#56 愛しの君よ
暗い。ここはどこだろう。周りには何も無い。ただひたすら闇があるだけ。
俺は、何をしていた?
思い出せない。なぜ、俺はここにいる?
『力とは何だ?』
声が聞こえる。真上からだ。見上げれば何処かで見た事がある気がする、赤い紋様が浮かんでいた。
紋様の中心は瞳を描いていたのか、瞼が開かれたように血走った眼がこちらを見下ろしていた。
『力とは何だ?』
繰り返される質問。全く意味が分からない。
力? 力とは? そんなもの‥‥‥そんなくだらない質問‥‥‥
『ならば答えよ。汝の力とは何なりや?』
力‥‥‥チカラ‥‥‥ちから‥‥‥?
答えあぐねる俺に代わり、左側から嫌悪しか感じない声が答えた。
それは黒い双子の蛇。邪悪に笑う嗜虐の魂。
『力とは、弱者を潰し、汚し、犯し、奪い尽くすモノ。振るえば簡単に全てを手に入れられる、悦びに満ち溢れたモノです』
ーーー違う。そんなモノは求めていない。
今度は右側から、気圧される程熱い熱い声が答えた。
それは太陽。燃え盛る紅蓮の戦意の魂。
『力とは! 他者と競い、戦い、打倒し! その果てにある勝利という、何物にも代え難いモノを得る為に鍛え上げる己自身! 戦う為の全てだ!』
ーーー違う。俺は戦いが好きな訳ではない。
『ならば、汝の力とは何なりや?』
ならば、俺は何の為に力を得た? この力は何の為にある?
真実を映す瞳が俺を見下ろし見透かし、なお問いかける。
『答えよ答えよ答えよ。汝の力とは何なりや?』
知らない。そんなモノ、知らない。俺は、俺は、俺はッーーー
「俺は‥‥‥何の為に‥‥‥」
ただ、誰かを助けたかった。救いたかった。
兄さんのように、勇者としてみんなを守るその姿に憧れた。
だから、力も無いのにがむしゃらに、何も考えずに誰かを守ろうとした。
そして、出来なかった。
それはきっと、力を得た後も一緒。何も変わらない。
結局俺は昔と変わらず何も、何もッーーー
『大丈夫? ふふふっ、シグ、酷い顔してるよ?』
その声は、誰の声だったか。そんな事、考えるまでもない。忘れた事など一瞬もないのだから。
「‥‥‥そんなに、酷い顔してるかなぁ、俺」
『うん。とっても情けない顔してる。あれ? いつもそんな顔だった気もするなぁ』
頬を、何か熱いものが伝って落ちた。声は震えていなかっただろうか。これ以上からかわれては堪らない。
「それは、流石に言い過ぎじゃあないかな?」
『そうだね。シグはたまーにだけど、男らしい顔見せてくれてたからね。とても私、ときめいてたよ?』
「‥‥‥また、反応しにくい事を言ってくれるなぁ」
このやり取りも、懐かしい。とても、とても懐かしかった。
『ふふふっ、こんな時でも素直になれないんだから。相変わらず、だね』
優しい、優しい声。何度も夢に見た、何度ももう一度聞きたいと思った。心に透き通るように澄み渡る、鈴音のような声。
「相変わらず、か。そうだね‥‥‥俺は何も変われていない‥‥‥」
こんなにも情けない、今の自分を見せたくなかった。
『んー? シグは自分を変えたいの?』
「‥‥‥分からない。でも、このままじゃいけない気がしてるんだ。このままじゃ、結局俺は‥‥‥」
また、何も守れないのではないか。また、失ってしまうのではないか。
そんな恐怖がジワジワと気づかぬ内に心を侵食している。
「怖いんだ。俺が俺でいる事に。俺の我儘で、周りの人が、大切な人が傷ついてしまう事に」
現に、いつも側に居てくれていたディーネはもう居ない。
『そうだね‥‥‥怖いね。大切な人を失うのは、怖い』
ぎゅっ、と背中から抱きしめられる。
柔らかい感触。暖かい感触。
『ねえ、シグ。今、幸せ?』
「えっ‥‥‥あー、うー、そ、そうだな‥‥‥幸せ、だと、思う」
いきなり変わった話題に慌ててしまう。それでも、その問いかけに瞬時に思い浮かぶ人達がいた。
