#74
「あぁ‥‥‥」
敗れ地に伏すヴェルトリアから溜息が溢れ落ちた。その視線の先にあるのは笑顔。幸せに満ちた、かつて見たことのある表情と同じ顔だった。
「人間と、精霊が‥‥‥愛し合うなど‥‥‥」
ヴェルトリアが抱く感情と似たモノを、少し離れた場所でそれを見たエリシュも抱いていた。
「まさか、本当に人間が精霊と‥‥‥」
信じられないといった風に驚く彼女の横で、クナイが主君の、誰が見てもいつもの無表情にしか見えないが、顔色を恐る恐る伺っていた。
「し、師匠? 大丈夫っスか?」
呼ばれ、じっと二人を見続けていた瞳が閉じられる。再び開かれた瞳はチラリとクナイを横目にしながら、何でもない風にマナは答えた。
「別、に。気に、してな、い」
「そ、そうっスか」
「う、ん。ここ、は、年、功序、列。それ、にーーー」
クナイから視線を移す。その先にあるディーネの顔をじっと見ながら、いつもより声色を優しげにし呟く。
「ここ、に、いる‥‥‥誰、より、も、長く、シグ、を見て、た、人、だか、ら」
ヴェルトリアの目の前にいるのは、姉であるヴィストリアとは全く違う、カドレの森の精霊だ。
それでも、否応無しにヴィストリアの、姉の姿と被ってしまう。
「あの時も、姉上はそんな顔じゃった、のう‥‥‥」
もう五百年は前になるか、この地を訪れた物珍しい人間の雄。彼は短い滞在の中でヴィストリアと親しくなり、そして彼女はそんな彼に恋をした。
彼の為に全てを投げ捨てて、この森を離れてしまう程に。
愛し合っていたのだ。種族の全く異なる二人が。今目の前にいる二人のように、仲睦まじく笑い合って。
「我は、また負けたのじゃなぁ‥‥‥まっこと、愛とは分からぬモノよのう‥‥‥」
自分を、神樹を守る役割を、全て捨て去ってまで姉が手に入れたかったモノ、愛に、再び負けた。
もちろん自分も姉を愛していたが、それとはまた別物なのだろう。種族や血の繋がり、家族などとは違うソレ。
情動、衝動といった、感情の全てがその対象一つへと向かう、ソレの為ならば何もかもを捨て去ってしまえる、恐ろしい程に力強いモノ。愛、か。
「はははっ‥‥‥この森も、神樹も、我も‥‥‥ここで、終わりじゃ‥‥‥」
目を閉じ、乾いた笑いと共にポツリと呟くヴェルトリア。そんな彼女にシグが何か言おうと口を開こうとした。
だがそれは拒まれた。
「終ワルナラ! 是非是非ワタクシ共ノオ役ニ立ッテチョウダイナ!」
「ガハッ⁈」
通常の生物とは違った、キンキンと耳鳴りがするような甲高い発声が空から落ちた。
口から血を吹き出したヴェルトリアの腹部には、黒々とした杭のようなモノが打ち込まれていた。
それを放ったと思われる人物がヴェルトリアの上空に現れる。人型をしているが、全身が包帯でグルグル巻きにされ中身が分からない。それでも頭頂部から突き出ている一本の角から、アレが魔族であるという事は判断出来た。
「き、貴様この前の! 馬鹿な、確かに我が‥‥‥」
「殺シタハズ? エエモウ確カニ殺サレマシタヨ、プンプンデスヨ!」
宙に浮く包帯の魔族は関節の可動域がおかしいのか、怒りを表すように手も足もバラバラと様々な方向へ動かせる。
「殺サレタオ返シニ呪イノサービスシテアゲタノニ、解コウトスルナンテ人デナシ! 邪魔シヨウト思ッタラ、アラマア大チャンス! 精霊王ノオ人形ナンテ珍シイモノ、我ガ主人ハキット喜ビマストモ!」
「これは‥‥‥我を、傀儡にするつもり、か⁈ ぐッーーー」
腹部に突き刺さる杭の傷口からじわじわと痣が広がっていく。
「マアマア、力ヲ抜イテ。スグニ何モ感ジナクナリマス、ヨ! 仲間ガ増エルネ、ヤッタネプミラチャン!」
「く、クソッ‥‥‥」
力が入らないのか、ヴェルトリアは杭を抜く事すら出来ず呻き、身体に広がる痣をただ悔しげに見るしかなかった。
そんな彼女と魔族の間にフワリと、ディーネが割り入った。
「ディーネ⁈」
シグの呼びかけに心配するなと軽く微笑むと、ディーネは魔族に向き合った。
「ねえ、蚊帳の外申し訳ないんだけど。いきなり出てきてこっちを無視して話を進めているけど、どういうつもりな訳?」
「オヤ、コレハ失敬。ワタクシ死人形ノ一人、プミラ四号ト申シマス、初メマシテカドレノ森ノ精霊ディーネサン」
カクカクと、手を胸に当てお辞儀をするプミラ四号と名乗る魔族。人形と自分で言っていたように、本当に人形のような動きだった。
「あら、私の事知ってるのね」
「エエ、ソレハモウ。チョット前カラ見テマシタカラ、ネ! ソコノ噂ノ、《闇ノ刻印》ノ継承者ト、元姫様ノ様子ヲ」
