#100 斯くて魔王は再誕せり
―― 燃える炎の熱さも、足枷の無機質な冷たさも、何もかもを感じる事の出来ない闇に囚われてどれ程経ったのだろうか。
悪夢のような、同胞の無残な成れの果てを、その最期を看取ってから、一体どれ程の時間が過ぎたのか。
死んだ後に自分がどうなるのかなど、知らないし考えた事も無かった。死後の世界だの魂だの、現在を必死に生き続けた獣人族のマイシェにそんな余分な思考をする暇など一切無かったのだから。
だからーーーおそらくここが、この何もない自分すらも見えないこの闇の只中が、死後の世界なのだろう。
そう納得し、思考もそこで放棄し、ただただ残り続ける意識がいつか消え失せる事を願ってマイシェはそこに囚われ続けていた。
だがそれも永遠ではない。
この世界を作っていた、勿論そんな事を彼女は知らないが、マナの不安定な魔装は黒い指輪に収まり、同時に闇は晴れた。
何時ぶりの光なのか。夕暮れ。暁に染まる空の色。久方に稼働する視界にそれはとても眩しく感じられた。
思い出したように皮膚は世界を感じ始める。闇に囚われる前と同じ、地面に横たわる感触。周囲の炎が肌をチリチリと焼く感覚。
「‥‥‥なんだ、まだ生きてるのか」
自分は死んだものと納得していた。だが生きている事が分かってしまう。そこに喜びなどなく、ただただ落胆があった。
もう何も感じたくなどないのに。
自然と向けられた視線は、側に積み上げられた瓦礫の山。その下には、やはり彼女がいるのだろう。
熱い。炎はその規模を拡大している。あと少しすればこの城は灰と化すだろう。彼女だったものと自分を巻き込んで。
「‥‥‥‥‥‥?」
影が落とされる。何かが空を覆っている。上を見ると鳥のようなものが浮いていた。いや、翼はあるが胴体は鳥よりも大きい。その近くに、翼もない人型が浮いている。二つの影が重なる。抱き合うように。
死ぬ間際の幻覚だろうか。そんな不思議な光景をぼうっと眺めていると、人型の影が何かを翼のある方に渡し、こちらへと降りてくるではないか。
「‥‥‥うん、大丈夫。君はまだ生き残れる」
上を覆う人型の影がそう言った。マイシェにはその意味がよく分からなかった。
「他にもまだ生きている人達がいるね。抱えるのは無理だな。怖いかもしれないが、少し我慢してくれ」
「な、にーーー」
何をするつもりだ、と問い質す前にマイシェの身体が沈んだ。ドプン、と水中に落ちるように。だが水の中ではない。真っ暗だ。一度死んだと思い込んでいた時と同じ、闇の中。
「また‥‥‥今度こそ、死ねたかな‥‥‥」
最後に寝たのはいつだったか。肉体も精神も疲れ果てていたマイシェは、ここで意識を手放した。
「ガウガッ! ギャオオウ! グワァアッ!」
「ごめんクナイ。何て言ってるか本当に分からないや。こっちの言葉は伝わってるのかな? 森へ戻ろう。やるべき事は済んだ」
「ギャウッ!」
龍の姿となったクナイは、その腕に眠るマナを大事に大事に抱えていた。翼で浮遊を続けながら、シグへと自らの右脚を伸ばす。
「えっと、掴んでいいって事かな?」
「ギャウガウガッ!」
多分合ってる筈だと、シグは恐る恐る足に掴まった。すると視界が一気に変化する。あっという間に空の上である。
「速ッ⁈ ちょ、クナーーー」
「ガウガウガァ!」
シグの制止の声は届く事なく、張り切るクナイは恐ろしい速さで一直線に森へと飛翔した。
「クソッ! 厄介な結界を張ってくれたな精霊め!」
カドレの森その領域の外へ排出されたキリエら王国の騎士達は、シルフィが発動させた暴風結界に行く手を阻まれ侵入出来ないでいた。
向こう側、森の姿をも隠す風の壁。範囲は広くはないが、キリエらの移動に合わせこの風の壁も動き侵入を許さない。
