#6
シグの目の前で宙を裂くように現れた黒い亀裂は頂点より閉じていき、閉じる寸前に吐き出されたのは地に残された黒い塊だけであった。
空はもう何事もなかったかのようにいつもの晴天を映している。だが、森はまだ死んだように眠り、吐き落とされた異物を静かに観察しているかのようだ。
痛いほどの静寂の中、黒い塊かもぞもぞと動きを見せた。まだ動揺が収まらないシグはその動きにびくりと一歩下がる。
すぐにここから逃げ出した方が良いのではないか、しかし自分が動きを見せれば目の前の黒い何かが急に襲いかかってくるのではないか。そんなシグの逡巡を嘲笑うかのように黒い塊が軽い破裂音を立てて爆ぜた。
「ウワッ⁈」
思いがけない音に思わず顔を手で覆う。だが自らの身体にぶつかった様子は感じられない。恐る恐る手の隙間から塊があった場所を覗いた。
金色。目を奪われる程に輝かしく光を放つ黄金がそこにあった。
「‥‥人、か?」
黄金と思われたのは身体を覆う長い髪。その下には人と同じような形、手や足が覗く。どうやらうつ伏せに倒れているようだ。
「ァーーー」
倒れた何者かの空気を搾り出す音。伏したまま、ゆっくりと顔がこちらにあげられる。
「つ、角⁈」
僅かにあげられた額には左右から生やされた角。シグもよく知っている。この者が魔族であるという証だ。
まずい、魔族の力は強大だ。急ぎこの場から逃げるべきだ。理性がそう判断し、身体を動かそうとした。だが、次にこちらを見据えた赤い瞳に身体が止まる。
「ァ‥‥‥タァ‥‥‥」
魔族の者の小さく掠れた声とも言えない音が届く。
「‥‥‥‥‥‥」
先程までの恐れや危機感は消えていた。代わりにシグが感じているものは何であるのか。
未だ倒れ伏した魔族の元に寄ると、優しく腕を取り担ぎあげた。肩に手を回させ起こす。
「ーーー綺麗な、顔をしているんだね」
垂れ下がる黄金から垣間見えた魔族の者にそう言うと、あとは何も言わず彼女を運び始めた。
じっ、とそんなシグを見据えた赤い瞳は、力尽きたのかすうっと閉じられた。
「シグ! ちゃんと生きてるよね? 良かった良かった!」
隠し戸を開けるとすぐにアイシェが顔を出した。
「アイシェ! ルイシェとロイシェは無事だったか?」
「大丈夫も大丈夫。ちょうど昼寝してて何も分かってなかったよ。全く、図太いんだかなんだか」
その苦笑にも二人が無事だったことへの安堵が多く含まれていた。
「良かった‥‥」
「まあ良かったのは良かったんだけどさ、その子は何?」
アイシェはシグの担ぐ相手に対して先程からずっと警戒心を露わにしていた。耳と尻尾は逆立つようにピンと立ち、隠し爪も伸ばしており、いつでも攻撃に移れる態勢だ。
「助けを求めていた。だから、助けようと思う」
そんなアイシェに対して取り乱すでもなく、いつものようにシグは自分の意思を伝える。真っ直ぐな視線にアイシェは空を仰ぎ、アーと呻いた後、脱力するかのように耳も尻尾もダランと下げた。爪も収納される。
「もちろん魔族ってのも分かってるってことよね? 分かった分かった、分かりましたー。ほんと、人間にしておくには勿体ないいい男だね」
ケラケラと茶化されたシグは頬をかき、アイシェに手伝ってもらいながら奥へ進んだ。
「おかえりなさーい!」
「お、おかえり‥‥ひぃッ!」
ルイシェはいつものように突撃してきた。なるほど無事どころか元気いっぱいだ。対してロイシェはいつもと違う異物に素早く隠れてしまう。
「んー? 今日のご飯は、コレ?」
「いや、食べないから」
ルイシェの食べられるんだろうか、という困り顔にアイシェが突っ込む。食べ盛りの思考に思わず苦笑し、双子が昼寝していたであろう草葉のベッドに魔族の子をゆっくりと寝かせる。未だ目は閉じられたままだ。
「えーっと、あったあった」
シグは剣を取り魔力による灯りをつける。仰向けに寝る彼女の髪を優しく払う。
「ほえー、とっても綺麗な子ね」
