#87
その日も、昨日と同じく平穏な日々を過ごせると思っていた。ずっとずっと、みんなとこのカドレの森で和やかに過ごしていけると、そうシグは思っていた。
「‥‥‥バカンスは〜、どうやら中断? お姉様、シグさん。いや〜な風が〜、流れて来ましたよ〜?」
しかしそれはただの己の願望にしか過ぎない。いつまでも、変わらずにい続ける程この世界は優しくはないのだ。
シルフィからにこやかに告げられた内容。いつもは顔を見せる事がないシルフィがやって来た時点で嫌な予感はしていたが。
「しかも〜、結構な団体様みたいな〜? シグさん、人気ですね〜」
「俺かどうかは‥‥‥いや、関係ないな。出迎えよう。ここを騒ぎにしたくはない。シルフィ、俺を外に飛ばしてくれないか?」
「もちろん〜、そのつもりで来たのですよ〜?」
森の管理者であるシルフィが優先するのは森の安寧と愛してやまない姉。お邪魔虫であるシグを外敵にぶつける事に何のためらいもない。
「あら、一人で行く気?」
同じく森の管理者である姉のディーネは反対に自らも付いて行こうとそうシグに尋ねた。
「ああ、まずは一人で行く。相手の目的も詳細も不明だからね。ディーネには、森だけでなくマナやルナリス、エリシュをどうか守ってやって欲しい」
敵の力量が分からない以上、こちらの最大戦力を同時に出す事は出来ない。また、《不死者》の身体であるシグよりも、取り返しのつかない他の仲間の方が優先度は高い。
シグのその考えが分かるからこそ、ディーネも苦い顔をしながらも納得するしかなかった。
「‥‥‥そうね、分かったわ。でも、状況次第では私も出るわよ?」
「ああ、判断は任せる。クナイはしっかりマナの側に居てくれ。頼んだ」
「了解っス!」
元気よく返事をするクナイの頭を撫でて、その横にいるマナへと目を向けた。
「すぐに戻るよ」
「‥‥‥う、ん」
いつも通りの無表情であったが、それでも不安に思っている事はこれまでの付き合いで感じ取れるようになっていた。だからこそシグはマナに微笑み、同じように頭を撫でた。
「ふうむ、ならば今日の特訓は中止だな。いつ敵が来てもいいよう待機しておこう」
「ッ⁈ やった〜!」
エリシュの言葉に心底嬉しそうな叫びを上げたのはルナリスだった。そんなに喜ぶ程特訓は厳しいのだろう。見た目も前と比べて、深窓の令嬢から活発な女の子へとだいぶワイルドな感じに変わっていた。
「ディーネもいるけど、何が起こるか分からないからね。ルナリスを頼むよ」
「ふん、安心しろ。森の中でなら貴様とクナイのような化け物でない限りは対応できる」
酷い言われようだが、前と比べると言い方に刺々しさがなくなっている。多少なりともエリシュからの信頼が生まれている証だ。
「わ、私も大丈夫です! 頑張りましたから! それはもう頑張りましたから! 今ならなんでも出来そうな、何でもこいやー! みたいな感じです!」
「そ、そうか。無理はしないようにね」
「はいっ!」
見た目以上に中身がたくましくなったルナリスの熱弁に、少し引き気味になりながらも頷き返す。
最初は持つだけでも辛そうだった、結構大きめの神樹の杖も今では片手で振り回している。
「イチャイチャは〜、終わりましたか〜? そろそろ飛ばしますよ〜?」
「ああ、頼むよ」
シルフィの魔法が発動する。生まれた風がシグを包み込み宙へと浮かべた。
最後に地上から見上げる皆の顔をしっかりと目に焼き付け、シグは森の外へと移動した。
「なるほど、大軍だ」
「これが〜、人気の証? みたいな〜?」
茶化すシルフィに突っ込むゆとりも無いくらいに目の前の光景は凄まじかった。
まだ遠くではあるが、こちらへと進軍する無数の影。遠すぎて敵の種族も分からないが、それが平野いっぱいに広がっている。
「統制の取れた進軍がこんなにも圧迫感を与えるなんてね。こういったのは初めて見たよ。部隊で分けてるのか? 三つか‥‥‥奥にも、離れて結構な数がいるな」
「あの奥の部隊に〜、敵さんの親玉? がいるんですかね〜? パパッと行って〜、親玉を〜、倒してきたら〜、どうですか〜?」
気軽に言ってくれるシルフィを無視して注意深く観察を続ける。前衛に三部隊、平行に進軍させており、その奥にもう一部隊。それがやはり部隊を指揮する本陣だろう。
さて、どう対応すべきか。こうも数を揃えられているとは思いもしなかったので途方にくれるという表現がピッタリである。
「悩まずに〜、ドカーンと〜、木っ端微塵で〜、終了? みたいな〜」
「いや、俺を何だと思っているんだい。そう簡単にはいかないんじゃ」
「おっと〜、敵さんたち〜、止まりましたね〜」
シルフィの言葉通り、無数の影が合わせるかのように全てピタリと止まった。その後、前衛真ん中の部隊のみがこちらへと進軍を再び開始する。
「一本目の矢〜、って感じですかね〜?」
「全体で来られるよりはマシだけど、それでも千は超えてるな‥‥‥」
「は〜いは〜い、弱気なこと言ってないで〜、チャチャっと〜、森から離れて下さいね〜」
