羽根と羽/少年の目覚め
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少年はその小さな体を震わせ、幸福な夢の世界から引き起こされたことに無意識下で抵抗する。体を丸め、自らを活動させないための熱量を外へ逃がさないように試みる。しかしその小さな体躯は意識を落としていられるだけの熱量をため込むことができず、二分ほどの抵抗を終えると、彼の覚醒度を上げて目を覚まさせた。
ざらついた床が彼のぼろぼろの皮膚を削り、厚くなった背中の皮からほんの少し赤い液体を絞り出す。ああ、また今日も変わらない日常、なのか。少年は手をついて起き上がり、見慣れた奴隷宿舎の壁を死んだ目で眺めた。
彼は腕についた電子式のロックを確かめる。いつ見ても全く変わらない灰白色の温かみをもった悪意は、今日も同じだよと言わんばかりにそこにへばりついていた。吐き捨てるようにそれは彼に今が午前一時だと教え、すぐに光を失う。わかったらさっさと暖を取るか死ね。腕輪がそんなセリフを吐き捨てたような感覚がした。
少年は立ち上がり、何か暖を取ることのできるものはないかと部屋を見て回った―――答えは既に知っているのに。そして当然ながら、いつもと同じように暖を取ることのできるものは、何もなかった。奴隷を失う可能性のある物体は最低限を除き、その場から取り去られているか、時間外ならばロックされているかの二つだったからだ。
彼は仕方なく、体を丸めて熱を保つ。人の手では破れないごわごわの服が背中の傷を擦り、少し痛い。だがそれでもしないよりかはマシだ。少年は固く目をつぶり、体を強く丸め、息をきつく吐き出した。
せめて何か、暖を取ることのできる道具でも―――それか、人間の一人、道具の一つでもあれば。叶わない願いに思いを馳せつつ、彼はマッチで風雪に挑んだ小さな少女の物語を思い出す。ほんのわずかな希望でさえも持てない今の自分は、死ぬことの決まっている彼女よりも劣っているのだろうか。
彼は自分でもありえないとわかっている未来予想図を脳内に描いた。ここから逃げ出して自由な生活をしている自分。暖かい世界で見たこともない女性と結ばれた自分。ここに突入してきた化け物を、能力で撃退し、その礼で解放される自分。
あってほしいなと思う反面、あったとして自分にそのチャンスを生かせるのかというマイナスの想像が常に、彼の意識の敷居をまたいで現れる。何度となくその身を転売され、無知に付け込まれ、挙句の果てに臓器の一割を持っていかれた少年に染み付いた負け犬精神が、どんな時も彼を縛るダイヤモンドの鎖となっていたのだから―――悲しいことに、比較的脆いそれを砕くだけの力と意思はもう今の彼の手にはない。
少年は目を閉じ、この辛い現実から少しでも目を背けようとする。だが外から入ってくるまばゆい生活の光が彼を貫く。少年は耳を塞ぎ、自分を虐げる過去を聞かないようにする。けれども過去の羽音は彼の耳にあざ笑うかのように響いた。少年は呼吸を止め、延々と続く平坦な未来から命を引きはがそうとする。しかしそんな悲しい努力はすぐに、人間として、生物としての本能によって一蹴され、彼は吸いたくもない灰色の現在を大きく深く肺に満たされた。
ああ、僕はやっぱりダメなんだな。彼は灰色の天井を見上げ、長い長い夜がいつまで続くのかと考えた。彼の凍える夜はまだ終わらない………。
ふと気づくと、少年はいつの間にか意識を失っていたらしく、足が倒れ体が壁に寄りかかっていた。彼は腕輪の時計を見る。時間は午前八時九分。業務開始まであと二十分となっていた。彼は急いで立ち上がり、服を脱いでシャワー用の小部屋に入る。ガシャンとロックの音が鳴り、首に管理用のカラーが巻かれて、下半身に大量の湯が吹きかけられた―――体表の油分に洗浄剤が一瞬で溶け込み水溶性となって流しだされる。
それを三十秒ほど浴びたのち、少年の体に高圧の空気が吹きかけられ、彼のあざと内出血の目立つ表皮を乾かした。七十×七十センチの小部屋中央のカラーが収納され、彼の体が解放される。少年は小さく身震いをし、筋肉質な体を外に出してワンピース成型のボトムスを穿いた。そして同じくワンピース成型のトップスに袖を通したところで、彼は思い出す。
「明日は重要な荷物が来るから、始業は三十分繰り上げとする」
作業総監のしわがれた声と共に、少年の頭に罰則の未来がよぎる。確か昨日も………。少年は具体的にどのようなものなのだろうと想像を働かせた。入ってすぐのころに何度も受けたむち打ちだろうか、それとも四日間の食事抜きだろうか。それとも………?
