#71
ヴェルトリアが放った魔法により意識が奪われる。シグはそのまま倒れ伏し、ルナリスもフラリと倒れ込んだ。それをエリシュが自身もフラつきながら抱き抱え止めた。
「くっ‥‥‥」
自分よりも大きなルナリスの身体を受け止めきる事が出来ず尻餅を着き、エリシュはゼェゼェと息を吐いた。魔法に抵抗した為の反動である。
「ほう、耐えたか。半分とは言えエルフか。しかし解せぬ」
ヴェルトリアは自らの予想に反して、意識を保ち続けるマナとクナイを睨んだ。
「ぬしらにこれに耐えられる程の耐性があるとは思えぬのじゃがのう」
「えっ? 自分何かされたっスか?」
ポカンと自らにかけられたはずの魔法に気付く事もなく普段通りのクナイと、その背からしっかりとした瞳でヴェルトリアを見つめるマナの姿があった。
「夢想、で、遊ぶ、なん、て、三年、で飽き、てる」
二人に魔法が効かなかったのは、前者はそういった性の欲望に目覚めぬ程まだ子供であるという事と、後者は七年の闇の孤独の中でそういった類のモノに耐性を得ていたからだ。
「くくく、一緒に夢に堕ちていた方が楽じゃったかもしれんのにのう」
嘲るヴェルトリアを無視して、マナが背中から降りるとシグに駆け寄った。それに対し脅威にもならぬとばかりに攻撃を仕掛ける事もせずヴェルトリアは見送る。
「シ、グ‥‥‥」
「呼びかけても無駄じゃ。一度この夢に堕ちた者はもう戻ってはこれぬよ。欲望のままに、快楽に堕ち、二度と目覚めようとはせぬ。それも自らの意思で、じゃ」
ある程度再生し、半分程戻った顔は寝顔のようであった。その顔に手を伸ばし、もう一度呼びかける。
「シーーー」
「ア‥‥‥アイ、シェ‥‥‥」
呟かれたその言葉に、マナの手が止まる。じっとシグの顔を見つめ、そして手を引っ込めた。
「‥‥‥‥‥‥」
「なんじゃ? 他の雌の名前でも呼んでおったか? それはそれは残念じゃったのう魔族の姫よ」
やはり答えず、マナは背を向けクナイの元へと戻った。そしてクナイへと何かを耳打ちする。それに頷くとクナイはマナを背にし、次いで倒れ込むルナリスを引っ張り上げた。何が何だか分からないがエリシュもフラフラとそれに続く。
「おや? こやつを置いて逃げるつもりかの? 可愛そうに。じゃが、それが真実よ。この世に愛などと不確かなモノは存在せぬ。まあ、じゃからと言って逃しはせぬがな」
少しずつ離れて行こうとする四人へと余裕の笑みで魔法を発動させようと構えるヴェルトリア。
そのまま逃げるのかと思っていたが、四人は程なくして止まり、座り込んだ。
「何じゃ? 何をしておる?」
「よっこいしょと」
座ったクナイが懐から巻物を取り出す。それを広げ、そこに書き留められた忍術を、一回限りの限定ではあるが、発動させた。
「《秘伝の巻物・開張ーーー忍法・四封絶界》」
開かれた巻物が光を放ち、そこに書かれた文字が燃え消える。代わりに発動される忍法。グルリと、四人を囲むように立体状の半透明な結界が張られた。
「魔法では、ない?」
初めて見る忍法に訝しみながらもヴェルトリアが魔法を放つ。光の矢が次々と打ち出され、ぶつかる。
「ーーーほう、随分と頑丈じゃのう」
シグの身体を簡単に貫いた魔法は、しかしクナイの結界に傷一つ付ける事は出来なかった。
「じゃが、いつまでも貼り続ける事も出来まい? どうするつもりじゃ、そんなモノに引きこもろうが少しの間命を生き延ばすだけじゃろうに」
「違、う」
ここにきて初めて、マナがヴェルトリアへと言葉を放った。
「これ、巻き、込まれ、ない、ように、する、為」