「うおっ⁈」
出来るだけ荒事は森から離れて行って欲しいシルフィはシグを風の魔法で一気に飛ばした。
いきなりの衝撃に驚きながらも、シグは空中で体勢を整えながら向かいくる第一の軍の目の前へと落下した。
「‥‥‥ゴブリン、か。それに魔獣がわんさか。名前までは分からないな」
「全軍止まれー!」
派手な轟音と土煙を上げながら落ちたシグを前にして進軍がピタリと止まった。
服に付いた砂埃をはたきながら、ジロリと動きを止めた軍の様子を伺う。
「さて、話が通じるのか」
魔獣はともかく、ゴブリンどもは何も言わず武器を構えるのみ。その後ろからのそりと大きな影がシグの眼前へと現れた。
「何者だ! 我らが偉大なグラード様の軍の歩みを止める不届き者め! グラード様の配下にして三柱が一人、このボッケロンザの質問に答えよ!」
「‥‥‥魔族、か」
鎧に収めきれない程のどっしりとした体躯。隙間からは針金のような体毛が所々から顔を出していた。ワニのような獰猛な顔、その額には魔族である証の一本の角が生えていた。
「答えよ! さもなくば即刻その身体を八つ裂きにしてくれよう!」
ババっと腕が広げられる。身体と同じく大きな腕だ。しかもそれが左右三本ずつ、計六本の腕が今にも襲いかからんと開かれた。
「カドレの森に住む者だ。君たちがそんな大軍を引き連れて向かってくるものだから、その理由を尋ねに来た」
「カドレの森に住む者、だと? 人間が? いや、間違いなく人間。だがしかし、どうやって現れた。突如飛来して来たように見えたが‥‥‥ううむ、魔力も何も感じぬ‥‥‥」
シグの言葉に疑問を抱くボッケロンザと名乗った魔族。ジロジロと観察するもシグからは何の気配も感じることが出来ない。
それもそのはず。精霊であるディーネとの力の共有により、自らを自然と一体化させ気配を遮断する術を持っているからだ。
「答えては貰えないだろうか。なぜカドレの森に向かっている」
「よかろう。人間の分際で俺の姿を前に臆せず問うその勇気に免じて答えよう。我が主人グラード様の命により、カドレの森に潜伏しているという盗人から魔王の証を取り戻しに来たのだ」
「魔王の、証? それは一体どんなものだ」
ボッケロンザが言うものが何であるかは薄々気づいているが、確認の為に再度問いかける。
「《闇の刻印》なる力だ。お前、あの森に住んでいると言ったな。ならば知っていてもおかしくはない。どうだ? 何か情報を提供するのであればその命、見逃してやらんでもないぞ?」
敵の狙いがやはりソレであると確信を得たシグは、ニヤリといやらしく笑うボッケロンザの問いに対し答えず、また逆に問いかけるのだった。
「なるほど。ならば森に、その他の事に対しては用がないわけだ。なるほど、良かった」
「‥‥‥なんだ、お前。頭がイかれているのか? 答えぬならもう用はない」
ボッケロンザは従えているゴブリンや魔獣に合図を与える。この人間を殺してしまえ、と。
「これはお前たちにとっても願ったり叶ったりだろう。お前たちが欲するものはーーー」
人間相手ならばそれほど数は要らないとの判断だったのだろう。ゴブリンが三体、魔獣が二体、非力な筈の人間に飛びかかった。
ゴブリンの持つ剣が、槍が、斧が、確たる殺傷性を持って獲物の身体を切り裂く。
魔獣の持つ鋭い爪が、牙が、柔らかな肉体に食い込む。
血飛沫が、肉片が、派手にばら撒かれ平野を汚した。
「コレだろう?」
「なッ⁈」
切り裂かれ、細切れになったはずの人間の身体。それがまるで幻であったかのように一瞬で元に戻っていた。
何事もなかったかのように佇むその人間の周囲で、襲いかかったゴブリンと魔獣の身体の方がなぜか粉々に散らばった。
驚くボッケロンザは改めて何の力も感じさせなかった人間をよく観察した。そして気付く。
「お、お前‥‥‥その瞳は‥‥‥」
爛々と、燃えるように輝く赤き《不死者の瞳》を。
「ーーー《闇の支配》」
地上に影が落とされた。太陽との間には光を遮る物など有りはしないのに、だ。
まるで這い出るかのように、目の前の人間の足元からじわりじわりと闇が広がる。
「《不死者の瞳》に《闇の刻印》‥‥‥お前が!」
叫ぶボッケロンザの眼前でいつのまに取り出したのか、黒に染まった刀剣がシグの手に握られ、消えた。
「《闇・雷迅》‥‥‥抜刀!」
黒い稲妻がボッケロンザの眼前に右から左へ閃き疾った。少し遅れて鳴り響く轟音。抜刀の瞬間を捉える事も、黒い稲妻に対して動く事も出来なかった。
シグとボッケロンザの間に一本の線が、雷の高熱で大地が焼き削がれ生まれた一本の線が、まるで境界線のように長く引かれていた。
刀身を鞘に収め、呆然とするボッケロンザへと、その配下の者達へと静かに、だが力強くシグは最後の通達をする。
「お前たちが欲するモノはこの身にある。覚悟があるならその線を超えて奪いに来るがいい。ここから退く者を、俺は追わない。そして二度と森に近づかないのであればーーーその命は保障しよう」