#98 闇の剣 光の剣
どれだけの時間、闇に閉じ込められていたのか。何日も何年かも経ったように感じられたが、もしかするとほんの一瞬であったかもしれない。
それくらいに時間の感覚を狂わせてしまう闇の牢獄から解放されたグラードは、久方ぶりの光の中でまず床に膝をつけた。
「ハァ‥‥‥ハァ‥‥‥」
目が、感覚が、元の世界に順応するまでの間、吹き出る汗とともに荒く呼吸をする。
「クソ‥‥‥クソがァァアッ!」
魔族の中でも強大な力を持つグラード。そんな彼が初めて、自身の力で打倒する事の出来ない現象に捕らえられた。
その事実が、彼をこれ以上なく苛立たせていた。
光に目が慣れる。感覚も取り戻せた。状況を確認する。ここは拠点としていた城の寝室。闇に囚われる前と同じ場所である。
部屋には、自分が手篭めにしようとしていた元魔族の王女。そして、ここには居なかったはずの人間の存在を知覚する。
「ゆっくりお休み。‥‥‥可愛そうに、こんなにも疲れきって。余程、酷い目に遭わされてしまったんだね」
人間はそう呟くと、その腕の中に抱くグラードと同じ二本角の魔族の女を、目を閉じて眠る彼女を優しく撫でた。
彼女の左手の薬指には、先程までは無かった漆黒の指輪が艶やかに輝いていた。
完全な、二人だけの空間。同じ部屋にいるグラードは、自らを無視するようなその光景にさらに激怒する。
「殺す‥‥‥殺してやるッ! クソメス! 人間! あの森にいる奴らも、皆殺しだッ!」
顕現される十字架の魔装。闇の中ではその感触すら朧げであったが、今は違う。はっきりとした重み、そして圧倒的な力を感じ取れる。
「轢き潰れろッ! 《其等の罪架よ失墜せよ》!」
もはや城の事など気にも留めない。部屋の天井ごと圧し潰す超重力魔法を発動させる。元々崩れかけだった城が悲鳴をあげた。
グラードの目の前の全てが圧し潰れ、地へと消えた。室内は崩壊し、外の景色が広がる。
だが、その空間に唯一残る者がいた。
「ーーーな、に?」
まるで、そこだけ何の影響も無かったかのように。崩れ落ちた床は漆黒のフローリングに代わり、その上で何一つ変わる様子のない二人の姿があった。
いや、違う。変化はあった。
目の前の、人間。その頭部に。
「なん、だ‥‥‥それは‥‥‥」
思わず指差してしまう。そこには、自身と、眠る少女と同じモノが。
魔族にしかない、魔族の証である角が。魔族でも希少な、二本の漆黒の角を生やす人間の姿が、あった。
「‥‥‥‥‥‥」
シグは答えない。目も向けない。視線は彼の大切な、愛しい人へと優しく注がれたまま。
「魔族の、俺様の、真似事のつもり、か⁈ ふざけた事をッ! 《蛮勇なり反引せよ》ッ!」
強力な斥力を発生させる魔法は、対象をその場から吹き飛ばすはずであった。
「ーーーな、ぜだ?」
だが、対象は動かない。何一つ影響を受けていない。魔法はきちんと発動しているのに、だ。
「《漆闇の絶対支配》。静かにしてくれないか。ゆっくり、寝かせてあげたいんだ」
あの影か。あの影の空間。それが魔法を阻んでいるのか。
グラードの読みは正しい。《闇の支配》、その真価。これは影による完全なる支配領域魔法である。
グラードが知る由も無いが、《闇の刻印》に記憶されている前魔王の一時的な継承許可により発動出来ている力である。
「は、ははっ‥‥‥ははっ、はははははッ! これが、《闇の刻印》の力という事か! だからこそ、貴様のような人間ごときが持っていていいモノではない! 魔王となる者‥‥‥その証‥‥‥つまりは俺様のモノとなるべき力だッ!」
「‥‥‥言いたい事は終わったか?」
シグの横から影が迫り上がる。それはソファの形となり、そこにマナをゆっくりと寝かせた。
徒手空拳。何も持たずに、シグはグラードの方へと、《漆闇の絶対支配》を自ら出て目の前に対峙した。
「寄越せ、その力! それは俺様のモノだ!」
「‥‥‥欲しいから奪う。それが貴様らだ。俺は、それが許せない。力が有れば、奪う事は許されるのか?」
「ッーーー」
シグの双眸。《不死者》の赤が、死の色が、隠す気もない殺意と共にグラードを射抜いた。
足が一歩後退している事に気付き、愕然とする。ただの人間。《闇の刻印》を偶々宿しただけの人間。そう認識していた、取るに足らないと判断した存在に、今気圧されているーーーそれは六輝将として、次代の魔王継承者を自負するグラードにとって何よりもあってはいけない事だった。
「ふざ、けるな! 俺様が‥‥‥俺様が臆している、だと? ふざけるなよゴミ風情がァァア!」
「お前が何を喚こうが、変わらない。奪いたいのならば、言葉ではなく力でーーー証明してみせろ、グラード!」
「コ、ロすッーーー《暴威跪なる重字架》ッ!」
激情と共に大きく振りかぶられたグラードの力の象徴。絶対的な十字架の魔装が、その威力を示さんとする。
その掲げられた十字架に、シグはその場で左手を伸ばす。まるで祈るように。
「ーーー"愛は死へ、しかし愚者は為す"」
振り降ろされようとする暴力に対し、シグが行ったのは祝詞。奇蹟を成す為の詠唱。
現在は亡き彼女との、刹那の逢瀬をここに。
「《魔装顕現》」
闇が産み落とされる。
厳かに取り出されしは、アイシェとの絆の具現。愛の結晶。誓われし《不変》と《拒絶》の概念魔装。
どこまでも漆黒の、花を携えし儀礼剣。
「《漆黒の花嫁》」
この限られた再会の刻を、何人たりとも邪魔する事は出来ない。
それが例え魔族の次期王であろうと。
「ーーーあ?」
魔法は発動しない。ただ切っ先を向けられただけで。十字架はその効力を失う。そして、それだけではない。
「なッ⁈ 《暴威跪なる重字架》⁈」
この刻を邪魔するモノは《拒絶》される。即ち、存在の否定である。
強固なはずのグラードの魔装は、まるでガラス細工のように粉々に砕け散った。
「これ、がーーーオルフェアイの報告にあった、魔装ーーーッ⁈」
漆黒の剣はグラードそのものをも指した。お前も邪魔だ、と。強制的な一時行動不能状態を相手へと強いる。
「ぐッ⁈ お、おぉッ‥‥‥⁈」
動けぬグラードへと、漆黒の剣を向けたままシグは静かに、だが重く言葉を紡ぐ。
「俺を、殺す? 違うな。殺してやりたいと思っているのは、俺だ。よくも傷付けたな‥‥‥マナを、よくもッ!」
空いた右手が掴んだのは、眩いばかりに刀身から緑光を放つ聖剣ヴィストリアハート。闇の身であるシグの身体を灼くはずのこの剣は、しかし今だけはそうならない。
聖剣の効力すら凌駕する《不変》の身である今だけーーー全力でこれを振るうことが出来る。
「聖なる、奔流よッ! 灼けッ! 飲み込めッ! 悪しき魂をッ!」
「やめーーー」
崩壊していく城内に、炸裂する聖なる輝き。邪のみを打ち滅ぼす緑光が空へと昇った。