#97 誓い
闇に揺蕩う。静かに、同化するように。
何もかもが暗く漆黒に塗り潰された世界で、マナは動かず、ぼうっと佇む。
「‥‥‥‥‥‥」
嗚呼、またここに戻ってしまったのか。そんな溜息のような思いをマナは抱く。
そう、こここそが七年もの間マナが閉じ込められた空間である。
闇しかない、孤独の、檻。
決して死ぬ事のない自分を生かし続けた地獄。
開く眼には何も映らず、閉じても同じ暗黒。次第に眼を開けているのか閉じているのかも分からなくなる。
叫んでも、何も返ってはこない。だから声も段々と小さく、やがては喋るという事すらしなくなる。
そうなれば、闇は静かだ。耳には何の音も届く事はない。
視覚も聴覚も無くなった。それに併せてどんどん自分という存在も薄らいでいく。
それは自身の肉体も同じだ。在るはずなのに、見えない。本当にここに在るのか、自分という存在はきちんと機能しているのか。それを忘れないように、自分自身を証明する為に、何度も何度も自分の身体を触り続ける。触覚が、この闇で唯一機能する。
ああ、自分の身体とはこうなのか、と。今までろくに知ろうとしなかった自身の肉体の機能を確認する。
指はこう曲がるのか。足はここまで上がるのか。顔はこんな風に表情を変えるのか。瞼は、睫毛は、瞳は、舌は、唇は、鼻は、筋肉はーーーこう、反応するのか。
そんな事しか出来ない牢獄で、そんな事を七年も続ける内に、マナの肉体操作は感覚や反射ではなく、自身の意思で正確に行える程になった。
相手の心情を僅かな体の動きから掌握していたオグヴァを出し抜き、ポーカーで打ち負かす事が出来た原点はここにあったのだ。
「なつ、か、し、い‥‥‥」
あの時の自分がやっていた作業を再現しながら、マナは一人呟いた。
この闇から抜け出てもう一年近く。ここに居た時間と比べればごく僅かなものだ。
それでも、たった一年で得たモノは何よりも大きくかけがえのないモノで。
だから、ここにまた来てしまった事に対してマナは絶望と、しかし安堵を感じていた。
「この、ま、ま‥‥‥また、こ、こに、いれ、ば‥‥‥シグは、死な、な、い‥‥‥」
グラードの言った事。マナが新たな生命を宿せば《不死者》の力は失われ、それに併せてシグも力を失い、死ぬ。
だが、マナがここにさえいればそんな事にはならない。
今度は永遠にでもここに居れば、シグが死ぬ事はないのだ。
「楽し、かっ、た‥‥‥たく、さん、た、くさ、ん‥‥‥いろん、な、事、あっ、た‥‥‥」
記憶を反芻する。この闇の中ではそれがより鮮明に思い浮かべられる。まるで目の前で本当に過去が再現されるかのように。
シグと出会い助けられて。ディーネと共に森を旅立って。いつも自分について回るクナイが側にいて。城で何一つ自由に行動出来なかったルナリスを助け出して。森に戻って新たに仲間になったエリシュと六人で生活して。
何もかもが大切で。だから失いたくない。
その中心にいる彼を、死なせる訳にはいかないのだ。
「大丈、夫‥‥‥慣れ、て、る、から‥‥‥わた、し、は‥‥‥一人、で、も‥‥‥平、気‥‥‥へ、い‥‥‥き‥‥‥へい、き‥‥‥へいき、だ‥‥‥も、ん‥‥‥」
ここに居続ければ、それで解決するのだ。
大切な人の為に、自分が我慢すれば。
そう、分かっているのにーーー
「何、で‥‥‥な、みだ‥‥‥止ま、らな、い‥‥‥よ‥‥‥?」
頬を流れる熱い感覚は、闇の中では更に明瞭に。止めようとしても、止まらない。一度溢れ出した涙は、止め処なく流れ、闇に吸い込まれていく。
そして覚悟を決めたはずの心も、容易く決壊する。
「い、や‥‥‥だ、よ‥‥‥一人、は‥‥‥嫌‥‥‥会い、た、い‥‥‥よ‥‥‥みん、な、に‥‥‥会い、たい‥‥‥」
一人きりの孤独の辛さを、皆と過ごす喜びを、既に知ってしまった心は叫ばずにはいられない。
「ディー、ネ‥‥‥クナ、イ‥‥‥ルナ、リ、ス‥‥‥エリ、シュ‥‥‥」
だがいくら名前を呼ぼうとも、その全ては闇に飲まれていくだけ。返事など無く、誰にも会える事も無く。ここでマナの名前を呼ぶ者は誰一人としていないのだ。