彼はそれが少しでも軽くなればと、用意などせず急いで部屋の戸近くのパネルに手を触れた。本来は作業用の管理タッグを持たなければ開かないはずの扉が反応し、空気圧でつるりとした扉が開く。それを全く不思議に思わず、少年はトップスのポケットの感触を確かめずに駆け出した。早く!早く!そんな彼の視界の外で、どこかから黒い羽が一枚落ちた。
来てから七百と二十五回目に見た廊下は、不思議と寂しいように感ぜられた。ああ、せめて罰が軽いのなら。軽いのなら何とか。軽いのになんとか。滑り止め加工の施された合成木材の床はなぜか湿っていて、設置されていた監視カメラのランプはどうしてかすべて真っ赤だった。少年は滑りそうになりながら、全力で駆ける。
ああもう、うるさいな。こっちは生きるか死ぬかなんだ。少年はいら立ちを吐き捨てた―――明らかな危険を示すそれに、なぜそう吐き捨てられたのか。それは少年の無学と自分の身を守るという視界の狭さによるものであった。
彼は三十メートルの廊下を走り抜け、曲がって二メートルのところにある壁のパネルに触れる。三百二十二回目の慣れた行動だったが、反応は芳しくなかった。タッグがないのに気づいていない彼は、時折ある反応エラーかと考えて、赤ランプの灯る扉から一度離れた。そしてランプが緑に戻るのを見届け、もう一度タッチする。
だが今度も、彼にとって最悪な結果だった。こんな日に限ってなんでだ!少年は脳内に吐き捨てる。既に始業から五分も経っているんだぞ!彼はもう一度退き、センサーを確かめて三度目のトライを試みた。すると今度もなぜかうまく行き、圧搾空気で扉が動き始めた―――その刹那、彼の体内に何かの声が響く。
「逃げろ」
その低く唸るようなものは、本能の声だったのか、それとも彼自身の無意識から来たものなのだろうか、彼の脳と身体に一瞬で響き渡る。
「え?」
少年はそう呟く。それは彼自身予想外だったからだ―――果たしてなぜなのかはわからないが、彼の小さな体は勝手にドアから飛びのいていた。
それと同時に、七センチの厚みを持つ衝撃吸収能力の優れた特殊プラスチックの扉が粉々に砕け散って彼の体に襲い掛かる。体内に過剰量の脳内物質が放出され、少年の時間が一瞬で停止し、光と同じ速さで彼の過去が流れた。ほぼ無限に等しい一秒もない残り時間で、彼は今までのすべてを閲覧し、すべての可能性を計算し、そしてすべてがあと一瞬で無に帰すると理解する。
コンマ一秒ごとに、彼の命のリミットが迫るのを確認した。神経の伝達限界速度を超えた活動を行った彼の脳髄は、これ以上何をしても無駄なのだという判断に基づいて、実時間でゼロコンマ九秒ほど後に速度を通常に戻す。彼にとって幸福なのは、それが完全に脳髄から消え去ることだろうか。
止まっていた破片がゆっくりと動き出した。角ばったそれは彼の体にゆっくりと突き刺さり、二色の液体が体から吹き出す。巨大な一片によって生命の流れがゆっくりと切断されていく。………俺は死ぬのか。しかし残りは、彼の体から放出された謎の蒸気によってはじき返された。
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