羽根と羽/アウラというミュータント
あらすじ
ケルス・シティでナノマシン変異能力者であるミュータントを殺している謎のミュータント、ファリス・アウラは馬のミュータントを殺害する。
その時に気まぐれで生かしておいた少年が、何をどうしてか彼を救うために立ち上がることも知らず、彼は小さく生活をしていたのであった………
赤い液体にまみれ倒れているしっぽの生えた人の形が、少しずつ液体と化し、その美しくも禍々しい容貌を崩してゆく。その色が活気のある茶色から嘔吐物のように混じった黄色へと変化して、最終的に抑揚のない黒色へと変わる。
液体的な光沢が消え、マットな平面状の固体の集まりに相転移して、風となってどこかへと溶けて消える。名も知らぬ、どこかに住んでいる男だと認識されていたものを空へと還して、コートをまとった二足歩行の化け物は、姿を人へと戻し始めた。
纏いものに隠されていた一対の翼はだんだん溶けて体の中に消え、羽は勝手に編まれて一枚の黒いTシャツへと変化していった―――逆関節だった下半身も骨格ごと変化し、人よりも少し長い脚と小さな足を持った、少々変わっているけれどどこにでもいそうな成人男性のものへ変わる。
「『死とは確かなもの。生とは不確かなもの』、か」
鳥類特有の、人の言葉を発するに適さない声帯が人間のものに変化していく。高く濁ったその声が、低く澄んだ、不思議な男性のものになる。「お前の言葉、そのまま返そう」
漆黒の中に立っている男は、強靭な肺からの抑えた息によって声を出す。奴が得物の残骸に張り付けていたこれは、いつの時代に書かれた小説の一文であったか―――果たしてこれは、どんな闘争の物語なのだったか。
小さくつぶやいた文章に自らの境遇を思い出し、ファリス・アウラは言葉の終わりに小さく息を吐き出した。
彼の両目に宿っていた、獣の象徴足る紅い光が少しずつ薄れていく。風がごくわずか吹き、彼の硬い髪を巻き上げた―――それと同時に、光彩の見えぬほどの闇が戻って人間の象徴足る理性の光が輝く。
あの化け物どもをやった日はいつもこうだ。いつも決まって、マシな気分で終わらせられない。感傷に浸りつつ彼は、道路に落ちていたナイフを取り上げて血を払う。ビシャっと大量の液体がシルクリートに落ちて、白煙を上げて表層を消した。
………まさか、な。ファリスは服の端切れで刃をなでる。少しだけ残っていた腐食性の浸出液が合成糸に染み込み、一瞬で触れた部分をぼろ屑に変えた。そして炎に煽られた消し炭のごとく、この液体の持ち主のごとく、風に乗ってチリと消えた。
ああ、こいつはそういうタイプの獣だったのか。彼は隣に落ちていた黒いブリーフケースを拾い、中から耐腐食加工されたハンカチを取り出して刃をぬぐった。
α型の化け物なんて何か月ぶりだったろうか。ファリスはノールックでケースへ刃を差し込む。そして耐酸性のレインコートを取り出してコートを代わりに仕舞い、それを大ぶりな動作で纏って路地裏を出た。
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ネオンサインの眩しいエリススミードの、平面的な生暖かい風がファリスの顔をなでる。彼の目の前に広がる、人だけがいなくなった歓楽街の成れの果ては、朝の光が当たる時間となってもなお活気一つ戻らない。人間どころか光もこの通りを嫌い、ここだけはどうしてか夜のままであった。
6メートルほどのビルが並ぶそこを彼はゆっくりと歩く。幾重幾百の先頭によって、表面がところどころ剥げ落ちて砂利の見えたコンクリートが、シミュラクラを起こして彼を眺める。その笑い顔は、これまで何千もの人間にしてきたのと同じように彼を迎えた。
雨粒に溶け込んだ微細粒子のこびりついた壁から、二匹のネズミが飛び出る。酸性雨によってところどころ毛の抜けたそれらは、物欲しそうに愛らしい球状の目で安全を確かめ、駆けだして別の穴へと入る。ふりふりと愛らしい尻尾がゆらゆらと揺れ、しばらくすると中に消えた。
そのあとを追ってどこからか、突然変異種らしき猫が細長く筋肉質な脚で窓から飛び降りてくる。くしゃりと折れるように着地したそれは、元の愛くるしい姿とは似ても似つかない滑らかな毛皮をしていた―――そしてそれを活用し、猫を全身を体の直系よりも小さな穴へとねじ込む。遺伝子の変質によって獲得した柔軟性によりそれは、レーザースキャンにかけられているかの如く、体をゆっくりと穴の中へ消した。
旧世代のカートゥーンから見ることのできる、典型的な追いかけっこの姿に、ファリスは烏としての食欲を掻き立てられる―――ネズミを狩って猫から食料を奪い、すべてを食らいつくして焼き尽くすレイヴンの情動を。
だが彼は、細胞の奥深くから出てくるその衝動を、はたして人間としての尊厳でそれを抑えこんだ。そして抑制剤の含まれているブリーフケースの中の完全栄養食品バーを開け、チョコレート味のそれを腹の中に押し込んで吸収した。
歯に伝わったザクザクとした食感。脳内に潜り込み睡眠をとる、獣の野生と衝動。ファリスとそれら共に溶けたチョコレートの表層をハンカチでふき取り、剥いたパッケージと一緒に鞄に突っ込んでジッパーを閉じた。
彼は小さく上を向き身体の奥深くに言い聞かせるように思う。俺はまだ、獣じゃない。獣なんかじゃあ………断じてない。三年前に生成された身体修復ナノマシンの容器と、そのバグによって起きた『月の花事件』が彼の脳裏を駆け抜ける。全てが白に染まったケルス・シティに起きた、隠され続けている消滅の一部始終に、風となって消えたすべての証拠。
「俺もいつまで持つのか………」
彼は上げた顔を戻して、通り過ぎた角を戻って右に曲がった。今の自分の状態は、水に落ちたアリのごとくである。だからいつ本当の獣となってしまってもおかしくないのだと、ファリスは理解していた―――当然だ。活性化剤と維持剤を限界までつぎ込んで、無理矢理ナノマシンで生存し意識を保っているのだから。あまり長くない彼は何時かと時計を伺い、角から二十メートルにある、窓ガラスの割れた廃喫茶店の扉を開ける。
中は外からの印象とは違い、明らかに人の手が入っていると見えた―――テーブルはすべて顔が映るほどに磨き上げられ、椅子は傷跡一つ一つをクズで埋め、その上から丁寧にニスを塗り磨いてある。その上カウンターもテーブルと椅子同様で、その裏に置かれている豆や茶葉はすべて、新鮮さを裏付ける深い芳香を漂わせていた。しかしこれらの状況証拠があるにも関わらず、彼はここに自分以外誰もいないと理解していた―――それは、自分が殺したのだからという確実な証拠があったためだ。
ファリスはカウンターの壁際に腰掛け、細い指で置かれていたベルを鳴らした。当然のことながら、誰かがそれを聞きつけてくることは無いし、誰かに何かを頼もうというつもりでも、毛頭ない。
「あのガラス、新しいのどうするかなぁ」
彼は心から憂いた顔でつぶやいた。




