#10
「じゃあ、お願いね?」
アイシェの言葉に肯定も否定もせず、マナはじっと考え込むように黙っていた。
「それじゃあ、三人は火起こし場の方に行っててね。お姉ちゃん、ちょっと用事があるから」
「あっ‥‥‥」
ルイシェが何かを言いかけ、止める。ロイシェも不安げな目で見上げている。二人をもう一度強く抱きしめると、そっと、だが強く離した。
「さあ、向こうへ。お姉ちゃんがいいって言うまで、こっちに来ちゃダメだからね」
「‥‥‥うん」
ロイシェとマナの手を取り、言いつけ通り火起こし場へと向かう。何度も、こちらを振り返りながら。
努めて笑顔で手を振り、それを見送った。
「‥‥‥さて、現実はそう甘くない、か」
振り返ってみても、恵まれた人生ではなかった。それでも最低ではない。ルイシェもロイシェもいてくれた。一度終わりかけた人生も、苦難には満ちていたが、それでもやり直せた。
だから、後悔はないし、誰かを憎んだりもしない。私はちゃんと、幸せだった。
音が聞こえる。荒々しく隠し戸が開かれる音。複数の足音とともに、松明の火か、揺れる光源が近づいてくる。
趣味の悪い衣装をこさえたゴブリンが姿を現わす。その数は七体。ズカズカと居住区に入るや道を開けるように左右へ展開し、動きを止める。
「ははっ‥‥‥さすがに笑うしかないわね」
最後にその場に姿を現したのは、マナとは比べ物にならない、本物の魔族だった。
「ふぅむ。ネズミが一匹ですか。他にもいる気配がありますが‥‥‥まあいいでしょう。もう少し奥ですかな?」
こちらを一瞥すると興味無さげに視線を外し、背後へと見やる。目的はやはりーーー
「シッーーー!」
アイシェの姿が消える。常人なら追うことすらできない獣人族の本気の動き。体内の魔力を高速で循環させ肉体を活性化させることにより可能な身体能力の大幅な向上は、もはや風の如き。
消えた、としか認識できないゴブリンたちは、その一刻後に首を鋭利な爪で跳ねられた。
「(一、二、三、四体! でも、こいつを殺らなければーーー!)」
とは言え肉体を限界以上に酷使してしまうこの技は数秒と保たない。体表に光り浮かび上がる魔力の過剰酷使の跡が消えてしまう前に、本命を叩くーーー
「ガッーーー⁈」
爪は敵を捉えたはず、だった。
だが、その爪は届くことなく。
同時に魔力と肉体に限界が訪れ、飛びかかった勢いそのまま、壁に激突した。
「グゥッーーー!」
痛みは、ぶつかった背中だけではなかった。
血が吹き出す。ぼんやりとした頭でそれを眺めた。こんなに大量の血が自分のものだと信じられないかのように。
右腕は、肘の先から綺麗に消えていた。
「羽虫は羽虫でも、ゴブリンよりは厄介な害虫の類でしたか」
ヒュン、と三本の腕らしきものが、いつ伸びたのか分からないくらいに宙を舞っていた。
「さて、放って置いても死ぬでしょうが。一秒でも長生きさせる必要もないですしねぇ」
腕が再び伸ばされようとしている。失血のせいか色を失っていく視界が、アイシェにはゆっくりと見えた。
ああーーー、これで死ぬのかーーー
「ダメーーー!」
発せられた叫び声にノイノラの動きが止まった。
「ル‥‥‥イ‥‥‥」
「お、お姉ちゃんを! イジメるなーーー!」
それは火起こし場へと避難させたはずのルイシェだった。
ダメだと、来るなと叫びたかったが、アイシェには声を出す力も残っていなかった。
それに対し、ノイノラは動きを止めたままじっとそちらを見ていた。いや、正確には叫びをあげたルイシェにではない。一緒に現れた、マナに対してだった。
「おお‥‥‥! なるほどなるほど! そういう事でしたか!」
先程までとは打って変わって激しく感情を表に出すノイノラ。恭しく膝をつき、マナへと頭を下げる。
「お初にお目にかかります。ワタシはこの森より北西、ジャブラの城を任されておりますノイノラと申します。以後お見知りおきを、姫様」
「‥‥‥ひ、め?」
「現魔王バドゥーク様より、この森に現れた先代の遺産を回収せよとの命を受けここに来ましたが‥‥‥遺産とは姫様の事だったのですね」
「‥‥‥わから、ない。なにをいっている、の?」
滔々と語るノイノラだが、マナは首を振り困惑を伝える。
