まだ眠れる獅子の牙/誰のために休めと
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カランカランとベルを鳴らして、静かに彼は店を出た。それからいつものように現場へと立ち戻り、服を着替えて朝礼を待つ。今日は何処まで進めるか――――というところだ。
「今日は4Fの骨を上げる。今までのスピードを考えれば、おそらく2ブロック分進められるはずだ」
拙速でない程度に効率化を。リーダーはそう告げ、持ち場確認と安全についてのルールを斉唱して朝礼は終わる。そして彼はまた、上の骨を焼き付ける作業へと向かうのだ。
「まあ、今日も一日安全に。あんたを無くしたら作業は大困りなんだからさ」
先週から加わったベテランが、アストラに声をかける。
「それはあなたも同じでしょう。私なんてまだまだですよ」
そして互いに肩をすくめて、工具セットとガスボンベを背負う。
「謙遜を」
「そちらこそ」
互いに小さく微笑みかけて、彼らは拳を突き合わせてみた。よく見れば少しひきつった握り方で、彼もそういうことなのだとほんの少しだけ呵責を埋める。けれどそれを受け止めなければと、彼はそのまま装備を確かめた。
「作業中は何を?」
エレベーターの中で、彼は聞いた。
「昔のことでも思って…………みたり。していますね」
アストラはいくらかためらいながら、答える。炎を見るたびに、燃やしたことを思い出して辛くなる。PTSDだかそういうものの辛さなのだろうが、救われる権利はまだ、ないだろう。
何度となくのことを察したらしく、男は優し気にする。
「炎に向かうと魂が消えますから…………私も一度」
それで示したいのは、さっきの手のことだろう。
しばしの沈黙。あの火事で家族でもと思ったのだろうか?つり上げが終わると彼は、
「まあ、それはさておき。今日も働きましょうか」
とつぶやいて柱を受け取った。
「ええ。下で会いましょう」
アストラはそれに、苦い笑顔で返すばかりだった。
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作業の間だけは、本当の意味で一人でいられる。いや、自宅でも一人ではあるが、それはあくまで雑踏の中での一人だ。心の中の一人ではない。
生活を楽しむ自分、生きる自分。食べる自分にあきらめる自分。そのほかいろいろの自分がそこにあって、結局どれもが好き勝手に生活の為もあって働いている――――コーヒーを飲むのだって、かつて飲んだくれたことへの反省からでもある。
だから仕事でなければ。一人になるには、仕事という確実に集中をしなければ成功を成し遂げられない、気を散らしてはいけない状況にあらねばと、彼はそう思うのだ。
バーナーとフラックスの力を精微に確かめながら、彼は呼吸をしばらくの間やめる。かなり前にはウィーヴスの為に、何度も使ってきた技能――――失敗するわけもない。
差し込んでからポイントを固定する方式の建材で、ある程度の失敗など見越した状態にはなっているけれど、それでも心を込めて一つを作り上げねばならぬ。強迫観念にも似た完璧主義の下、あくまでそれ以外にいないという自分を見ながら彼は手を動かした。
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炎の中には、かつての自分が写っていた。自由を信じていたころの自分が、生きるために奪ってきた自分が。
はじめは奴隷だった。ただ鉱石を砕き続けるだけの生活。うまくいかなけりゃ罰されるだけの生き方。それが嫌で嫌で、少しずつ逃げ方を作って穴をあけた。
誰かの為にじゃなくて、自己満足の為だけに傷ついた。鞭を浴びて、無知を受けた。その中でいつの間にか、自分の場所が出来上がっていた。
だから逃げる勇気を持てた。蛮勇でもよかった。ただこの状況から逃れられる小さな光をつかもうと必死だった。
ジジジジとフラックスの音が聞こえた。まるで進捗が人生のプログレスバーのようにも見えて、だったらその次は?と一つ一つの波が出来事の部分のように見える。切り取れないほどに癒着したかつての思い出が、連綿と連なって出来上がるのだと。
だから彼の眼には、出たばかりで何のしようもないころが見える。――――奪わなければ奪われる、ある物をあるものとして糧にしなければ、どうしようもないころが。
少し破片めいていたのか、散ったなんぞが赤く燃える。それが昔の問の答えめいて思えて、少し目を奪われた。
誰がゼロから肉を生み出せる?誰が霞を食って生きていける?だから奪って、あることにした。持っていたのは力だったから。ただ誰かを殴るだけの力だったから。
そして手に入れたのは、やっとの平穏だった。身分も無から生み出して、存在を作り出すに足りるだけの方法も手に入れた。散逸していた知己の関係もやっとつながり、タッグにエレカにと、社会というものを自らの体にしみこませていくことができた――――だから、失うことになった。
一列焼き継いで、蒼い熱がふっと消える。同時にかつての思い出も風に消えて、どこにもいなくなってしまった。
一瞬に埋もれていたかつての恋人の面影を見て、幾分辛そうなわずかの黙祷ののち、彼は次の接合へと立った。
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十数本の柱を組んでブロックにしたのちに、今日の仕事はおしまいだとの言葉があった。だから余計なこともなく過去から引き戻されて、アストラは夕飯の買い物の為にシャワーを浴びた。
「よう、リベルタス」
すると同じ考えでもあったのか、現場監督が彼のボックスの隣に入って声をかける。
「監督じゃないですか。どうしたんです?」
「いやなに。お前を探してるやつがなんでか来たんでな」
頭を流してボディーソープを手に取り、つつがなく体に広げて彼は湯を浴びた。
「私を?一体誰が?」
正直ピンとこなかった。戸籍だのは昔の手法にのっとって完璧に偽造したのだから問題ないし、バレたとしても国から何かをする手立てがあるわけでもない。
ポリスか?それとも借金取り?
わからないとしか思えない彼に、監督は言う。
「知らん。だが、スーツを着てやってくるような奴だった――――心当たりは?」
「いいえ、全く」
そもそも人間関係など、蘇ったときに全て捨ててしまったのだからあり得ない。仮に過去の自分を知っている人間がいても、ニュースだので大々的に『被疑者死亡』が流れているのだから思わないだろう。
「だろうな」
やはりという様子で監督は続ける。
「ま、何かあれば頼れ。いなくなられると困るからな」
湯を止めたアストラは、タオルを巻いて出ながら答える。
「そのつもりです。何かあれば連絡しますから」
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