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飛び降り自殺

作者: 小野華茶

 

 辺りはすっかり暗く、頬を撫でる風はもう随分と冷たくなった。

 


 街に灯る星の数ほどの明かりは光の洪水となって夜の空へと駆け抜けていて、数々の並んだ光の点は自分たちの意思で道を定めてあちこちへと走っている。

 


 それも男の目下で。



 こんな絶景を眺めたのなら、10人に8人は思わず感嘆の声を上げるだろうが、この男に限ってはそんなことはない。



 絶景から目を離し足元へと視線を移せば、自分の靴下を履いた足と直ぐ後ろには綺麗に揃えられた革靴。

 


 一歩先は崖、親指の先端に至っては少しはがり宙を浮いていた。

 


 男は高層ビルの屋上、一番外側の一段高い縁石の角に立っていた。

 

 ここなら他人に迷惑の掛からない場所へと落ちることが出来る。



「あなたは何故そこに立っているのですか」



 男の直ぐ後ろに立っていた女がふと、男に質問を投げ掛けた。



「……別にどうだっていいでしょう?」



 男は振り返ることなく、肩越しに答えた。

 素っ気ないと言うよりは何とも思っていないような、そんな感じだった。


「まあ、そうね……わざわざ聞くのは野暮だったわね」


「はは、そうかも知れませんね」



 女は淡々と言い、男は乾いた笑みを浮かべた。



「……『何かあったのか』なんて聞かないんですね」


「ええ、聞いたってどのみち答え無いでしょう?」


「まあ、大抵はそうでしょう」


「……あなたは違うとでも言いたいようね」


 男は絶景を眺めながら、右手を自分の襟首うなじに当てた。



「どうでしょう、聞いてみてはいかがですか」



 男が言うと、女は少しの間沈黙する。

 遠くから微かに聴こえる甲高い音に混じり、偽物の風の音が耳に纏わりつき。


 

 何とも言い表せることの出来ない不思議な、おぼろげな時間。



「…………なにか辛い出来事でもあったの」



 女は両手をそれぞれ上着のポケットへとしまい、眉間に皺を寄せて口を開いた。


 

 男が襟首うなじから手を離すのと、女が質問したのはほぼ同時だった。



「……辛いこと、なんでしょうかね」


「自分でも分からないものなの」


「ええ、そんなもんだと思いますよ、何か決定的なモノのせいではないと」


「……そんなものなの」


「恐らくは」



 男は大きく伸びをし、指を鳴らした。

 女は静かに大きく息吸い、吐きながら空へと目を向けた。


 暗い空にはまだ星はおらず、1つの小さな飛行機だけが空を我が物顔で飛んでいた。



「例えば……お偉いさんから言われの無い文句を言われたり、他の人から1人じゃ片付けるのも難しいことを無理に押し付けられたり」


「なんですか、急に」


「急じゃないさ。……もしかすると小銭が1円だけ足りないとか、小指をタンスの角にぶつけるとか、思いっ切り転んで書類をばら撒いたりする」


「……酷いわね」



 男は少し上を向くようにして腕を組んだ。

 飛んでいた飛行機は空の彼方へと姿を消していた。



「酷いだろう、大々的なものもあれば、小さなものもある。でも別に耐えられない訳じゃない」


「ええ」


「大きさもまあ、問題だけど本質はそこではないわけだ」


「……ええ」


「問題は時間の長さと、大きいのも小さいのも消せるか、ということ」


 男は髪をさらさらと風で揺らしながら、左腕は組んだまま右手の人差し指を胸の前に揚げた。

 遠くの点滅する赤い光が妙に目に付いた。


「……」


 男は地に手を付き、足を投げ出すようにその場に座り込む。

 


 足が宙を浮くことで、脳の一部も何だか浮いたような気がした。



 静寂と沈黙が僅かに続いていると、突然足音が響いた。

 

 コツ、コツ、と規則正しいリズムで、それは男の直ぐ横まで続いた。



「お隣、いいですか」



 女の問いかけに、男は若干の焦りを見せて答える。


「え、ええ。どうぞ」


「どうも」


 女は男とは反対の向きに、足を綺麗に斜めに揃えて座った。


 男は女に目もくれず、外の景色へと目を向ける。



「……あなたは『不幸だな』と感じる時はある?」



 女はおもむろに口を開く。

 ついさっきとはうって変わり、声は小さくなっていた。

 