「‥‥‥ふむ? 姫様はワタシを知らないでしょうが、ワタシは、いえ、魔族の者ならば全員があなたの事を知っています。間違いなく、あなたは先代の魔王、ゼグルド・ドルヴェンド様の娘であると。その二本角と、今は亡き王妃と同じ赤い瞳。あなたこそマナ・ドルヴェンドその人です」
「ゼグ、ルド‥‥‥ドルヴェンド‥‥‥ぱ、パ‥‥ッ⁈」
苦悶の声をあげ、マナは頭を抑えながら座り込む。
「そうですとも。ああ、七年もの間行方不明だったのは先代の魔法ですか。どのような仕組みかは存じ上げませんが、誰にも感知できないように隠すとは流石と言ったところ。ただ、そのせいで記憶が混濁するのも仕方ない事ですねぇ」
さて、と立ち上がるとノイノラはマナの元へと歩み寄る。
「では、一緒に来ていただきますよ姫様」
「ッーーー!」
未だ痛みを抑えるように顔を覆うマナへと手を伸ばす。
「だ、ダメ!」
間に立ち塞がったのは、震える足で何とか立つロイシェだった。
「い、イヤがって、ます。連れて行かせま、せせ、せん!」
「そ、そうだよ! もうやめて! ここから出て行ってよ!」
合わせてルイシェも立ち塞がる。身体は震えていた。だが、それでも手を広げ強がった。
「だ‥‥‥や‥‥‥」
そんな二人へ、アイシェはやめるよう叫びたかったが、もう声も上げることが出来なかった。
「‥‥‥邪魔ですねぇ」
ここにきて、初めてノイノラが不快感を現した。明確な殺意が、二人を襲う。
「うぅッ⁈」
「ひぃッ!」
思わず目をつぶってしまう二人へとノイノラが腕を振るう。
「やめて」
誰の声か。
冷たく、身体の奥へとシンと突き刺すような命令は、ノイノラでさえも動きを止めさせるに十分だった。
「‥‥‥マナ、ドル、ヴェンド。それが、私の、名前。ノイノラ、やめて。私を連れて行く、それがあなたの、役目。この子達は関係、ない」
「‥‥‥おお! 思い出されました!」
「もう一度、言う。この子達に、これ以上、危害を、加えないで」
「かしこまりました、かしこまりましたとも! 姫様は何と慈悲深い! このノイノラ、これ以上この者らを傷つけることは致しませんとも! 誓って、ワタシはもう手を出しません!」
恭しく一礼するとマナの肩へ手を置く。
「では、参りましょうか」
「‥‥‥」
横目でチラッと、ルイシェとロイシェへ視線を向ける。
「あぅ‥‥‥」
「‥‥‥ありが、とう。でも、私より、お姉さん、を」
そう言うともう二人を振り返ることなく、マナはノイノラに連れられ出口へと進んだ。
「‥‥‥ま、な」
息も絶え絶えに名を呼ぶアイシェに、目を伏せる。それは申し訳なさで一杯と言った表情だった。だが、それを見てアイシェは、辛いだろうに、精一杯の笑みを作った。
「‥‥‥うん」
うなづき、今度こそマナは洞窟を去った。
その横で、ノイノラがゴブリンへと目配せをしていたのにマナは気づけなかった。
「お姉ちゃん!」
「お姉ちゃん!」
二人がアイシェへと駆け寄る。涙を零しながら、どうしたらいいか分からずオロオロとする二人へ、アイシェは最期の力を振り絞りながら声をあげる。
「ここ、からっ‥‥‥逃げてっ‥‥‥早く! 私は、置いてっ! 早くっ!」
「な、何言ってるの! お姉ちゃんを置いてなんて行けないよ!」
「そ、そうだよ! ど、どうしよう、血が!」
やはり、ダメか。無理矢理二人を外へ押し出す力も、もうない。
三人へと、近寄る複数の影に、アイシェは覚悟を決めた。
「さて、森の外までは歩きで申し訳ありませんが、そこまでいけば馬車がありますので」
肩に手を置いたまま、ノイノラが先を促す。だが、ある事に気付いたマナが問いかける。
「‥‥‥さっきの、ゴブ、リン、まだ」
アイシェが半数程を倒してはいたが、まだ三体いたはず。
「ああ、彼らはどうやら仲間の亡骸を埋葬したいようでして。何、お時間はかかりませんよ。すぐに、ワタシたちに追いつきますから」
ニヤニヤと嫌悪感を抱かせるいやらしい笑みにマナはキッと睨みつける。
「はな、し‥‥‥ちが、う!」
「ワタシは約束を守りましたよ? ワタシは、手を、出さない、と」
「ッ!」
グッとノイノラの手に力が入る。それだけでマナは動くことが出来ない。
「さあ、姫様の方も約束を守ってもらいますよ。付いてきてください、ね?」
有無を言わさず、マナはノイノラに押されて歩ませられる。遠く離れる洞窟で何が行われているのか、マナは唇を強く噛み締めた。