1話:リラ・ブルームグリューン
よくある物語かもしれません。
大国キールガルト。広大な国土に豊かな資源、善政を行う国王の下、様々な人々が生活する裕福な国。そんな国の境にある森の前に一台の馬車が停まっていた。
馬車の御者席から降りた老人が馬車のキャビンの扉を開けると、黒髪に簡素な布服にズボンを身に着けた少年が降りてくる。少年の紫水晶色の瞳には光はなく、まるで未来に絶望しているかのようだった。
「坊ちゃん、これを……」
「じいや」
老人が少年に一本の短剣を渡す。なんの装飾もされていないただの短剣。少年はそれを受け取る。
「じいやは、じいやは何もできませんでした……坊ちゃんがあんなことするはずがございません! 坊ちゃんは、坊ちゃんは……」
「もう、いいんだ」
老人の頬を伝う雫を拭いながら、目の前の彼を元気づけるように力なき笑みで少年は言う。
「僕は大丈夫だから、うん、大丈夫だから……だから、気にしないで」
「ッ……坊ちゃん」
どうしてこんな笑みを浮かべられるのか、どうしてこの子がこんな目に遭わなければいけないのか、老人は胸を締め付けられる。
「坊ちゃん……また、いつかお会いしましょうぞ!」
「……それじゃあね、じいや」
少年は一人森に入っていく、希望も絶望も、その瞳には何も映さず……。
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何時間経ったのだろうか、木々に覆われ、わずかにしか届かぬ暗い森を少年は歩き続けていた。あてもなく歩き続けるその姿はまるで罪人のよう……事実、少年は罪人になったがためにこの森へと棄てられたのだが。
少年は思い出す、なぜこのようなことになったのか、なぜこのような仕打ちを父と母が、弟が、妹が、婚約者が、信頼できる使用人たちが決めたのかを。
少年の名前は、リラ・ブルームグリューン。キールガルドの大王が信頼する貴族、アルベルト・ブルームグリューン公爵の長男であった。
リラは幼いながらも、公爵家としての誇りを胸に勉学、剣術、格闘術、政策など、公爵家を継ぐのに必要な様々なものを学んでいった。
誇りを持って動く彼の姿勢は、両親が公爵家の安泰を確信し、周囲の人間が尊敬するほどだった。
そして、ほんの少しながらも父親の仕事もいつしか任されるようになっていき、大王、ローエンブルグ・キールガルドの娘である第一王女、アレクシア・キールガルドとの婚約も決まり順風満帆な人生になるはずだった。
だが、彼の人生は弟、ゲメイン・ブルームグリューンが誕生したことで突如狂い始める。
ゲメインはリラを超える才能を持ち、全てに対してリラを遥か上回っていた。勉学、剣術、格闘術、政策etc、etc……。リラの友人たちもリラよりも優秀なゲメインと遊ぶようになっていた。それでも、リラは腐ることなく、周囲の人間と親しく繋がっていた。まだ、この時までは狂い始めていなかった。彼の人生が決定的に狂い始めたのは、勇者の儀が城で行われてからである。
勇者の儀、それを説明する前にまずこの世界の現状を説明しなければならない。
この世界には、人間以外にも種族があり、人狼族、エルフ族、オーガ族、オーク族、龍人族など様々な者たちが生きている。そして、それらの種族の天敵が魔族である。
魔族と多数の種族たちは数百年前から戦争状態にあり、多くの犠牲者たちが出た。過去、聖剣に選ばれ、キールガルドを建国した初代勇者が一度は魔王を討伐するものの初代の死後魔王は復活し、現代に続くまで戦争が続いている。だが、現代まで勇者は現れていない。勇者の儀とは、城にある聖剣を抜き勇者に選ばれる儀式であり、勇者になったものは魔王討伐の旅に出なければならない。魔王討伐、果てしなく困難で、絶望も襲ってくるような旅だが、それらを上回る名誉、富が与えられる。
毎年、有力な勇者候補たちが儀式に挑戦するが、聖剣を抜ける者はいなかった。しかし、今回の勇者の儀で聖剣を抜けた者がいた。それは、リラ……ではなく、弟のゲメインだった。
それからだった、リラの周囲が狂い始めるのは……。
最初は友人たちだった。リラの数少なくなっていた友人たちは次第にリラと遊ばなくなっていき、全員がゲメインと遊ぶようになっていった。次に使用人だった。自身が最も信頼していた使用人たちは余所余所しくなっていき、じいや以外全員がゲメインの世話をするようになっていった。妹も離れていった。そして、婚約者であったアレクシア。彼女も次第にリラから離れていき、ゲメインと仲良くなっていった。そして、彼女はゲメインと男女の関係になったのだ。リラの脳裏に刻まれている、ゲメインの部屋から聞こえる女性の甘い声、その声の主はアレクシアだった。
それでも、リラは腐ることはなかった。勇者に選ばれた弟を支え、無辜なる民たちを魔族の手から守る。それを胸に彼は励んでいった。