「怖、い‥‥‥い、や‥‥‥一人、に‥‥‥しな、い‥‥‥で‥‥‥」
これからの途方も無い時をここで独り過ごす事の重みに耐えきれず、声はか細く切実に、縋るように助けを求める。
「助、け、て‥‥‥シグ‥‥‥シ、グ‥‥‥」
闇は答えない。ここには何もない。
また独りきり。牢獄の中で。次にいつ出られるかも、時間の感覚すら分からぬここで。
闇と共に、マナの意識は沈み堕ちていくのだ。
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「ーーー俺なら、ここにいるよ、マナ」
「‥‥‥えっ?」
微睡む意識が浮き上がる。それは幻聴か。助けを欲した自身が望む都合の良い夢なのか。
「ここに、いるよ」
いや、違う。声は確かにこの闇の中から。
そして、ここに在りうるはずのない光が。
淡く優しい緑光。それはルナリスの瞳の色と同じ。マナはその光を二度見たことがある。
一度目はカドレの森の洞窟で。二度目は王都の夜空を眩く照らしたものを。
その光を生み出すのは聖剣ヴィストリアハート。そして、その聖剣を扱えるのは現在この世に唯一人。
淡い光に浮かび上がるのは、紛れも無い彼の姿だった。
「迎えに来たよ、マナ」
「ッ‥‥‥シ、グッ!」
これは夢幻ではない。抱きしめた感触は本物だった。
「おっとっと」
飛びついてきたマナに聖剣が触れぬようシグは右腕を後ろに回した。
聖剣の力により肩まで爛れ切った右腕を。
そんな事はおくびにも出さず、左手でマナを抱き返した。
「シグッ‥‥‥シグ、シグ、シ、グ‥‥‥」
「ごめん、遅くなった」
「う、うん‥‥‥全、然‥‥‥全、然、遅く、ない‥‥‥」
「随分と、怖い目に合わせてしまった‥‥‥」
震えながら、ギュッと自分を抱きしめるマナ。そんな彼女を、シグも強く抱きしめる。
「もう‥‥‥大丈、夫‥‥‥だか、ら‥‥‥」
「そうか‥‥‥」
潤んだ瞳で、そう強がるマナの金色の髪を優しく撫でる。もう怖がらなくて済むように、優しく、優しく。
「さあ、戻ろう。皆の所へ」
「‥‥‥戻、れる、の?」
「これは、多分マナの力が生んだモノだ。何となくだけど、そう感じる。俺はここに飲まれた後、この聖剣で無理矢理マナの気配まで進んだんだけど‥‥‥」
そう言って困ったようにシグは肩をすくめてみせた。
「あとはさっぱり。ここから出るには、マナが何とかするしかない」
「私、が‥‥‥?」
「そうだよ。生み出したのがマナなら、ここを閉じるのもマナ、君なら出来るはずだ」
シグの言葉にブンブンとマナは首を振った。
「出来、ない‥‥‥分か、ら、ない、よ‥‥‥」
「いいや、出来るさ」
不安に怯える瞳を、真っ直ぐに見つめてシグは断言した。
「マナなら、出来る。それが難しくても、俺がいる。出来るようになるまで、ずっと付き合う」
「ずっ、と‥‥‥? 側、に‥‥‥いて、くれ、る‥‥‥?」
「勿論さ。ずっと、ずっと一緒にいる。どんな事があっても。もう今回みたいに、マナを奪わせたりはしない。君を、二度と離さない」
涙は流れ続ける。だがそれは、前までの涙とは意味とは違う。
「シグ‥‥‥大、好き、だ、よ‥‥‥」
赤い瞳が溢す涙は宝石のように。それらをそっとすくい取りながら、シグは膝をつきマナと目線を合わせた。
「ああ、俺もだ。誓うよ、マナ。ずっと君の側に。君を、愛している」
「うんッ‥‥‥わた、し、も‥‥‥!」
二人だけの世界で、確固たる誓いはここに成される。
相思相愛の絆。その証は口付けにて。
交わる思いは確かに。《闇の婚姻》その真価を。
マナの激情により不安定なカタチで顕現された魔装は、その闇の牢獄は、ここに解かれる。
黒が渦巻く。大きなうねりと共に。全てを覆っていた闇は一箇所に。
晴れ渡る世界が戻る。先程までの世界が夢幻であったかのように。しかしそうではない。
マナの左手の薬指。闇が凝縮されカタチとなった、漆黒の指輪としてその証は残った。




