#77
黄金色の海の中をリアンは走った。サワサワと肌に触れる麦の感触がこそばゆい。
前方には黄金色の波間に幼馴染のジェナの頭部がチラチラと見え隠れしている。
それを見失わぬよう、そして追いつけるように彼は走った。
スワネというこの小さな村は、もうじき麦の収穫を村民一丸となって行う予定だ。ルーストリア大陸西側、レストニア王国から少し離れたこの地は七年前の戦争から復興し、今では食料の自給自足も安定している。
戦後に生まれたリアンとジュナの二人は平和の時代の子として元気に今日も遊び回っていた。
「つっかまえたー!」
「わぁッ⁈ ‥‥‥ちぇ、じゃあ次は私が鬼ね!」
「十数えてからだからね!」
まだ夏も始まったばかりのこの時期。日は高く、煌々と照らす光に負けじと次代の若い芽はスクスクと育っていた。
そんな二人の様子を汗を拭いながら大人達は微笑み合う。
平和とはかくも尊きものであり、その反面平和で無い時代を知っていなければその尊さも深くは理解出来ないのだ。
「あれ? 空が黒くなってきた」
リアンを追いかけていたジェナは日を遮る雲が頭上を覆う光景に足を止めた。
それに気づいたリアンも彼女の元へと戻ってくる。
「雨が降りそうだね」
「ねー。降る前にお家に帰ろっか」
「じゃあ競走だ! よーいドン!」
「あっ、ズルい! ズルズル!」
勝負を仕掛けると同時に走り出したリアンを慌てて追いかける。
先程までの暑いほどの陽気が嘘のように冷え切っていた。ただの雨雲が空を覆うだけで気温が一気に下がるのはあり得ない。
しかしそんな異常など、幼き二人が気付ける筈もなく、また大人達も少々首を傾げ空を見上げるだけに留まった。
生存本能が遺憾無く発揮されるのは、どの生物に置いても極限状況の時のみだ。
戦時を知り経験していた者でさえ、月日がそれを忘却の彼方へと追いやられるのは仕方がない。
なればこそ、彼等は今日それを思い出す事だろう。
己が命を代償として。
まず村人が気付いたのは異臭だ。生ゴミよりも更に酷い、鼻が曲がりそうになる臭い。
次に、足元を揺らす振動。とてつもない質量の物が高くから落とされたような、それが一定の間隔を置いて続く。
そして村人達がようやく危機感を抱いたのは臭いも振動も、徐々に強く大きくなった頃。その発生源が目に見える位置にまで現れてからだった。
「な、何だありゃあ⁈」
誰の言葉か、気持ちは皆同じだ。ナニかよく分からないが、村へと続く上り坂の下、まだ距離は遠いがうっすらと見える影。
ある者はそれが巨大な動物にも見えた。またある者には山が動いているように見えた。
彼らが共通して認識出来たのは、途方もなく大きな物体が村へと近づいて来ている、という事。
「こ、この村に向かってるのか?」
彼らにすぐ逃げ出すという選択肢は生まれなかった。何か危険なモノが近づいている、その様子をただ見守るだけ。
それも致し方無い事だろう。ここまで苦労して発展させた村を捨てるという考えをそもそも誰も持てないのだ。
さて、棒立の村人達が見守る中、現れし巨大なナニかはその姿の詳細を明らかにしていく。
強烈な異臭を放つ巨躯。肉が腐り溶けたような嫌悪感を抱かせる赤黒い体表で包まれた、象の如き四肢で大地を踏みしめる姿。
長い鼻は無く、代わりに頭部と思わしき場所から長い一角が伸びていた。目も口も、垂れ下がる肉の表皮により所在が分からない。
その背からはモウモウと黒い煙が昇り、それが空を暗く閉じていた。
余りに異形。のそのそと向かって来るその巨大な化け物に呆然と、しかしこれ以上近づけば愚かな村人でも我を忘れて逃げ惑うだろう。
それを知ってか知らずか、化け物は歩みを止めた。
「と、止まっ、た?」
「おい、どうするんだみんな。ここから離れた方がいいんじゃーーー」
冷静に思考する暇も、意思疎通を図る時間も与えはしない。
多くの視線に晒される、動きを止めた化け物の身体が、その体表が、ボコボコとあちらこちらを膨らませ始めた。
