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名前のない料理店

そこは「店」と呼ぶには些か奇妙な場所であった。通りに面したガーデンアーチには看板のような部品が取り付けられているが、店名の表記はない。煉瓦の階段を上り、入口の脇に掲げられたプレートを見るとそこも空白のまま。窓から見える店内はごく普通の料理店だが、それらしい表記はどこにも見当たらない。少し立て付けの悪い扉を開くと乾いた音のドアベルが出迎える。足元の傘立てには小ぶりな空色の傘が一本。正面にはレジカウンターがあり、後ろの壁にたくさんのインスタント写真が留められたコルクボードが掛けられている。この店で記念日を祝った客だろうか。近づいてみると、写真には日付らしき数字が振られているが、文字も人物の顔も滲んでよく見えなくなっていた。左手側には小さな半個室が四席。写真の大半はここで撮られたもののようだ。右手側に向かうと、窓際に四人掛けのテーブルが二つ。向かいは少し広いホールになっていて、カウンター席とその反対側の窓際に2人がけのテーブルがいくつかあり、窓からは先程上ってきた煉瓦の階段が見える。バーカウンターの向こうは厨房のようだが、人の気配はない。


「迷われたのですか」突然、客の背後から声がかかった。振り返ると、店員と思しき長いエプロンを巻いた女が立っていた。若くはないが、くっきりと大きな暗褐色の瞳が印象的だ。薄紫の上品なブラウスがよく似合っている。「ええ、大通りを歩いていたはずなのですが、どこかで道を間違えてしまったようで。それで、戻る道をお尋ねしようかと」客が答えると、彼女は微笑んだ。「それなら御案内致しますね。分かりにくいところですけれど、大丈夫。すぐに戻れます」彼女はそう言って抱えていた小さな籠をカウンターに乗せた。籠いっぱいのナイフとフォークが陽差しを受けて緩やかに輝いたその時、入口の扉が開き、ドアベルが鳴る。「掃除、終わったぞ」顔を覗かせたのは少々人相の悪い長身の男だった。くすんだ苔色のシャツに安っぽい石のついたループタイをぶら下げている。男は客に気がつくと、無愛想な顔で会釈した。人の好さそうな女とは正反対だ。恐らくは女の方が店主なのではないか、と、客は直感した。「お疲れ様」「送るか?」「いいえ、大通りまでだから大丈夫」「そうか」言葉を交わす様子は店主と雇われ人、という雰囲気ではない。夫婦だろうか。それにしてはそれぞれが持つ空気がなんだかちぐはぐだ。そんなことをぼんやり考えるうちに、男は客の横を通り抜け厨房へと消えていった。


「お待たせして御免なさいね。さ、参りましょうか」彼女は客を促す。「あの、ところで、ここは?」客はずっと抱いていた疑問をやっと口にした。彼女は客の方を見、一瞬何か言いかけてから少し考える仕草で口元に手を当て、それから宙を見つめたまま答えた。「灯台のようなもの、でしょうか」「灯台?」「……なんて。ただのしがない料理屋でございます」冗談めかして笑うその声は低く掠れてはいるが、柔らかで優しい。まるであの窓から差し込む昼下がりの暖かい陽光のように。「あの」客は踵を返しかけた彼女を呼び止めた。「ええと、やっぱり何か、頂いていっても?」それを聞いて彼女は嬉しそうに顔をほころばせる。「まあまあ、宜しいのですか?すぐに用意しますので、どうぞお好きな席へ」「先程の彼がシェフ?」「いいえ、私です。そんな大層なものではございませんけれども」予想が当たって、彼は密かにほくそ笑んだ。女店主が品書きを用意する間に、彼はカウンターの中央の席についた。主菜を選び食前に葡萄酒を頼んで、香りを楽しむ。やがて運ばれてきた前菜とパンを前に、彼はふと思う。この構図はまるで最後の晩餐ではないか。はて、あれは誰の絵画だったか。美術についてはからきしだ。彼には取り巻く弟子はないが、かと言って身内に裏切られる経験もなかった。総合すれば、悪くはない人生だったと言える。そのうちに、肉の焼ける小気味の良い音と香ばしい香りが漂ってきた。彼は遠い人生から目の前の食卓へと意識を切り替えた。


「ありがとうございました、思いがけず楽しい思い出を頂いて」食後に彼女としばしのお喋りを交わし、彼は満たされた思いで店を出た。少しの名残惜しささえあった。「それは何よりです。こちらこそ、楽しい時を過ごせました」彼女の眼差しは慈愛に満ちている。本当に、陽だまりのような女性だと、彼は思った。「このまま真っ直ぐ四、五区画も歩けば元の通りに抜けられます」女店主は路地の先を差し、それから深々と頭を下げた。「どうぞ、良い旅を」彼も頭を下げ、もう一度礼を述べて彼女と別れ、歩き出した。昼下がりの風はほんの少しだけ夕方の気配を含んで心地よい。散歩日和の良い天気だ。歩きながら、先の女店主の言葉が脳裏に浮かぶ。ここは灯台のようなものだと。なるほど、道に迷った者を導く灯台。まったくその通りだ。しばらく行くと、彼女の言ったように元の大通りが見えてきた。彼は一度振り返り、深い呼吸とともに小さな思い出を噛み締めて、再び前を向き大通りへと一歩、踏み出した。

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