守りたい、幸せにしたい人達がいた。
『そっか。良かった。幸せじゃない、なんて言ってたらぶっ飛ばす所だったよ』
「えぇ‥‥‥」
本当に、君は変わらない。君はいつも強かった。
『シグ、あのね。多分だけど、今シグの周りにいる人達は、きっとシグが大好きなんだ。今のシグが、大好きだから一緒に居るんだと思うんだ』
「そう、かな‥‥‥」
『そうだよ。私が間違った事言った事あった?』
「結構あった気もするけどーーーイテッ⁈」
耳をつねられた。それも結構な力で。
『ゴホン! 間違ってないよ。絶対に、そう』
「どうして、そう思うんだ?」
こちらを抱きしめる手に込められた力が、強まった気がした。でもそれは、決して痛くなんかない。
『簡単だよ。私はね、シグ。向こう見ずで、計画性もなくて、自分が決めた事は何と言われようが曲げない、馬鹿で融通が利かなくて、力が無くても誰かを助けようとする、そんなあなたのことをーーー
私は愛しているからーーー』
「‥‥‥参ったなぁ。そうも断言されちゃうと、何も言えないじゃあないか」
本当に、君は、何よりも真っ直ぐで、いつまで経っても、俺は君に勝てる気がしない。
『ふふふっ。こんな愛の告白させといて、シグからは何も無い訳?』
耳元で悪戯っぽく囁く彼女に、今度こそ俺ははっきりと伝えた。
「ああ、そうだね。ーーー俺も、君を愛しているよ」
前に回された手を握りしめて、そう伝えた。これが夢幻でも構わない。この想いは、この気持ちには、嘘偽りなど無いのだから。
『やっと、言ってくれたね。あーあ、もっと早く言って欲しかったなぁ』
「それは、本当にごめん‥‥‥」
『‥‥‥いいよ、許してあげる。だからね、シグ。代わりに、ちゃんとーーー
今大切に思ってる人達を幸せにしてあげてねーーー』
感触が消える。振り向いても、もう彼女は何処にも居ないだろう事だけは何故かはっきりと分かった。
意識の外にあった《闇の刻印》、そして《双蛇の絞刃》と《煉獄の轟斧》が戻ってくる。だが、もうそれらに対して何も感じることは無い。
もう何も迷う必要などないのだから。
赤い片目の瞳が何度目かの問いを落とす。
『答えよ。汝の力とは何なりや?』
「力、か。そんなの簡単だ。それはーーー」
暗闇に光が見える。小さな小さな光の粒が、眼前にたくさん広がっていた。夜空だ。
遮られる物もない済んだ空に、星は爛々と輝きその淡い光を落としていた。
そんな頭上に、それらよりも輝きを放つ二つの赤く綺麗な瞳が見下ろしていた。
「‥‥‥おは、よう」
「おはよう、マナ。と言っても夜だけどね」
どうやらマナの膝を枕に横になっていたらしい。身体はまだ重く動かすのが億劫だった。
「い、い。もう、少、し、休、む」
「ああ、ありがとう。そうさせてもらうよ。ちなみに‥‥‥あれから何日経った?」
「5、日」
「そんなに寝てたのか‥‥‥。じゃあ、明日が結婚式だな‥‥‥」
寝過ごして全てを台無しにするという事は回避出来たので安堵の溜息をつく。
ふと隣に目線を向けると、地面に大の字で眠りこけるクナイの姿があった。相変わらず大口開けてヨダレを垂らしている。
何も変わらない光景。だけど、いなければいけないはずのもう一人の姿は無かった。
自分の胸元に手を伸ばす。そこにいつもあったはずのペンダントを掴むことは出来なかった。
「ディーネは‥‥‥いなくなっちゃったのか‥‥‥」
「う、ん」
意識の消える直前、彼女の残した言葉が蘇る。
『最後まできちんとやり遂げなさいよ』
いかにも、彼女らしい言葉だなと、シグは思った。
「必ず、また会いに‥‥‥迎えに行かないと、だな」
「‥‥‥う、ん。絶、対、ね」
失くした胸元の寂しさとは別に、痛みとともに《闇の刻印》がシグの胸元を、前よりも確実に大きく刻んでいた。