包帯で覆われ目も口も見えないが、顔と思われる部分をグルリと回してシグと、そして離れた場所にいるマナの方向へとわざとらしく向けた。
「ふうん、覗き見が趣味なのね。あまり褒められたものではないけれど」
「イヤイヤ、ワタクシノ代ワリニ解呪ヲ邪魔シテクレルノカナアト、見テイタダケデス、ヨ!」
芝居臭い身振り手振りをしながらプミラはそう答えた。
「ソノ時ニチョウドヨク精霊王様ガ行動不能ニナッテタノデ、コウシテ頂イテオコウカナト」
「あっそう。残念だけど、別にあんたの手伝いをするつもりもないし、このまま精霊王をあげるつもりもこちらにはないわ」
軽い調子で答えるプミラに対し、ディーネは倒れ呻くヴェルトリアを庇うように手を広げた。
「エー、ソウナンデスカ? 解呪ノ為ニ使イ捨テラレヨウトシテタノニ?」
「別に、そんな事でわざわざ私は怒らないし、神樹とこの森が失われればウチの森にも悪影響が必ず出るしね。だから、やらせないわよ」
「ウーン、ワタクシ戦闘ハ不得手ナンデスヨネ。穏便ニチャチャット帰ロウカト思ッテタンデスガーーー」
ディーネの背後で、ゆらりとヴェルトリアが起き上がった。呻き声は途絶え、ほぼ全身を覆う痣に犯され、音もなくディーネへと飛び掛かった。
「させない!」
その突撃はシグの影の拘束により止められる。しかしヴェルトリアの身体は凄まじい力で無理矢理拘束を脱け出そうと身を捩った。
「なッ⁈ なんて力だ!」
「ちょうどいいわ。そのまま固定してて」
驚き、力を込めて拘束を続けるシグへとそう告げ、暴れるヴェルトリアの前に立つと、ディーネはその腹部に突き刺さる杭へと左手を伸ばし、掴んだ。
「ッ!」
その瞬間、触れたディーネの手にも痣が侵食を始めた。
「触リマシタ? 触リマシタネ? 呪イノ媒体ニ触ッチャイマシタネ? 清ク純ナ精霊様ガ、我ガ主人ノ呪イノ杭ニ!」
それはそれは嬉しそうに、壊れたように叫ぶプミラの前で、呪いはディーネをも犯していく。
「ディーネ!」
「‥‥‥いいから、そのまま抑えてなさい」
そんな訳にはいかないと飛び出そうとするシグを右手で制し、ディーネは首だけ回して背後のプミラを見た。
「成る程ね。呪いを受けた相手を傀儡化するモノか。中々強い呪法具じゃない」
「オ褒メニ預カリ恐悦至極! 精霊ニハトテモドギツイ呪イデショウ? ソノママ貴女モオ仲間ニナリマショウ、ネ!」
既に肩まで痣に犯されながら、それでもふう、と溜息を吐いてディーネは意地悪そうに笑った。
「残念だけど、私はもうあんたの言ってるような清で純な精霊じゃあないの」
「エッ?」
まるで時間が巻き戻るかのように、ディーネを侵食していた痣が戻っていく。肩から手へと。いや、戻っているのではない。
「エエー⁈」
ディーネの身体のものだけでなく、ヴェルトリアの全身に広がっていた痣も、吸い込まれるように消えていく。杭を掴むディーネの左手へと。
「ディ、ディーネ⁈ 何を⁈」
「なんであなたも驚いてるのよ」
呪いを飲み干しているのは、正確に言えばディーネではない。左手の薬指にはめてある漆黒の指輪だ。それが呪いを自らに沈めているのだ。
「何ソレ何ソレ知ラナイ! 我ガ主人ノ呪イヲ、消スノデハナク吸収スルナンテ 、ドンナ一品⁈」
指輪の暴挙はそれだけに留まらない。呪いを生み出す杭すらも、喰い尽くす。
「アッ⁈ アー! ナンテ、ナンテコトヲ!」
「ご生憎様。ついでにもうちょっと付き合ってもらうわよ」
シグと出会い共に旅をし、外の世界で得た様々な経験から、森をただ守る事だけしかしてこなかった自分自身を、その役割を全うするしかなかった人生を、変える事が出来たディーネの新たな力。
《闇の婚姻》その真価は、互いの確固たる絆により発揮される。指に嵌る漆黒の指輪を、闇を輝かせるそれを掲げ、放つ。
「こんな感じかしら。ーーー《魔装顕現》!」
渦巻く魔力は指輪を媒体に魂をカタチとする。
聖と闇、清濁併せ呑むディーネの《享受》と、自らの運命を変える《変容》という概念を持つ魔装。
「《千咲万水の華鏡》」
ディーネの手の中に落ちるは透き通る小さな手鏡。縁を木々や草花の意匠で飾られた、鏡の魔装。
「ナ、ナンデ⁈ ナンデ精霊ガーーー」
驚き叫ぶプミラの言葉が止まる。現れた鏡がその身を変化させたからだ。
目の前にいるプミラと寸分違わぬ姿に。
それは魔鏡。写りし姿を閉じ込め、己がモノとしカタチ取る。
「お人形遊びがお好きなんでしょう? いいわ、付き合ってあげる」