同性のアイシェでも見惚れてしまうほど、彼女は美しい顔をしていた。まだシグやアイシェよりも幼い顔立ちは、黄金の髪に包まれながら静かに眠りに落ちていた。
「大丈夫だよ、ロイシェ。こっちにおいで」
シグの言葉に物陰に隠れていたロイシェがおっかなびっくりといった様子でこちらに近づく。
「‥‥いきなり襲って、こない?」
「ああ。それにとっても強いお姉ちゃんもいるから平気だよ」
それはどういう意味だとばかりに眉根を上げるアイシェ。ほっとした表情を見せたロイシェはシグの背後から眠る彼女をそうっと覗く。
「に、人形さん、みたいだね」
幼い彼にも彼女の造形が美しいと感じられたのだろうか。
「おーなかすーいーたーーー!」
相変わらずのルイシェの空腹の叫びが洞窟に響いた。
「んーーー」
「起きたかい?」
寝息ではない発声にシグが声をかける。その声に反応したのか、開けられた瞳がシグへと向けられた。
「具合はどうだい? 何か痛い所とかない?」
「‥‥‥‥」
その問いかけには答えず、視線はシグから洞窟内をぐるりと回り、そしてシグへと戻る。
「えっと、俺はシグナス。シグって呼ばれてる」
自己紹介をするシグの背後から三つの顔が突き出される。
「はーい。私はアイシェ。こっちが双子のルイシェにロイシェよ」
「ルイシェだよー!」
「ろ、ロイシェ、です‥‥」
矢継ぎ早に発せられた情報に対して、彼女は瞳を四人に順繰り動かした。
「‥‥‥‥」
「‥‥もしかして魔族には言葉が通じないのかな?」
「いやー、それはないでしょ。まだ喋る元気がないんじゃない?」
よいしょと、アイシェが彼女の上体だけをゆっくり起こさせる。
「甘くて美味しいリカンの実だよ。食べられる?」
されるがままの彼女であったが、差し出されたリカンの一口サイズに切られた実をぎこちなくも両手で受け取る。
「そのまま食べられるから。ほら、こうやってパクッと」
アイシェが同じものを自らの口に放り投げもぐもぐと咀嚼する。ずるいずるいわたしもー! と叫ぶルイシェにもやれやれとばかりに放り投げると、器用に口でキャッチした。
「‥‥‥‥‥‥」
やはり黙ったまま、それでもアイシェやルイシェの様子から大丈夫だと思ったのか、おずおずと実を口にする。
「ァ‥‥‥」
無表情だった彼女だが、味覚を刺激されてか目がぱっちりと見開かれる。
「どう? 甘く美味しいでしょ?」
「おいしーでしょー!」
二人の問いかけに対して、溢れたのは涙であった。
「ゥ‥‥ァア‥‥ァァァ! ゥワァァァ! ああぁぁ! うわぁぁぁぁあ!」
「ちょッ⁈」
自分では止められないのか、上げる叫びも涙もとめどなく流れていく。そんな様子に慌てふためくアイシェと、トコトコとルイシェが彼女の頭に手を置いた。
「いたいのー? だいじょぶだよー! ほら、ヨシヨシ〜!」
「ふぁぁ‥‥ふっ、ぐすっ‥‥ぅぅ‥‥」
「ヨ〜シヨシ。いたくないよ〜」
それはいつもアイシェが彼女やロイシェにしているあやしだった。撫でられたことにより声は収まっていき、一気に体力を使ってしまったのか、再びベッドへ倒れた。
「‥‥‥‥‥‥」
「おやすみだね」
シーだよ、と小さな声でこちらに注意を促すルイシェに、姉として妹の成長を見れたことにアイシェは微笑んだ。
「一体、彼女に何があったんだろうね。突然森に倒れた状態で現れたし、魔族の子ってことしか全く分からない。持ち物もないみたいだし」
「だね。でも、ここに置いておくつもりなんでしょ?」
「ダメ、かな?」
シグの困った表情にアイシェはデコピンを食らわせた。
「アヅッ⁈」
「ダメだったらそもそも入り口で対処してまーす。まあ、どう見ても困ってるみたいだし、ここで様子を見てあげましょ」
「‥‥‥ありがとう」
魔力の淡い光が眠る彼女を照らす。魔族とは言え、子供のように泣きじゃくり眠った彼女は、自分たちと何も変わらない生き物に見えた。