遅すぎた埋葬/蒼穹
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しばらく、あそこには行けないなぁ…………次、行ければいいのだけれども。
あの木造りを閉めてしばらく、この療養が長くなければいいのだがとニヒトル通りのコンビニに寄って、彼はスモークチーズを一口し、小さく時計を眺めて進んだ。
前は恐ろしき生物が腹から飛び出した。その前は文字通りに内臓がひっくり返って胃が燃えた。さらにその前は何だったか――――かなりひどいことになったことだけは覚え――――ああそうか、記憶が少しすっ飛んだんだった。
皆既月食のように薄れた赤い血が、何度サナトリウム病院にひらめいたことか。かなりの迷惑をかけたが、それでも私は生きていたいからと治療をしていたっけか。
最後の晩餐めいてゆっくり歩み、彼は自宅の扉を開けた。ありふれた打ちっぱなしのシルクリートの壁、フローリングに脱ぎっぱなしのコートとマフラー。
病院に行く前に荷物はまとめておいたから、つかんで移動するだけ。前々から限界と聞いていて、身体にもそれはわかっていたから、おとといの朝から行っていた。
ブラウンのトランクをつかんで床の物を身にまとい、前々から言っていた通りに大家の部屋を訪ねる。鍵を開けっぱなしにして荷物を全部そのままに、ゴミなどは処理を呼んでおいたからと伝えておいたので、すんなりと敷金だのは帰ってきた。
もう会うことはないでしょうと彼に会釈し、アースチンはエレカ――――準備されているサナトリウムへ直通であるからと、うずく肝臓の為に医者が手配してくれたもの――――に乗り込む。黒塗りに封じ込め能力まである、専用の特殊なものだ。役割としては、一昔前の黄色い救急車と檻付きの病院送りのような物体だったか。
自動音声が、あと40分ですと伝えた。もともと自宅はアンダーシティ外周近くにあったのだが、サナトリウムはさらに外縁だったので、壁の為もあって緑につつまれている。そこで過ごした幼年期に思いをはせて、彼は右手を握った。
この病を患ってから、14年になる。
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思い出の中でのアースチンは、いつも山野――――といったって、アンダーシティの物だから人工物なのだが――――を走り回っていた。農業プラントで働く父も母も、どちらかは基本的には家にいない。雨があろうと日照りであろうとも業務には関係ないので、彼はいつも近場の子供と笑いあう日々だった。
特に悪いこともなく成長した。父は叱ることと諭すことを適度に使い分ける真の意味で優しいものだったし、母は母で、雑でありながらも全てを受け入れ受け流す正しさがあった。だからまっとうに成長し、そのあとまっとうに就職を決めたと思う。
ただ一つだけ気になることがあるのだとすれば、アースチンは棺桶に入ることが趣味だった、ということだろうか。
かなり昔の時代――――彼が2か3歳ほどのころだろうか。アースチンは父だの母だのに連れられて教会に通っており、カンパニョーラという聖典にのっとっていた。公正で優しくあれとの教えで、月に三度教会に来て、自らを戒めろとの戒律があった。
だから父も母もそうなったのかもしれない。実際そうだったからなのか、幼いころのアースチンも、それを受け入れて成長していたらしい。
それはさておき、彼はその中で偶然にも葬送に出くわした。基本的に葬ることは身内のみで行われることゆえ、ほかに伝えられずに開かれる。そういう宗教故仕方ない。
だがそこに部外者が現れた場合は別だ。その部外者すらも受け入れ、偶然を尊び参列せよと経典にはあった――――そして父と母はそれに従い、何度か彼を偶然から参列させることとしたのだ。
そして彼は、亡くなった人間の顔を見るべく棺桶により、そして箱に落ちた。
遺体の感覚と狭い異常さにいくらか泣いたものの、ちょっとしたアクシデントとしてそれは終わった。
けれどその感覚だけは、彼の内奥にこびりついて残った。ぐにゃりとした柔らかさの中にある冷たさと、つつむ異常な硬さ。どこまでもどこまでも眠るように、ただ張り合いのない眠り。
どうしてか、心地よく思えたのだ。