急激な変化を誰もが見つめる。その先で、化け物の身体中から溢れるようにドロリと、ヘドロのような物体が次々と地面に産み落とされた。
「ひ‥‥‥人、なのか?」
遠くからはそう見えた。生み出された何百もの小さなヘドロは、立ち上がると彼らと同じ人型をしていた。
なぜ化け物の身体から人間のようなモノが生み出されたのか。次々に襲いかかる理解不能な状況に混乱する中、何百のヘドロ人間が一斉に坂を駆け上がり始めた。
それも、恐ろしく速い。人間ではありえない速度で。
何百もの異臭を放つ尋常で無い存在達が彼らの村へと雪崩れ込もうとしている。
「に、逃げろ! 逃げるんだ!」
ここに来てようやく、致命的な判断の遅さで、彼らは逃げるという選択肢を取るのだった。
「あ、ああ⁈ うわぁぁぁぁぁあ!」
あれ程の距離があったというのに、もう数百の群勢はすぐそこまで迫っていた。ここまで来ればヘドロ人間の姿の詳細もはっきりと分かる。
形だけだ、人型なのは。全身はドス黒い爛れたような肉の表皮に覆われ目も鼻も耳もない。
ただ口だけは、裂けたように大きく大きく開いた口だけが、顔の大部分を占めており、まるでこちらを捕食しようとするかのよう。
いや、そのつもりなのだ。逃げ遅れた年寄りがその大きく開いた口にガブリと首筋を噛まれた。
「ギャァァァァア!」
断末魔の悲鳴。散乱する血と肉片。周囲では共鳴するように複数の叫びが挙げられた。個体個体の叫びはそれ程長くは続かないが、なにせ被害を受ける数がまだ多い。一人が終わればまた次の一人の悲鳴が断続的に重なり合って村中を賑やかせた。
「あッ⁈」
「そ、そんな⁈ ジェニファーッ!」
恋人か、目の前でヘドロ人間に噛まれた彼女を助けようと駆け寄る男性の姿があった。
深々と肩口を食い破られた女性の身体が地面に落ちる。それを抱き起す男性に対し、ヘドロ人間は襲う事なく黙って側で見ていた。
「しっかりしろ! ジェニファー! 返事をしてくれ!」
「‥‥‥‥‥‥」
虚ろな瞳が己を抱える男性を写す。だらしなく開いた口から舌が垂れた。
「ジェニファー! ジェニファー!」
それでも必死に呼びかけ続ける。そのかいあってか、女性から反応があった。
「オボボボボボボボボ!」
「ヒィッ⁈」
口から大量に溢れ出すのはヘドロ。強烈な異臭を漂わせるそれが抱き抱えていた男性の顔に体に吹き付けられた。
「お、オエェェ! ジェニファー? ジェニーーー」
嗚咽しつつも彼女の安否を確認しようと、臭いに刺激され涙で滲む目を、それでも開いた。
そして見なければよかった、と後悔した。
穴という穴から止め処なく溢れ返るヘドロにジェニファーの身体は侵食され包まれていく。その姿はまさにこの村を襲っているヘドロ人間そのものだ。
「ヒィッ! 化け物!」
さしもの恋人同士であろうと、その変貌ぶりにはついていけなかったか。ヘドロ人間と化したジェニファーを思いっきり放り出し、逃げようとする。
「がッ⁈ あ、ああぁ‥‥‥」
だがその背中を押され倒される。絶望の表情が見上げる先にはかつての恋人だったモノ。
不気味に開かせた大口を、振り向いてこちらを見る男性のその顔に、ガブリと食いつかせるのだった。
「パパは? ママは?」
「分からない‥‥‥」
阿鼻叫喚と化した村の様子を、麦畑から覗き見るリアンとジュナ。まだ幼い二人がその場から皆の元へと駆け寄れないくらいに、ヘドロ人間達は恐怖を与えていた。
小さく二人固まって動けないまま、村人達が襲われ、そしてヘドロ人間の仲間になっていく様子を見る事しか出来ない。
「あっ!」
そんな二人を、目も耳もない彼らがどうやって見つけたのか、しかしその顔は確かに二人へと向けられていた。
一体のヘドロ人間達が麦畑の方へと、リアンとジュナへと走り始めた。
「に、逃げるよ!」
何とか動く事の出来たリアンがジュナの手を引き麦の海を駆け出す。
