羽根と羽/逃走
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未来も過去も明日への希望も、今まで生存していたという事実をも隠す夜の闇に、同化する小さな姿が一つ。それは同類へのせめてもの情けでもらったチョコレートバーを一本ほおばり、極寒の寒さを耐え忍んでいた。あれから二日、少年はどうしてか追ってこない組織の殺し屋たちを不思議に思いながら、数時間ごとに隠れる場所を転々としている―――そして今もまた、組織の追ってらしき影を認め、鴉の視力で索敵を行うのだ。
今度現れたのは、二日前に逃げ出したプラントにいたと思しき最下級のチンピラであった。
「また来たのか……」彼は翼を広げ、夜の闇に紛れて飛び立とうとする。相手とは戦わないに越したことは無いからな。しかし飛び立つ前に聞こえたチンピラの声が、彼の飛び立とうという意思をほんの僅かだけ揺さぶった。
「………きっ…ん…………」
それは彼の記憶にある単語の混じった文だと聞こえた気がした。少年の脳裏に三時間前の出来事が甦る。砂糖を一ケース丸ごといただいてしまったことや、部屋の中をのぞいてしまったことへの罪悪感、もらった今の生活の糧が、彼の脳に浮かぶ。呆れた顔で、軽く投げ飛ばされた痛みが小さく彼の体を刺す。そして最後に、一人の男の姿が映る。
彼は手をたたけば破裂音が鳴るほどまでに強靭な筋肉と持ち、彼と同じ黒い羽と鳥の足を持っていた。そして一瞬で行う状況判断の正確性に、自分と同じような姿で、自分よりも圧倒的な速度を引き出すことのできる身体機能の制御力、明らかに食い違う室内と室外。不思議な統一感を持つ彼のことを、投げ飛ばされてからしばらく後に、人間でないと少年は理解していた。
「あの人が……?」彼はほんの少しばかりうろたえる。
「いや、きっと俺が入っていったのを、見ていたんだろうか……?」否定しきれない小さな可能性だが、二日もふらふらとしていたのだから、どこかから追跡されていたとしてもおかしくない。
「まさかあの人の方もターゲットに………?」
少年は体を隠し、深く思考する。「それとも、追い出されたのを知らない………?」彼はゆっくりと耳に集中する。「ああ、奴だ。生活の跡がある」チンピラは確かにそう言った。
少年は後者の可能性が濃厚であると理解した。奴隷にあんな酷い行いををするやつら達なのだから、間違うことは無いにしろ、自分にかかわった者すべてを消すぐらいはするだろう―――そうでなければメンツと律令で問題になるから。多分これが、理由なのだと彼は思った。
少年は耳にエネルギーを回し、今までより細密な分解能を発揮する。雑音にまみれた小さな世界からゆっくりと邪魔な音声が小さく消えてゆき、エッジのかかった男性の声がはっきりと形をもって聞こえてくる。彼が声帯を開け閉めする音すらも耳に届く。
「例の烏のミュータントだが、やはりB区の喫茶店にいた。三時間後までに全員に通達せよ」
確かに男は、そう発言したと彼は理解した。
少年はゆっくりと立ち上がり、いくらか後ずさる。ゆっくりと彼は息を吸い、分解能をいくらか落とした。声の続きが聞こえてくる。「奴はここを本拠点としている……元はフリーランスの傭兵のだったらしいが、彼奴を殺して奪ったと見えるな」それを聞いて、彼は安堵しつつ罪悪を覚えた。
なんだ、奴らはあの人を自分と勘違いしているのか。少年はこわばっていた体を緩め、男性の声と反対の方向に向き直る。
「ごめんなさい、あの時の人」
彼はどうしてかつぶやく。そして理由づけるかの如く、自分には彼を助けられるだけの力はないのだからと心の目をつぶった。「………うまく生き延びてください」そしてもう一度翼を広げ、夜の闇に飛びたつ。
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姿を人に戻し、少年は夜の喧騒を歩く。木の葉を隠すならば森のメソッドに基づいて、彼は自らの姿をこの雑多な違法物市場へと溶け込ませているのだ―――おそらく今の彼を見れば、誰もが「ああ、ただの乞食か」と思うことだろう。