マナの視線は、言葉を向けたヴェルトリアではなくその下へ。
「‥‥‥何じゃと?」
「あま、り、見たく、は、ない、けど」
表情と同じく抑揚の無い声だが、それでもマナが面白くなさそうであるというのは、まあまあ付き合いのあるクナイには感じ取れた。
「それ、は、踏ん、じゃ、ダメ。逆、さの、鱗」
「さっきから、一体何を言っておるのじゃ‥‥‥」
全く訳が分からず困惑するヴェルトリアの足元で、ピクリと何かが動いた。
頭がクラクラする。魔法の影響か、それとも。
「ねえ、好きにして、いいよ?」
目の前で蠱惑的な微笑みを浮かべて身体を寄せる彼女のせいか。
衣服は乱れ、肌色が多く覗く。柔らかな肌と肌が合わさり、なんとも言えぬ快感が襲い来る。
「ふふっ、緊張してる?」
甘い囁きとともに耳を小さく噛まれる。痛みはない。それすら感じられない程に感覚は麻痺している。
指がつうっ、と服の隙間から腹部を撫でた。ゆっくりとゆっくりと上がっていき、胸に手が置かれる。温かく柔らかい手の平が心臓の部分にべったりと押し当てられた。
「ねえ、シグも、触ってよ」
空いている左手がこちらの右手を掴み持ち上げる。そしてそれを自らの胸へと優しく誘導した。
抵抗する事なく、右手は目の前の彼女へと持っていかれた。だが途中で手を振りほどき肩を掴み、押しのけた。
「‥‥‥シグ?」
「ごめん。それは無理だ」
こちらの言葉に悲しそうに顔を歪ませる。本当に悲しそうに。
「どう、して? 私の事、嫌い?」
今にも泣きそうな、こちらの胸が痛む程の表情と声音で問いかける彼女に対し、優しく答えた。
「いいや。俺はアイシェの事を愛しているよ」
「だったらいいじゃない。愛し合おうよ。二人っきりで。他の事なんか何もかも忘れて、ずっと二人で‥‥‥ね?」
頬を赤らめ再びこちらへと、まっすぐに唇を近寄せる彼女に、やはりそれは出来ないと拒絶した。先程よりも強く、左手も使い肩を掴み押しのけ立ち上がった。
「シ、グ?」
「俺はアイシェを愛している。だから、君と愛し合う事は出来ない」
「‥‥‥私はアイシェだよ? 私の事忘れちゃった?」
ああ、顔も姿も声も、アイシェそのものさ。間違えるはずがない。でも、決定的に違う。
「アイシェは優しかった。どんな時でも、皆の事を考えていたよ。最後の、最後まで。俺は、彼女のワガママを、最後まで言わせてあげられなかったんだ」
何においても、家族とシグの事を優先し、自らは報われる事なく死んでしまった彼女。そんな彼女が、何もかもを忘れてしまえなど、言おうはずがない。
「そんな台詞を、俺はアイシェが生きている時に言わせてあげるべきだったんだ」
情けない限りだ。これは夢。理想などではなく、後悔ばかりを叩きつけてくる悪夢。
「俺は行かないと。夢は、覚めないといけない。皆が待ってるから」
ここは現実ではない。その証拠に不調だった身体に痛みはなく、思う通りに影が蠢き難無く一振りの剣を顕現させる事が出来た。
黒く染まる、曲がりくねる二つの刃が交わる毒剣《闇・双蛇の絞刃》を手に握る。今の自分に相応しい唾棄すべき剣だ。
「‥‥‥それで、私を殺すの?」
「馬鹿なこと、言わないでくれ」
これが夢だろうが幻だろうが現実だろうが、君を殺すなど出来るはずがない。例え偽物だろうと。
「死ぬのは、死ぬべきは愚かな俺だ」
その刃を自分に向け、勢いよく喉元に突き立てた。夢とは思えない痛み。毒の効力まできちんと再現された。身体中が悲鳴をあげる。
「ああ、痛いなあ」
痛い。痛い痛い痛い。
死が襲う。視界が暗く堕ちる。愛しの人の幻が消える。もう戻れないあの洞窟の光景が消える。