ザッザッ、という音が後方から迫る。チラリと振り返って見た視界で、金色の麦が腐敗しドス黒く変わっていくのが見えた。
「逃げなきゃ! 逃げなきゃ!」
捕まれば、自分達も同じになる。先程の惨劇からその事だけは小さな二人でも理解出来ている。だから必死で走る。
しかし、逃げ切るには二人の歩幅は狭すぎた。
「痛ッ⁈」
手を引かれ、後ろを走っていた筈のジュナの叫びが聞こえた。同時に手は離れ、身軽になる。
「ジュナ⁈」
「イヤ! イヤイヤイヤァァァアア!」
数歩勢いのまま進み、振り返ったリアンの目の前で、丁度ジュナの小さな身体に一体のヘドロ人間が覆いかぶさっていた。
「あ、ああっ‥‥‥ジュナ‥‥‥」
ヘドロ人間にすっぽりと覆われてしまい、ジュナの姿は見えない。だがそこから発生するグチュグチュと言う咀嚼音から何が行われているかは分かった。分かって、しまった。
「ジュナぁ‥‥‥」
何も出来ず立ち尽くすリアン。事を終えたのだろうヘドロ人間がジュナの身から退く。
背中の部分を食い散らかされたジュナの、生気を失った瞳がリアンを映した。
「あ、ああ‥‥‥」
悲劇の焼き回しだ。先程とまるっきり同じ。ジュナの身体から、至る場所からドロリと溢れ出すヘドロは、小さな身体などすぐに覆い尽くした。
いつも一緒に笑い合っていた彼女の顔は、もう見る事が出来ない。
ゆっくりと、ジュナだったモノが立ち上がる。
その口を、獲物を前にした肉食獣のように、大きく、大きく開けて。
彼女の、ヘドロ人間としての初の狩りは簡単に終わった。
「はーい、これで四つ目の集落を侵略、っと。一週間でこのペースって遅すぎない?」
スワネの村が壊滅した様子を、村が豆粒くらいにしか見えない距離から観察していた青い皮膚の魔族、ヴァインドラがそう呟いた。
「仕方ねェだろ。あの鈍重さじゃァな」
それに律儀に答えるのは鳥の造形を持つ魔族のホルザレだ。彼らはそれぞれが持つ遠くを見渡せる眼で惨状の一部始終を見ていた。
「何回見てもキッモいよね〜。パンデモスの侵略風景ってさ。《腐界卿》の名に相応しい最悪な光景だよ。こんなに離れても微かに臭うし‥‥‥」
「お前と意見が合うってのも珍しいなァ。まあやり方や臭いは置いといて、同じ六輝将の中でも一個体で軍と同等の質と量になれる奴はアイツくらいだからなァ」
遠く黒い煙を上げながら、抵抗する者のいなくなった村の中へと入っていくパンデモスの姿が見えた。ここからでも分かるくらいに、アレが歩いた後は腐敗し、黒ずんでいる。
「アレってちゃんと意思疎通出来るの? そもそも近づきたくないけど」
「あァ、カタコトだが喋れるぜェ。大戦時に一度組んだ事がある。もう二度と御免だと思ってたんだがなァ‥‥‥」
遠い目をしながらホルザレが心底嫌そうな顔をした。同じ魔族であってもパンデモスの臭いは堪らないのだ。
「あ〜あ、折角また外に出られたのになぁ。パンデモスの支援任務だなんて聞いてないよ。がっかりがっかりプンプンだよ。やってら〜んない!」
ゴロゴロと地面に寝転がるヴァインドラ。
「そうかそうか。任務から戻っていきなりお前を運ぶように言われて休む間も無く飛んだ俺っちにそれを言うんだなァ、オイ」
それに対し恨めしそうに呟くホルザレの言葉を、ヴァインドラは口笛を吹いて露骨に無視した。
「だがこの七年、辺境に待機させていたパンデモスを動かしたってのは、いよいよって事だろォなァ」
「ま、ね。我らがバドゥーク様もヤル気って事でしょ? だからボクも同行させた訳だし」
帝国の最大戦力である六輝将を、三人も投入した侵略行為。その目的はもちろん、遥か先にある王国だ。
そしてそれは、一時中断していた魔族と人間の、戦争の再開の合図でもある。
ムクリと起き上がったヴァインドラが、彼の目でもまだ見えない程遠い王国へとにこやかに笑いかけた。
「さあ、七年越しの決着さ。あの素晴らしい戦争の日々を再開しようじゃあないか」