棺桶というものはこれほどまでに、人間の快楽をくすぐってくれるのかと何度思ったことだろうか。天の神は人間を作り一日の休みを得たというが、その休みが棺桶の中での死というものの表れなのだとするならば、天に従ったままであるのではと思えるのだ。
段ボールに包まれることで万能感と全能さを味わえる人間がいるというが、彼がいるのもまた一つの形での棺桶であることには変わりないとシンパシーを得てみたり、冷蔵庫に隠れて核爆弾をやり過ごすという珍妙奇天烈な冒険をするごときに、彼は狭いところというものにも心惹かれた。
だから成人したのちはコンテナハウスをわざわざ選び、眠るときはシェルターを買って体をそれに収めるようになった。棺桶に落ちたころからどうも解方式のベッドにはなれなくて、独り立ちする前はベッドの下に落ちたようふるまって眠ることもした。
代わりに布団をかぶってうつ伏せに眠る癖も付いたが、そんなことはどうでもいいらしい。
それからシェルターで眠り始めて5年ほどだろうか。彼の体に小さな腫瘤ができたのだ――――それも、何の因果か四角に十字。まるで彼の愛する死者のベッドのような。
それは日に日に薄くなり、代わりに色素として定着してタトゥーめくことになった。結果今も残っているのだが、そうなると同時に何がしかが起きたらしく、彼は数日寝込むことに。
結果今の彼は、サナトリウム送りになったというわけだ。
アースチンは、誇らしくも憎らしい印を見て、小さく息を吐く。そんなに駄目なことか、棺桶の為だけに人死にを望んだことは。
エレカの天井を小さく見て、息を吐いて彼はつぶやく。
「棺桶に収まれとでもいうのかねぇ、神は」
何度も死に直面しては復帰するたび、内臓がどこかおかしくなっていると医者に告げられるたび、この文様がうずいて仕方がない。一度消せると聞いたので頼んでみたのだが、三日後には綺麗に元に戻っていたというのが運命の嫌みのように見える。
かつての自分が自分であるように、今の自分が自分でないように。連続した自分が悪を願ったのならば、地獄に送られるのだろうか?それとも煉獄?それとも天国?
結論は長いことでないし、出ても誰にも伝えられない。人類共通の悩みだから。
ため息がまた出た。アースチンはそろそろつくとのタッグの表示に救いを求め、カバンの取っ手を小さく握った。
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サナトリウムは病院に連結されているから、先ずは受付に話を通すことになっている。アースチンは古風なカウンターに向かい、全盛期然としたそれのなかからベルを取り、慣れた手つきで呼び出した。
この病院はかつて、精神病患者の開放治療にも用いられた場所だった。あるがままを受け入れ放つことができるように、中で出来るだけ人を収めるようにできている。なのでまだ緩いとはいえ、外からでも呼び出しがなければ人は出ないのだ――――短髪の女性医師が出てきて、ああ、あなたかとカルテをと伝える。
「そろそろ、でしたね」
「ええ……しばらく迷惑をかけます」
彼女は淡々として書類を書き込み、アースチンの部屋は335だと伝えて部屋に戻った。何度も来ているからわかるでしょう?という風体だが、実際間違いではないので問題ない。前彼が過ごすこととなった部屋と偶然にも同じだったので、小さく時計を見てからコレマッタは階段を上るのだ。
「ああ、コレマッタさんですか」
看護師が久しぶりの出会いに、そうあいさつした。アースチンは会釈し、見慣れた階段を超えてしばらくの自室を開ける。静脈認証の扉は手を振れるだけで軽く開き、小説棚のように整えられたベッドと机、小さな棚と引き出しの並べられた部屋が見えた。
これからしばらくはこの部屋で生活することになる。食事が勝手に出てきて、着る物に困らない以外は今までとは変わりない――――ある種自分勝手で堕落できるようだが、その実は治療やオペに向けた調整のためのストレスフリー環境だ。
彼はカバンを床に投げ、服を適当にハンガーに投げて身を転がした。ぼふと柔らかいマットレスが、空気を重そうに吐き出した。
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