少年は引き裂いたボロカーテンを身にまとい、いつの間にか拾っていた小鉢を目の前に掲げ、これまたいつの間にか纏っていたぼろぼろの薄いタオルを頭からかぶって、それらしい演技をして言う。
「お恵みを……お恵みを……」
それが功を奏して、砂と泥にまみれたその姿を振り返る者はいない。ごくごくまれに振り返る奇特な人物もいるにはいたが、そんな時は普通に恵みを受け取ればいいのだ。
ゆっくりと彼は移動しながら、その演技を続けた。
「新型チップ、今なら3K」「バイオで一商売」「金が簡単に手に入る」表面的な売り文句が、彼の耳に痛々しく届く。どこかから人の足が踏み砕かれる音が聞こえて、そしてまた窓が一枚割れた。
「恵みを………」少年が歩く、ケルスの暗黒市場は今日もまた、旧世代に想像された世紀末の通りに動いている。
路地への道に落ちる、真新しい小型チップを踏み砕いて、彼は少しずつ人気のないほうへと進み、そして時折目だけを変質させて後ろに誰かがいないかと確認する。追っ手を確実に見つけるための行動だったが、さすがにこの人口では人を追いかけるのは厳しいと見え、特に何もついてきてはいなかった。
当然だ。金と暴力のあるものが正義というこの街で、自分のようなあからさまな弱者についてくるのは、弱いチンピラか能力を見切ったハンターかしかいないとすぐにわかる。たとえ各種ガジェットを使い、人を変え手法を変えして気づかれないように努力しても、人の壁を失えばそれはあからさまに発現するのだから。
だから少年は二時間かけて牛歩で市場を抜け出し、複雑に込み入った市場周囲の路地に踏み込んでいくのだ。途中で彼はカメラドローンを見かけ、それが自分を追っているのか確かめようとする。気づかれないような速度で背中の布から翼を出し、AIの反応があるか見る―――反応はなかった。
ならばと彼は、歩きながら適当に選んだ三番目の路地へ足を踏み入れる。そこには明らかに掃除されていないゴミ箱が大口を開けて天を向き、シルクリートの破片が鉄骨を空に向けて転がっていた。そして穴の開いた道路を勘案して、彼はここに生活者がいないのだと見て取った。ちょうどいい。これなら都合がいい。
彼は胸から血を流し死んでいる男を見つけ、着ていた服をはぎ取った。少しだけ骨の見えた彼が来ていたのは、あまり傷のない強靭そうなデニム生地のジーンズとジャケットである――――おそらく死んでからかなりの時間、ここには自分以外が来なかったのだろう。彼はいただいたジャケットの胸ポケットに入っていたビスケットを腹に入れ、せめてもの礼として手を合わせ、開いたままの目を閉じて立ち去った。
少年は周りに人がいないことを確認し、体を変質させてビルの外壁へと体を蹴り上げ、壊滅的な音を上げながら、それを蹴って飛び上がる。一度、二度、三度……。七回目に彼は長年掃除されていない証拠足るすすに足を取られ落ちかけたが、壁に爪を食い込ませてどうにか回避した。そして勢いを殺されたのでウォールクライムに切り替えてしばらく上り、屋上端の手すりを乗り越えて前転着地を見事に決めた。
少年は少しの間たたずみ、風の方向を感じる。どこかからかすかに聞こえてきた、最低最悪なジェノサイドの音を無視して、彼は靡く羽根にかかる力を精密に分析した。合成肉を食している人間の作り出すごくわずかな風が音となり、力のパルスとなって彼にぶつかり、運動となって彼の脳に三次元情報として伝わる。玉のない石だけの街が、希望のない現在の街が、宝のない宝箱の事実が、彼の脳に伝わる。途方もない熱量を持った上辺に隠れた争いの事実が彼を闇に引き込む。
「………どこまでも、こうだ」
彼は恐ろしく吐き捨てた。実年齢を十数偽っているかと思えるほどのその声は剣山のごとく見た目だけが尖り、彼が逃げる間にほんの僅か見せたその光景は、ステンドグラスめいた恐怖的なパッチワークであり、古代ギリシアの彫刻と同じように美しい。
「だがそれでも、俺は……」
そして少年は人のいないと感じた方角へと駆け、そのまま空に浮かび上がった。
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