全てが痛みと共に消え失せていった。
感傷も後悔も、一緒に流れ消えていく。
だが、そんなものを軽く塗りつぶす程の衝動は消えること無く大きく大きく育ち、目覚めの時を迎える。
「なんじゃ、目覚めたのか」
足元で動く人間の雄へと面白くなさそうにそう呟くヴェルトリア。
まだ再生途中で至る所が崩れたままのシグは、それでもよろよろと立ち上がった。
「まさか目覚めるとはのう。なんじゃお主、不感症か? それとも、あまりに刺激が強すぎたかのう? 早い奴は嫌われるぞ?」
心底馬鹿にした言葉を吐き出すヴェルトリアに、シグは静かに答えた。
「‥‥‥幻を見せる魔法、か。初めての体験だったが、成る程大した魔法だな」
「なんじゃ、気に入ったのか? ならばもう一度夢を見せてやろうか。所詮ケダモノ、欲望には逆らえんという事じゃのう」
目の前にいるというのに、余裕のある態度であくまで見下す精霊王にシグの瞳が細められた。
「気に入ったか、だと? ああ、ああ、大した魔法だったさ。ここまで、ここまでッ‥‥‥」
夕陽が沈んでいく。森に影が落ちていく。だが神樹の放つ淡い光により暗闇にはならない。いつもなら。
「なッ⁈」
それは明らかに異常であった。油断しきっていたヴェルトリアでさえ本能的に跳びのき宙へと逃げる。
影がある。それはいい。地面に影があるのは当たり前だ。だが、今や地の全てが暗闇の海に堕ちていた。真っ暗で、底無しの、闇しか存在しない異常な大地へと変貌する。
「こやつ! 聖域を、塗りつぶしたのか⁈」
あまりに常識外れな出来事にさしものヴェルトリアも驚きの声を上げる。
そんな彼女に、言葉途中だったシグの叫びがぶつけられた。
「ここまでッーーーこの俺を怒らせるとはなあッ⁈ よくも、よくもよくも彼女を汚したなッ! 汚してくれたなヴェルトリアァァアッ! 許さん! 許さんぞ!」
「‥‥‥下等生物如きが、吠えるでない! 《崇めよ神の後光を》!」
それは巨大な光の柱を吐き出す極大魔法。空からの侵入を拒んだ絶大な威力のそれを、遠慮容赦なく地面にいるシグへと、そしてその範囲内にマナ達を収め放つ。
「それがーーーどうしたァァァアア!」
身体は既に嘘のように再生されていた。綺麗に元通りになった両の手に再顕現されるは《闇燼滅・煉獄の轟斧》。
中心部の炉心は黒く燃え盛り渦巻き、巨大な炎の塊を生成する。
それを勢いよく落下する光の柱へと力強く振り上げ放った。
「《大黒天・灼燼の揺光炎》!」
生まれ出づる太陽。だがそれは本来のモノとは真逆。熱と光を発するのではなく吸収する、漆黒の太陽。
ぶつかり合う光の柱と黒き太陽。極大魔法から生まれた光は闇に沈み、衝突の余波すら飲み込まれ収縮し、消滅した。
その様子を見て忌々しそうにヴェルトリアが吐き捨てる。
「気配まで変えおって。その漏れ出した力、成る程《闇の刻印》か!」
「‥‥‥なんだ、最初からこうしていれば良かったのか」
あれ程身体を蝕んでいた痛みは最早ない。それもそのはず、聖気に満ち満ちていた空間そのものを犯し塗りつぶし闇の支配下に置いたのだから。
身体の調子を確かめるように左手を開閉させる。不調は嘘のように逆転し、それに合わせるように胸に宿る刻印も赤黒く不気味に光り輝いた。
ギロリと宙からこちらを見下ろすヴェルトリアを睨む。
「お前、邪魔だな。喰い殺すッ!」
「‥‥‥調子に乗るなこの下等生物がッ!」
聖域は闇に堕ち、神殿の一部が光と闇の魔法の撃ち合いによって崩壊していく。この戦いを止められる者などこの場には誰も存在しなかった。