「キリエ殿‥‥‥これ以上は我らだけでは無理です。一度王国に戻り、増援を」
「馬鹿者! 今の王国にこれ以上外に出せる戦力などあるか! それに、姫様がすぐそこにいるのだぞ! おめおめ帰る事など騎士としてできる訳がない!」
部下の進言を一蹴に付すキリエは、どうにか壁を突破しようと何度目かの攻撃を繰り出そうとした。
「力を貸せ聖槌! うぉぉぉおお!」
そんな様子にやれやれと肩を竦めていたデュラメスだったが、ある気配に気付く。
「待った。何か、来てますよ?」
「何⁈」
振り向くキリエ。森とは真逆の方向。言われて初めて、強大な魔力がこちらへと徐々に近づいてくるのに気付く。
「クソッ、あの仮面の魔族か? あちらのいざこざは終わってしまったというのか‥‥‥」
「さて、如何します?」
「愚問だ! 二度も悪に屈する訳にいかん! 迎え撃ってやる!」
それは圧倒的な速さで森まで飛んできた。
「‥‥‥なん、だ? 龍、なのか?」
伝承でしか知る事のない神獣種の一つ、龍。伝え聞く姿に瓜二つであるが、人間と変わらぬ大きさのそれが彼らの頭上に降りたった。
その腕には少女を抱えて。
そして、その脚には一つの影がぶら下がっていた。
今回は王都襲撃の時の仮面は着けておらず、代わりに魔族に相応しい二本角を新たに生やして。
「なッ‥‥‥あ、あれは、あの顔は⁈」
だがそれよりもキリエを驚かせたのはそこに張り付く顔だ。その顔を、七王剣のキリエが忘れるはずがない。いや、王国の民ならば誰もが知っているはずだ。
「お、お前は‥‥‥ラグナス・レイヴンなのか⁈」
元王国の勇者にして、最大の裏切り者の烙印を押された、かつて共に肩を並べて魔族と戦った者の名をキリエは叫んだ。
その名に、影は初めてキリエへと視線を向けた。それまでは視界にすら入っていなかったかのように。
「いや、そんな訳はない‥‥‥奴は死んだ! 魔王と共に! ふざけた事を! 我らが勇者の顔を真似てこちらの動揺でも誘うつもりか!」
「勇者、だと?」
影は龍の脚から手を離す。降り立った先でキリエは聖槌をすぐにでも放てるよう構えた。
仮面は無い。だからその表情も、両眼から発せられる赤い光も、真っ直ぐにキリエに届く。
「ふざけているのはどちらだ。利用するだけ利用し、もてはやし、用済みとなれば手の平を返す。名声は地に堕ち、羨望は憎しみに変わった。全てお前達の勝手な都合でな!」
「ッーーー」
まごう事なき怒りと憎しみ。これ程までの感情を表す目の前の魔族は、やはりラグナスなのではないのか、とキリエは一抹の不安を抱いた。
「ああ、俺は貴様らが憎い。身勝手な貴様ら王国の人間どもが。だが、だからと言ってお前達を害するつもりはない。それは彼女が愛してくれた俺に背く行為だ」
夕焼けが沈んでいく。夜がやってくる。その合図かのように、目の前の魔族は一歩踏み出した。それに対し先制出来るようキリエは、側のデュラメスも武器を構えていたのだ。
その一歩が地面に着く前に、彼女らの聖武器は魔族へと叩き込まれるーーーそのはずだった。
「うッ⁈」
魔族の一歩は何にも阻まれる事なく地面に着く。それどころか歩みは続けられた。ツカツカと、キリエとデュラメスの横を、素通りした。
「身体、が‥‥‥なん、だ、これは⁈」
違和感。まだ太陽は沈んでいない。そう、まだ赤い陽の光は地面を照らしているはずなのだ。
ならば、なぜキリエらが立っているここは真っ暗な影が落ちているのか。
「《漆闇の絶対支配》。邪魔はさせない。俺は森に帰るだけだ」
全ての騎士が影に絡まれ身動きが取れない。その中を、彼は堂々と歩く。まるで木々を避けるように、ただ帰路に着く。
「ま、待てッ! 姫様を、ルナリス様を返せ!」
