羽根と羽/日没
五年と七か月三日前に放棄され、周囲から隔絶された地上の孤島たるケルス・シティには、もう碌な設備や道具、資材が残っていない―――年単位で生産に時間のかかる木材はともかく、鉱産資源はすべて掘りつくされ、海からは最短で千キロメートル離れている為に、運輸にも期待はできないだろう。
そもそも金鉱によってできた街であったがために、金に物を言わせるという手法が出来なくなると、人はほとんどが離れて消えた。その後またしばらくの間レアメタルで人が戻ったが、最終的にはそれも採算が合わなくなり、廃鉱になって皆オサラバ。
アンダーシティとなるまでの間数十年間も、ゴーストタウンとして放置される羽目となったのだ―――そして『月の花事件』で都市はまた崩壊し、今に至ることとなる。
だがやはり、統合政府からの登録抹消という非情を受けてなお、この街には現在でもかなりの数の人間が生活しているし、数千の流入人口があるし、ここで生まれて死んでいったものがいる。四千と二百三十兆の資金流入が存在し、生活物資の輸送までもが行われている―――だがそのほとんどは非合法組織のためのものであり、彼らは法律が永遠の休日を取っているここを利用すべく、流入人口として仕事の為に来ているのだが。
ファリスはカウンターに塔のごとく並べられていたコップを一つ取り、光り輝く蛇口を捻る。まだ生きている給水設備から殺菌された飲料水が湧き出し、300ミリリットルほどしか入らないそれをゆっくりと満たした。
そこに補給用の塩を入れようと思いたち、彼はコップを置いてカウンター裏をあさる。人間の姿をしていてもなお鋭い爪がテーブルのワニスをこすり、アカシア色の平板に一直線の傷をつけた。
爪の中の小さな不快感を無視しながら彼は、白い粉の入った入れ物を三つ見つける。どれにもレッテルのかけらすら無かった。仕方ないので彼は、手近な一つを取り出して中身をなめる。塩とも砂糖とも違う微妙な味が、彼の舌にピリリと染みた―――その感覚に、彼は忌々しき思い出を呼び覚まされる。
彼の生まれたクリアブルーの強化ガラス管の記憶と、自分の持っていたものの大半をすべて捨て去ることを強要された、明けない夜のごとき延々と続く一夜の出来事。体に突き刺さる、全てが書き換わっていく慟哭に似た破壊による再生に、白と黒の影と光の波。進化の代償として、失った未来と過去。
結果として今、彼の体内の血はすべて青と金の複合液へ変化し、表皮は独立した冷却装置と化して熱伝導の良い赤の液体で満たされることとなっていた………。そしてその肉体を、二つの心臓によって作られる超人的な筋力に持久力、肺活力とエネルギー生産能力で、強引に維持生存させられている。
「維持剤、か」
彼は中身を理解してつぶやき、ブリーフケースから同じ粉末の入っているスクリューキャップの箱を取り出して中に詰め替えた。
ファリスはカラになった入れ物をとりあえずテーブルに置き、さっき見つけた残りを一つ取り出して、なめる。指の塩分を差っ引いても感じる、あからさまな甘味………。砂糖か。ならばと彼は残りを確認せずにコップへ粉末を落とし、置いてあったマドラーで適当に混ぜて飲み下した。しかしその想像に反して、彼の喉には二度目の甘みが広がる。
「畜生」
心から嫌う味を少しでも除こうと、彼は手の甲で口をぬぐった。
コップを置き、彼は人間離れした跳躍力でカウンターを飛び越えて店員側に入る。そして見渡してみるが、豆から道具まですべてが美しく整頓された景色の中に、Saltの四文字だけは見当たらなかった。
「……野郎、殺った奴が困るように、どこかに隠してやがったのか」
彼は服のポケットに常備している塩の入れ物から塊をほおばり、戦闘で大量に放出したナトリウムイオンを体内へ取り込んで神経伝達を加速させた。
もう一度コップに水を満たし、ファリスは乾いた口内を潤す。そして羽織っていた羽織りものをすべて脱いで、彼は高足のカウンターチェアに腰掛けた。そして殺した相手の持っていたタッグを起動し、中のデータを確かめようとする。だが生体ロックのおかげでそれは不可能だとすぐに理解できた。死と同時に崩れ落ちるミュータントの生体構造上、指を拾ってロックを抜けることもできないだろう。
「………やはりと思ったが、徹底してやがる」
憎々しげに吐き捨てた彼の、人よりも少し赤い素肌へ夜の風が吹いて熱を盗む。少しだけ寒いな……。暖房の一つでもないか?彼は周囲を見回し、椅子を降りて数歩歩き壁のそれらしきスイッチをいじった。天井のスリットから冷たい風が吹き出し、彼の肌をなめる。………ということは、これがエアコンだろうな。統一された操作方法に従って彼は隣のスライダーをいじる。しかし風の温度は全く変わらず、それならと旧時代の方法も試してみるが、すべて同じであった。
「野郎……」
彼は仕方なく冷房を切り、さっき脱いだレインコートを羽織りなおした。そして体に力を籠め、その下に羽毛を形成する。ワタリガラスの高空に耐えるマットな黒が一瞬で彼の筋肉質な肉体を覆い隠し、けば立ったそれに体から発する暖かい空気が満ちてゆく。「結構腹に来るから、あまりしたくないんだがな……」彼はまたブリーフケースからまたチョコレートバーを取り出し、パックを剥いてほおばった。
ファリスは無造作にカウンター奥の扉を開け、中へと踏み込む。三メートルほどの廊下をしばらく歩き、奥の部屋へと入る。そこはベッドと書棚に机の置かれた生活スペースだった。どれも綺麗に整頓され、書棚にも床にも一切の埃は見当たらない。机の隣に置かれていたゴミ箱もカラにされており、几帳面なのかはたまた神経質なのか、元住人が綺麗好きだということがうかがい知れた。
ファリスはシングルベッドに横になる。猫の化け物が使っていたこの茶店だが、異常なまでに綺麗すぎる。罠じゃないのか?彼は新品同様の布団に潜り込み、ふかふかな枕を頭に敷く。いつの間にどうにかして干されたのだろうか、ダニの死臭が彼を迎えた。
いくら猫の感覚が鋭いからと言って、ここまでするのは明らかに異常だ………それに、今までの小さな邪魔の例もある。やはりこいつは………。そこで彼は、マイナス思考に一度ブレーキをかけた。仮に罠であったとしても、それならそれで、理解すれば怖くはない。それに、フリーランスのミュータントがこんな場所を、本拠地として使うだろうか?きっとNOだ。
だから罠はない……罠はない……。彼はそう言い聞かせた。それより………。そしてブリーフケースを拾い上げ、タッグを充電しておこうと、枕もとにコードを引っ張ってこれないかと考える。しかし行動する前に彼は、いつの間にか忍び寄っていた、甘美な睡眠という名の堕落に意識を魅かれ、睡眠という名の無意識に沈んでしまった。
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