 まるで誰にも言っていないかのように、ただ1人で囁くように。



「……振り返ってみると、感じない日は無かったように思います」


「……そう」


「思うに、覚えていないことはあろうとも、感じないことは無いのかと」


「『不幸があるから前に進める』と?」


「……進むと決めたなら、幸と不幸はどちらも同じ数だけ付き纏うと思うんです」


 男は顔を上び向け、少ないながらも無数に浮いている雲たちへと目を凝らす。

 

 昼でも夜でも浮いているそれは、個々が別々の形で、別々の速さで浮いていた。


「……時に、あなたは今お付き合いしている男性はいますか」


「なんですか唐突に」


 女はぴくりと反応し、少し身を縮めながら言った。



「いえ、恋愛というものは凄いと思いましてね」


「……そう?」


「ええ、恋愛の中には幸だって不幸だってある。ちょっとした出来事で一喜一憂し、出会いがあれば別れがある。それでも人は絶滅しないのは、その恋愛を、幸と不幸を抱えながらも成し遂げることが出来るからなのでしょう」


「……改めて聞くと、自分が思っていたものとはまるで違うもののようね」


 男は考えるように腕を組み直し、女は両膝を抱き、膝の上に顎を乗せた。

 

 いつの間にか空には少しの星が顔を出していた。

 


 まるで自分はここにいるのだと、一生懸命になっているかのようだった。



「まあ、例外もありますがね」


「例外?」


「特に、一目惚れなどは一方的に好意を持って、その人に振り向いてもらおうと努力する。全く振り向いてもらえない可能性だってあるのに。……最初から不幸が圧倒的に勝っているでしょう?」



 男は、目下の群れを成す光たちから離れていく、哀れな光を見つけた。

 


 その光は群れとは違う道をどんどん進み、陰へと消えてなくなった。

 


 男は『恋愛』が『人生』に似ていると言おうして止めた。


 しかし、女は顔を上げると、男とは逆に、口を開いた。


「…………そういう考えも出来るかも知れない。……でも一目惚れした人は逆に普通の恋愛をしている人よりも、輝いていたかも知れないわ」


「…………それは何故ですか」


 男が顔を上げ、女の方へと目を向けると、女もちょうど男に目を向けていた。


 女の目は少し細く、口の端が上がっている。

 女は微妙に笑っていた。



「振り向いてもらおうとしている時は、人一倍努力して頑張っているのでしょう? 他の人たちより輝いていて当然でしょう」



 男は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。



「どうかした?」


「いえ、随分と良い答えを聞けたと思いまして、ね」


「それは良かったわ」



 男が改めて景色に目を向けると、絶景は輝きを増していた。

 


 暗い空にはすでに無数の星が瞬いていて、よもや暗い空は暗い空では無くなっていた。

 


 男は立ち上がって、大きく伸びをする。

 女もそれを見てつられて大きく伸びをした。



「『不幸だな』だけじゃ無くて逆のこととか考えてみてはどうですか」


「……たまにはいいかもね」



 男は一段高い縁石から降りて空を見上げる。

 女は立ち上がると、そう汚れの見えない服をはたいた。



「朝の目覚めたら気持ちの良い木漏れ日が差していたとかどうですか」


「あまりパッとしないわね」


「……じゃあ、なにかありますか」


「……疲れきった身体で家に着いたら、彼が料理を作ってくれていた……とか」


「…………それなら現実的なのでは」


「無理よ、そんな彼が居ないもの」


「はは」



 男は革靴を履き直しながら乾いた笑い声で誤魔化した。

 

 どこかから強い光を感じ、男が周りを見渡すと、空にいつの間にか大きな満月が輝いていた。



「そろそろ行くわ、明日はせっかくの休日だもの」


 女はそう言うと、規則正しいリズムでまた歩き出した。


「ええ、それでは」



 男と女は別れ、ほどなくして女は屋上から姿を消す。


 

 男はしばらく女の消えた方を見つめ、戻ってこないのを確認していた。

 


 やっとの思いで男は崖から離れると、今日1番の伸びをすると共に大きなため息を吐いた。



「あぁ、本当になんて長い1日だよ、まったく」

 


 男はおもむろにポケットから携帯電話を取り出すと、直ぐに電話を掛ける。



「あ、もしもし。あぁ、終わったよ。ありがとう、彼女が自殺しそうだって教えてくれて」



 男は今一度、絶景へと目を向ける。



「ん? あぁ、なんとかするよ。あ、お前、料理が得意だったよな? 今度教えてくれないか? あぁ、頼むよ。あぁ、じゃあな。それじゃ、うん……また近いうちに」



 男は耳から携帯電話を離すと、空を見上げ、噛み締めるようにそれを強く握りしめた。



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