首すら回らぬ状態で、それでもキリエは叫んだ。余計な事をすればすぐにでも死ぬかもしれない、そう分かっていても叫ばずにはいられなかった。
「返せ、だと? 彼女は物ではない。彼女は自分自身の意思でここにいる。お前達の都合で彼女を縛るな」
「何を! 勝手を抜かすな! お前は悪だ! 平穏を取り戻しかけていた世界を乱す、元凶だ! ルナリス様が拐われて王国は混乱のただ中だ! お前さえ、お前さえいなければーーー」
キリエの身体に自由が戻る。要因は分からないが、動くのならば為す事は一つだ。全ての元凶を、この手で始末するのだ。
「うぉぉぉおお!」
振り返ると同時に影に再び囚われぬよう跳躍。大きく振りかぶった聖槌グランマインを、ありったけの魔力を込めて叩き込む。
それを、魔族は避けなかった。自らその身を差し出すように振り向き、佇むのみ。その顔面へと大槌は叩き込まれた。
グシャリ、と肉が轢き潰れる音がした。
聖槌は魔族の身体を地面に押し潰し、止まった。
槌と地面には僅かの隙間もない。誰が見ても、魔族はぺしゃんこの状態だ。
「ハァ‥‥‥ハァ‥‥‥」
たった一振りだが息を切らすキリエ。感触は確かにあった。不気味な程に。確実に対象を殺した、手に伝う慣れた奪う感覚。
「‥‥‥クソッ!」
それでも、キリエは悪態を吐く。聖槌は地面に触れたまま。違う、地面から戻せない。張り付いたかのように、微塵も聖槌はその場から動けない。
そもそも、それは地面ではない。
《闇の刻印》の所有者が治める領域、その影。ズズズ、と影が昇る。絡みつく。影で聖槌を覆い隠す。
「や、めろ! 放せッ!」
どれだけ力を込めようとも、聖槌は動かない。魔力を込め聖属性魔法を発動させようとするが、反応が一切無かった。
「うわッ⁈」
遂には手が柄からすっぽ抜ける。間抜けな声とともにキリエは大きく尻餅をついた。
その目の前で、所有者から離れた聖槌がズブズブと影に沈んでいく。
「あっ、ああっ‥‥‥」
手を伸ばすが届かない。飲み込まれるように聖槌はその姿を消失させた。
そして、代わりに現れたのは潰したはずの魔族の姿だった。
「まだ、やるのか?」
「ッーーー!」
全て無駄だと言わんばかりの、こちらを見下す発言にキリエは目を細めた。武器を失っても諦めないと、そう態度に示して。
「そうか‥‥‥お前達は本当に変わらない。兄さんを、母さんを、家族を俺から奪った王国の人間だ」
「兄、だと?まさか、お前は、ラグナスの‥‥‥」
キリエは思い出す。あの痛ましい事件を。
反逆者の烙印を押された勇者の、残された家族に起きた惨劇を。民に焼かれ殺された二人の最期を。
「今度は俺から何を奪う? これ以上何を奪おうと言うのだ? ‥‥‥俺は、奪う者には容赦しない」
「え‥‥‥?」
ドサリ、と何かが地面に落ちた。代わりに少し軽くなった身体。キリエは下を見る。そこにはもう半分程影に飲まれた人間の手首が見えた。
「あ‥‥‥」
消える手首。ふと見れば、自分の右手が無いではないか。
「これでもお前はまだ奪うだろう。残った手で俺から奪おうとするだろう」
「あえっ?」
再び何かが自分の身体から零れ落ちる。今度は左の手首だった。
「ひっ、あ、あっ」
「これでもお前は止まらない。その脚で俺の大切な者達に近付くのだろう」
身体が急に倒れた。受け身が取れない。それもそうだ、両手が無いのだから。
身体の感覚が更に消えた。右脚が、先程まであった脚が、膝から下が無いのだ。
「片足でも移動は出来る。そのような姿でも、お前は醜く近付くのだろう」
「‥‥‥あ」
最後に、残る左脚も影に喰われた。
四肢の全てが、あっという間に奪われた。
「これでようやく、お前は動けない。もう何も奪えない」
