羽根と羽/目覚めの続き
一瞬の出来事に彼が何も出来ぬ間に、少年の現在を作る状況は一変した。彼は体からとてつもない力が湧き出てくるのを感じ、ふと体を見る。するとほんの一瞬の間に彼の肉体は真っ黒な羽根に覆われており、足に黄色い鱗が生えて鋭い爪が生まれていた。腕には風切り羽根が連なり、自らの体を空へ浮上させるに足る屈強な翼と変化している。
彼はどこかに消えた痛みの違和感を感じ、胸を見た。突き刺さったはずの扉のかけらは、急速に進化怒張した筋肉によって押し出され、床へ音を立てずにはじき出され落ちている―――なにがどうなったのか?。少年は状況の呑み込めぬまま、進化した自らの体のすべてを理解した。
途方もなく広く鮮明な視界に、彼の入るはずだった部屋の中の風景が映った。おそらくさっきまで人間だったものがあたり一面に散らばり、白色であったはずの壁には新しく半径三十センチほどの白い円が描かれている。そして作業機械がほぼすべてバラバラになって、床に固定されていた外装だけが立ち並んでいた―――それ以外に垂直に姿勢を保っているものは、自分と一つの異形の姿を除いてない。
「……貴様が聞いていた用心棒か。随分と小さいな」
それは明らかな馬の顔からは想像できないほどに、流暢に人の言葉を話した。馬人は強靭な脚力をもって、一瞬で三メートルほど壁へ飛ぶ。少年が戦闘の素人とはいえ、それは強化された鳥類の視力をもってしても視認出来ないほどの速さであった。
「……見えていない、か」
馬人は小さく言葉を投げる。「雑魚と見えるが、それでも依頼なんでな……」
彼はわずかな時間でブレーキをかけ、恐ろしく怒張した喉の筋繊維から弾丸と思えるほどに鋭い音を射出する。
「狩らせてもらう」
それに敵意を感じ取った少年は、あの速度に攻撃されれば危険とみてあてずっぽうで頭と胸を防御した。だが当然のことながらその推測は外れ、馬人は少年の腹に、常人ならば穴の開く一撃を叩き込む。少年は足を地面に触れることなく壁にたたきつけられ、抜けた羽が壁の破片と共に周囲に舞った。馬人はブレーキをかけ、右足で埃をかき上げて言う。
「いや、違う。依頼とは別人か…………こいつはまだ、目覚めたての雛鳥だ」
そして殴った腕を振り、ほんの少しだけにじむ血を見て「光るものはあるのだがな」と付け加える。
それはゆっくりと少年に近づき、二メートルほどの距離になったところで脚に力を込めた。「本当に悪いが、こちらも仕事なんでな」無用な殺生を嫌う彼は、その脚力を乗せた拳の一撃で、少年を苦しまぬ様一撃で殺そうというのだろう。少年は壁にたたきつけられた状態から、そのままの姿勢で床に落ちて数瞬の間意識を失った。
わずか一撃で決まった決着の果て、彼に巣くう負け犬根性の正しさを肯定しながら少年は、自らに宿った力すらもまともに使えないのかと自分を呪った。
「行くぞ」
馬人の声と動きと共に、精神が加速し時間が泥のように遅くなる。少年の体からゆっくりと鴉の力が消えてゆく。
まだ死にたくない。まだ俺は死にたくない!馬人が姿を消し、彼は最後の時を迎えるのだと自分に強く言い聞かせる。だけれどもそれに抗わない冷静な自分がどこかに存在するのがたまらなく嫌だった。
死にたくないと後悔して死ぬのは嫌だが、それでも死ぬのならば受け入れるしかない。そんなこと関係なく俺は生きたい!瞬間的に発生した風圧が羽を巻き上げ、鋭い刃となって彼の羽根を数枚切り飛ばした。何かがゆっくりと近づいてくるのが感じられる。
ああ、俺は死ぬのか。彼の目に舞い上がった烏の羽が映る。その色は残酷なまでに黒く黒く、そして冷酷なまでに美しかった。
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意識を失い倒れていた少年は目を覚まし、ここがどこかと周りを見渡す。さっきと全く変わらない、破壊の跡の残った忌むべき職場。
「ここが……死後の世界なのか?」
彼は立ち上がって体を見る。あれだけぼろぼろだった体はつるりとした綺麗な皮膚に覆われ、来ている服とのコントラストが眩しい。彼は手を突っ込んで背中に触れる。朝に開いた傷が、最初からなかったかの如く消えていた。
そうか、きっと俺はあれに何かされて死んだんだな…………それにしても、死後の世界は生前と変わらないのか。状況を受け入れない彼は現実逃避のごとく、生前出来なかった脱出をしようと、宿舎側と反対の壊れた扉から廊下に出る。
「何年振りかに見る世界だ。死後だけど、いったいどんな風なんだろう」
そしてロック機能の壊れた戸を押し開け、初めての部屋へ入った―――しかしそこは、首のない死体たちが語りあうラウンジであった。生者などいない。椅子に座る死体は、ここは死後の世界なんて優しい場所じゃあないと。ここはただの、恐ろしい現実なのだと語っていた。
少年は考えもしていなかった事実に驚き、へたり込んで情けない声を上げた。じゃあ、今さっきまでの自分は………答えはわかっているものの、彼は体に力を込める。一度体感した感覚の通りに背中と足に意識を集中する―――そしてつい二十分前と同じように、彼の体は鴉へと変貌した。
「じゃあ、さっきのあれは………?あの馬は?どうして俺は生きて?」
彼は落ちていた烏の羽を見つける。「これは……」
彼はそれを追って駆け出し、外へとつながる通路を見つけた。
「あの風がここまで吹き抜けたのか?それともアイツは俺を……どうして?」
答えの出ない問いを一度しまい込んで、彼は夜のエリススミードへと走り出す。
「野郎……烏野郎……」
その姿を、一人の生き残りが目にしていた。
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