#31
森の外れに置かれた王国の拠点となるテントが連なる一帯。それらがまだ見える距離で、少年ニルヘ・スキャアは課された作業をこなしていた。
王国の孤児院から強制的にここに連れてこられ、それからずっと労働を強いられていた。今日の彼の作業は、騎士達が屠った森に住む猿妖族という者達の死体から毛皮を切り離す事であった。
この作業、初めの頃は血生臭さや屍臭により吐き気を催しながらしていたものだが、今ではそれも慣れてしまった。
サビの浮いたナイフで切り離し、桶に入れた水に付け、血や汚れを落とし一纏めにする。後で高台に置いて乾かせば一連の作業が終わる。
毎日騎士やその上司である貴族、また同じ境遇のはずの同僚に、一番年下だからとなじられながらの作業は、ニルヘの心を疲弊させ、今や文句すら出ず淡々と作業をこなすだけの存在となった。
終わりの見えない変化の無い生活。終わるとすればきっと、他の死んだ同僚と同じく誰かに殺される事で迎えるのだろうとニルヘはぼんやりと考えていた。
そして、そんな予感は当たってしまう。
「こんにちは」
「‥‥‥え?」
いつの間に。ナイフで皮を剥いでいるその横に、黒い黒い影が立ってこちらを見下ろしていた。
疲弊したニルヘにはすぐに反応出来なかった。驚きを表す事も。相手が明らかに異形の者でも。
「それ。君は何をしているんだい?」
影はどうやら人の形をしていた。影に見えるのは纏う衣装が闇のように黒ずんでいるからか。光を一切反射しないボロボロの布で全身が覆われている。
声が発せられた、おそらくは顔の部分には、出来の悪い目と口だけ空けられたお面があった。こちらも真っ黒で、空けられた穴から覗いた空間も闇だった。
「‥‥‥あー、これは毛皮を取ってます」
異常な事が異常と感じられないニルヘ。それは黒い影の話す声色が普通の人と同じような自然なものだったからか。ニルヘも普通に返事をした。
「へぇ。それはまたどうして?」
「高く売れるから、だそうです。だから出来るだけ綺麗に剥ぎ取れと、いつも怒られてます」
「なるほど、それで死体は持って帰ってるのか」
何かに納得したように呟く影。ここでようやくニルヘは影に興味が出た。
「あなたは、誰? どこから来たんですか?」
「あぁ、名乗ってなかったね。俺はーーーアイシス。そう呼んでくれ。森の奥から来たんだ」
「アイシスさん、ですか。この森には猿妖族以外にも住んでる人がいたんですね」
「あー、まあね。それで、君の名前は何て言うのかな?」
「僕、ですか? ニルヘです。ニルヘ・スキャア」
アイシスと名乗った影が腕を伸ばしてくる。それが握手を求めていることに気づき、こちらも手を伸ばした。
「‥‥‥以外と普通の感触なんですね」
「ははは。期待に添えず申し訳ない」
その後、彼? は様々な事を聞いて来た。何故こんな所にいるのか、何故王国はここに人を派遣しているのか、何をさせているのか等。
しかし、下っ端の下っ端であるニルヘに答えられるものは少なかった。具体的に答えられたのは自分の生い立ちについてくらいだ。
「そうか、ありがとう。それじゃあ詳しい事は君の言った貴族の責任者にでも聞いてみるよ」
「はい。あっ、でも貴族のいるテントの周辺は騎士達が厳重に警備して近づけないと思いますよ?」
「いや、なんとかなるよ多分」
自分の横に座っていたアイシスが立ち上がって、最初と同じようにこちらを見下ろした。
暗い眼孔が全てを見透かすかのようにこちらを射抜く。
「ニルヘ、最後に一つ聞きたい。君は、死にたいのかい?」
簡単な質問。けれど何故か無性に、摩耗し切った心に刺さった。
「‥‥‥いえ。ただ、このまま生きていても辛いだけかなって事はいつも思ってます」
直視できず、顔を伏せて答える。死にたい訳ではない。けれど未来が見えない。いつだって現実は痛みや辛さしかない。
だからいつも、誰かが終わらせてくれる事を願っていたのだ。
「残念だけど、俺は君に対して何もしないよ。それが君にとって幸か不幸かは分からないけどね」
「‥‥‥そう、なんですか。なんとなく、あなたが僕を殺す人だと思ってましたが」
「それは酷いなぁ」
ははは、と笑いアイシスは手でポンポン、と頭を優しく叩いた。
「君はまだ何も知らない。確かにこれからもずっと苦しみ続けるかもしれないし、そうじゃないかもしれない。それは、生き続けてみなきゃ分からない事だよ」
「そう、なんでしょうか?」
こんなにも不気味な存在なのに、黒い影はどこまでも優しくニルヘに語りかけた。
まるで自分に言い聞かせるように。
「ああ、きっとそうさ。だから、今日君に一つのキッカケをあげよう。よくお聞き。夜になったらこの森を出て行くんだ。追っ手の事も、外に出た後どうするかも、何も考えなくていい。まずはここから抜け出しなさい」
「え?」
一体何を言っているのか。訳がわからず見上げると、赤い赤い燃えるような瞳が真っ直ぐにこちらを見ていた。
「生きていれば、きっと幸せになれる。俺の大切な人の言葉だ。ここに君の幸せがないのなら、ここじゃない場所へ行ってそれを見つけなさい」
「あな、たは‥‥‥」
自分と十も変わらないであろうはずの少年の顔。幼さの残る顔立ちに、似合わない程の悲壮な雰囲気。そしてとても優しい微笑みだった。
「おいニルヘ! とっくに日が沈みかけてるぞ! ちゃんと今日の仕事は終わったんだろうな?」
「ッーーー⁈」
同僚の声。今までの出来事が夢だったかのように現実に引き戻される。怒る同僚へと顔を向けた後、何故か不味いと感じ再びアイシスへと向く。
ーーーが、そこには誰もいなかった。
「あん? どうしたキョロキョロしやがって」
「‥‥‥いえ、何でもありません」
「ったく、寝てたんじゃあないだろうなあ? さっさと毛皮乾かすとこ置いて戻るぞ。遅れたら俺まで叱られちまうからな」
ブツブツと文句を言いながら背を向ける同僚。
本当に、先程までのアイシスとの会話は夢だったのだろうか。
荷物をまとめ、毛皮を運ぼうとし、ふと去りゆく同僚の背を眺める。そしてその足元へ。
夕焼けに伸びた影。それは他の木々等が落とすモノと比べても、濃い濃い、まるで闇のような影だった。