「‥‥‥あ、ひあ、ああ、あぁあ⁈」
キリエは混乱する。魔族の言う通り身体は動かせない。だが痛みが無い。出血がない。どのような芸当か、切断面が何か糸のようなもので縫い付けられている。
まるで初めからその形だったかのように、芋虫のように地面を転がる身体。あまりにも呆気ない、唐突な変貌。ゆっくりと襲いかかる恐ろしい程の喪失感に心が、身体が悲鳴をあげた。
「あぁぁあっ! あっあっ、あああァァァァァァア!」
そのキリエの姿を強制的に見させられた他の騎士達は、動かない身体をこれでもかと震わせ戦慄する。
この中の誰よりも強い彼女が、まるで赤子のように簡単に四肢を捥がれ絶叫する姿に。
「‥‥‥‥‥‥」
このような仕打ちを行った魔族は、ただ無言で広げていた影を自らに潜めた。同時に解放された騎士達であったが、動ける者はいなかった。
キリエと同じ七王剣の一人、デュラメス以外は。
「‥‥‥ふう」
静かに息を吐き出すと、デュラメスはのたうち回るキリエの元に膝をつき手を伸ばした。
「"さあ眠れ微睡みに落ちよ"」
「ーーーあ」
睡眠の魔法。初歩的なモノだが、今のキリエには効果的だった。簡単に彼女は意識を失い眠りに落ちる。
デュラメスは決して武器を手に取る事なく、キリエをその両手に抱えた。魔族を目の前にして両手を自ら塞ぐという、普通ならば有り得ぬ選択であるが。
「私達は、これにてこの場より引き上げよう。こちらにこれ以上の戦闘の意思はないが、貴方はこちらの殲滅をお望みかな?」
「いや‥‥‥言ったはずだ。俺は森に帰るだけだと」
それだけ告げると魔族は背を向け宣言通り森へと歩み始めた。無防備な背中であるが、誰一人そこに不意打ちを仕掛けようとする者はいない。
「最後に一つ、聞いていいかな?」
「なんだ?」
だがその背中に言葉だけを投げかけた。足を止めた魔族に、一つだけ。
「君は何者だ?」
何者であるか、か。
シグはその言葉にしばし逡巡した。
人間として生まれ、同じ人間に迫害され、落ち延びた森で魔族に大切な人を殺され、死んだ。
だがマナによって命は繋ぎ止められ、この身は《不死》となった。もはや我が身は人間の身体ではなく、得体の知れないナニモノかに、いや魂すら変貌してしまっているかもしれない。
そんな自分は、一体何者と呼ばれるのだろうか。
『あぁ、いっそ《闇の刻印》を宿す貴方が‥‥‥魔王となってはどう、です?』
ふと、先程まで戦っていたラヴィニアの去り際の声が思い出された。
「そう、だな。お前達から見れば、俺は魔族になるのだろう。ならば、そうだ。俺は魔族だ」
振り返る。その動作には何ら迷いもなかった。最早何を偽る必要もない。自分は、兄ラグナス・レイヴンのような勇者にはなれない。だが、それでも守らなければならない者達がいる。
その覚悟を、世界に告げるのだ。
赤き《不死者の瞳》、その双眸がデュラメスを、いやこの世の全てを睨みつける。誰にも邪魔はさせないと。
「俺はカドレの森の魔王。《闇の刻印》を宿す、新たな魔王シグナス・レイヴンだ」
ここまでご愛読ありがとうございました。
サブタイトルの通り「斯くて魔王は再誕せり」という事で一旦物語はここで完了します。第一部完です。
またこのシリーズで第二部も行いたいので、その際はよろしくお願いします。
区切りをつけた所で、新シリーズをすぐに始めます。
「亜久マコちゃんはアクマで友達!」
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この作品が全体通して暗い感じだったので、こちらは明るくコミカルな作品で描いていこうと思います。どうぞよろしくお願いします。