だが、それは突然訪れた。
リラ・ブルームグリューンから他国への不正金の横流し、さらに女性への暴行。これらの罪に問われ、リラはブルームグリューン家から勘当され、魔物が生息する森へと捨てられたのだ。
両親曰く、これだけの罪を犯して勘当はせめてもの慈悲らしいが、リラにとっては意味の分からないことだった。それらの罪は全く覚えのないものだったのだから……。
罪の証拠、証言をしてきたのはゲメインとその友人たちに使用人たちだった。だが、彼らの持ってきた証拠は全くのウソだった。証拠にあった日付、リラは城下町を探索していたのだから。
彼の味方であったじいやもリラの無実を訴えたが、多勢に無勢、少数より多数。誰にも信じてもらえず、彼は捨てられたのだ。
別れる前の全員の瞳、リラは一生忘れることはないだろう。侮蔑、リラをゴミでも見るかのような視線。ニヤついたゲメインの表情。彼は忘れることはない。
「ハハ、人生終わってるじゃないか。僕」
全てを思い出し、自嘲気味に笑い始めるリラ。いっそじいやから貰った短剣で自害した方が良いのでは? と、彼の視線は手に持つ短剣に向けられる。どうせ、遅かれ早かれこの森に生息する魔物に食い殺される。なら、自害した方が苦痛は一瞬だし、貴族としての矜持も守られる。その考えに至った彼は、一瞬だけ歩みを止めて短剣の切っ先をのど元に持っていこうとするが……。
「いや、だめだ。止まるな、歩き続けろ」
短剣を下ろし、森を歩き続ける。なぜ歩みを止めなかったのか、彼自身理解はしていない。ただ歩みを止めてはいけない、その気持ちが心の底から出てきただけなのだから。
歩く、歩く、歩く。目的地も出口もわからない。ただ、リラは歩き続ける。時間の感覚はもうマヒしている。足も棒のようになってきている。それでも歩みを止めない。
だが、彼の歩みは突然止まることになる。
「ガアッ!」
「ッ?!」
猪のような姿をした生物がリラに向かって突進してきたのだ。
リラは咄嗟に真横に転げるように逃げ、直撃せずに済んだがリラは立ち上がれないでいた。足はすでに限界だった。もう立ち上がる力すら残っていなかったのだ。
「フゥ、フゥ、フゥ」
鼻息荒くリラを見る猪。通常の猪より躰、牙は大きく、その巨体を支えるために発達したのか脚も異常に筋肉質になっている。リラの目の前にいる猪は魔族が改良し使役している下級の魔物、エーバーだった。
「ブゴォォォォ!」
雄叫びをあげながら再度リラに突進するエーバー。リラは先程と同じように転げながらなんとか避けようと動くが、エーバーは突如停まり、前脚を上げる。
魔族に改良されているエーバーは通常の猪よりも知能がある。リラに突進は避けられると考え、突進をフェイクとし前脚での踏み付けで殺そうと考えたのだ。
目の前に迫るエーバーの脚。数秒後に訪れる死。リラの頭の中は真っ白になる。
だが……。
「嫌だ、僕はまだ死ねない!」
「ブゴォッ?!」
死にたくないと決死の思いで前方に転がり、エーバーの躰の真下に入る。そして、じいやから貰った短剣をエーバーの最も柔らかいところに向かって突き刺す。切っ先が向かう場所は例外なく弱点である心臓。生物最大の弱点の一つであるものを破壊すべく、リラは力を振り絞り、深く、深く突き刺す。温かく赤黒い液体が顔に降り注いでくるが、気にしてはいられない。
そして……。
「グルゥゥ……」
「ハァ、ハァ、ハァ……」
時間にしてほんの数秒、短剣を突き刺されたエーバーは力なく倒れこむ。リラはエーバーの息が絶えたのを確認した後、生死のやり取りの緊張が解けたからか、それとも疲労からか、荒い息をし始める。
暫くしてから刺さった短剣を抜き、血に濡れた顔を服の裾で拭う。そして、赤黒く染まった両手に、荒い息に自分の生を実感する。
「僕は、生き残れたのか?」
実感はしているものの自分の生存が嘘のように感じる。しかし、確かに生きている。自分は生きているのだ。
息を整える目的もあるが、安堵とともにゆっくりと息を吐く。
その安堵がいけなかった……。
「ブルゥゥゥゥア!!」
「ギッ?!」
真横からの衝撃、身体の中からミシミシ、ブチブチと何かが砕ける音、千切れる音を聞きながら数メートル吹き飛ばされ、地面に横たわる。
先程まで動いていたはずの身体の感覚はなく、意識も段々薄れていく。何が起こったのかもわからないリラは力なく自分が先程までいた場所に視線を向ける。
そこには、もう一体のエーバーがいた。
リラが殺したエーバーの敵討ちか、それとも油断していた獲物への一撃だったのか、リラには考える力はもうなかった。
ただ脳内にあるのは、死。この一文字だけだった。
――ああ、僕は死ぬんだ。
こちらに突進してくるエーバーを最後の光景に、ゆっくりと瞼を下ろすのだった……。