈴。大人しく宵人がドアを開けるのを待っている。


「……こ、こんばんは、明鈴さん。」


「こんばんは。」


 すっかり聞き慣れてしまった抑揚のない声。でも見慣れてきたその顔が申し訳なさそうにしていることには最近気づいた。

 ここのところ明鈴は毎日ここに通っている。杷子に相談したその夜も、またその次の夜も。彼女は決まって9時にここを訪れ、宵人に振られて帰っていく。

 今日でちょうど記念すべき1週間目。これはもうとっておきの酒を開けるしかない。

「……連日、申し訳ありません。」

 宵人の表情を見た明鈴がそっと目を伏せる。彼は疲れた顔をしていた。それも体力的に、というよりは気疲れ。

「謝るけどここに来た、ってことは引く気はないんでしょう。」

 半分なじるように言うと、明鈴はしゅん、と落ち込んだような気配。1週間も同じ問答を続けていれば、ほとんど表情の変化のない彼女の感情の機微もほんの少しだけわかるようになった。

「貴方でなければ意味がありませんので。」

 それはどうしてなのか、とは何度も訊いた。だけど納得のいく回答を得られたことはない。

 だから、もし今日も明鈴が来たら言おうと思っていたのだ。

「わかりました。」

 ずっと表情を堅くしていた明鈴が一瞬目を見開く。彼から初めて前向きな言葉が出てきたから。

「貴女に相談があります。中にどうぞ。」

 

 

 キッチンで2つのマグカップを用意して、宵人は片方を明鈴に渡した。中身はレモネード。苦手でないことは確認済みだ。

「それで、相談というのは?」

 明鈴と対面して座る。改めて見ると綺麗な人だ。こんな人にとんでもないお願いをされているなんて、普通の人は信じないだろう。

 そんなことを考えながら宵人は口を開いた。

「俺に時間をくれませんか?」

 どういうことだ、とでも言うように見つめられる。無言ではあるが、続きを促されているのだ。

「なんというか、そういう行為を強いるほど、俺は明鈴さんのことをよく知りません。だから、……。」

 その話の最中、明鈴が差し出してきたものを見て宵人は口を開けたまま固まった。

 示された書類は婦人科の診断書。どこにも異常はない。

「私に男性経験はありません。病気や生殖能の類に異常もありませんでした。貴方に特殊な嗜好等があるようでしたら、それに対応することに抵抗はございません。」

 それを証明するためにこんなものを用意していた、と。いや、確かに知らなかったが、そういう“知らない”じゃなくって。

 うわあ、とドン引きしつつ、頭のどこかでなんでこの人はここまでしてくるのだろうと疑問にも思った。

「早岐明鈴。A型、年齢は27歳です。食べ物の好き嫌いはありません。貴方が私の要求に応じてくださるならば、私は何を強いられても構いません。貴方の従順な人形になることも可能です。」

 淡々と何かを読み上げるような不気味な無機質さ。少々気持ち悪いぐらいだ。これはその場凌ぎの冗談なんかではない。たぶん、予見家がしてきたことを鑑みれば本気で何でも。宵人は眉を顰めた。

 明鈴が腰を上げて、宵人に肉薄する。ずいっと近くなる距離。花のような独特なすっきりした甘い香りが鼻腔をくすぐった。

「私のこと、わかりましたか?」

 する、と誘うように明鈴の白い手が手に重なる。このままなし崩しでもアリ、と。


「いえ。まったく。」


 だけど、存外自分の頭が冷めていることに宵人は驚いていた。こんな綺麗な人に近づかれて、直々のお誘いをいただいているのに。

(……この人、心を殺すことに長けてるな。)

 その原因はわかっている。職業病だ。彼女の動向で、頭が仕事モードに切り替わった。

 いつの間にか明鈴の目から、玄関先ではチラチラと覗いていた感情が消えている。これは、本音を殺した人間の顔。どんな理不尽にも耐えられるような訓練を受けていた組織犯罪の幹部に関わった際に見たことがある。

 そういうのを突き崩すのは一巳の方が得意なのだが。

「俺が知りたいのはもっと奥の方です。表面的なことじゃありません。」

 重なった手はあえて振り解かずに絡め取ってみる。じっと明鈴の反応を窺ってみると、彼女が少しだけ綻んだ。

(こちらから動かれるとは思ってなかった顔だな。)

 宵人はふむ、と頷いて続けた。

「1ヶ月、お付き合いをしてみませんか?貴女のことをちゃんと知りたい。それが終わったら、俺も貴女に従います。」

 ぎゅっと握った手に力を込めてみる。明鈴はどういう顔を。

(……ん?)

 はっきりと目を逸らされたのは初めてだ。あんな要求を堂々としてきた女性だとは思えない。

 そのままじっと彼女のことを観察してみる。その視線に気づいた明鈴はスッと表情を正して感情を隠してしまった。

「……承知致しました。1ヶ月、貴方と恋人の真似事をすれば私に応じてくれるのですね?」

 確認を取られて一瞬躊躇う。もし、この1ヶ月で何の情報も得られずに説得ができなければ、彼女の成因不明の提案に乗らなければならなくなる。

「はい。それで大丈夫です。」

 だけど、なぜだろうか。この人のことを放っておけなかった。1週間もここに通い詰めて、自分にとんでもない要求をしてきたその心に興味があったのかもしれない。

 そういうわけで、1ヶ月の仮面恋人期間が始まったのである。

 

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