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一 祖母の死

 フラフラになりながら智章は東京メトロの階段を降りた。

「危ないわね!」

 OLとぶつかりそうになり「すみません」と反射的に謝ったが、その白過ぎる整った顔にドキッとされたのにも気づかなかった。


『今夜はどうにか終電に間に合いそうだ……』


 自社が施工販売したマンションの地震強度偽装が発覚してから、その対応策に追われて智章は夜も寝られぬ日々を送っていた。夢のマンションを買った人達の憤懣が智章には人より理解できるだけに、何の為に建築士を目指したのか、この会社に就職したのかも忘れ、精神的にもボロボロになっていた。


 智章が直接に関わった仕事では無いのに、その苦情の対応の矢面に立つ部署に配属されて、自分の会社での要領の悪さに腹を立てていた頃が懐かしく感じる。


 ホームに生温い風と共に轟音が響く。


『この電車に飛び込めば……明日は会社に行かなくても良いのか……』


 まともな判断力も無くした智章には、その案は魅力的に思えた。


 ホームの点字ブロックに足を一歩ふらっと進めた時、ふと瀬戸内の煌めく夕日が脳裏に浮かんだ。


『智くん!』


 はっきりと祖母の声が聞こえた。


「おばあちゃん?」


 高齢の祖母がわざわざ広島県の港町である鞆から東京まで出て来たのか? 不思議に思い、声がした後ろを振り返った。お気に入りの紫色の着物を着た祖母が見えた気がしたが、スッと消えた。


「まさか……」


 ゴゴゴ……ホームに滑り込んだ車両にふらふらと乗り込みながら、智章はガタガタと震える手で上着のポケットからスマホを取り出した。電源を入れると何件もの着歴が残っていた。日頃は絶縁状態の母の名前を見た途端、智章は祖母の死を悟った。




 智章が新幹線のホームに降りると、懐かしい福山城が目に飛び込んだ。石垣の上に名残の桜が見えたが、今はそれどころでは無い。奔放な母の代わりに育ててくれた祖母の葬儀の為の帰省なのだ。


 会社の上司には『祖母の葬式で広島まで帰省します』と忌引きの連絡をしたが、案の定、社内の規定どおりの三日は休ませてくれそうになかった。


「それは御愁傷様だが、通夜と葬式が済み次第、出社してくれ。今は三日も休んでいる場合じゃないのは、酒井にもわかっている筈だ」


 入社三年目の平社員が上司の命令に逆らうのはまずい。しかし、今の智章にはそんな事は無意味に思えた。あの瞬間、祖母の声が聞こえなかったら、自分がどうしていたかわからない。


『馬鹿馬鹿しい! あんな会社の為に死ねるか!』


 マンションの耐震偽造をするような会社に未練は無いし、その後始末を無関係な自分に押し付けた上司にも反吐が出る。辞めると決めたら、何故こんな単純なことにも気がつかなかったのかと唖然とした。


 新幹線のホームからの長い下りエスカレーターの途中でスマホがブルブルと震えだした。


「智くん、これから酒井の家に行くから、あんたを拾って行くわ。車を駅前の駐車場に止めているからね」


 見知らぬ番号だと思ったが応答を押すと、母の妹である百合の懐かしい備後弁が聞こえた。自分の番号は知らない筈だが、きっと母から聞いたのだろうと智章は駅の改札を出る。


 到着時間は東京駅で新幹線に乗る時に母に知らせてはいたが、まさか叔母が出迎えてくれるとは思ってもいなかった。


『おばあちゃんの葬式で、姉妹喧嘩はなさそうだな』と智章は駅前に急いだ。真面目な分、人にも厳しいところのある叔母を怒らせたくなかったのだ。


 きょろきょろしていると、シルバーのベンツがプップッーとクラクションを鳴らした。


 医者の奥様らしい叔母の車だと智章は、苦笑を噛み殺しながら、少し先に駐車していたベンツに乗り込む。


「すみません」と頭をペコリと下げる智章に「いいのよ」と百合は少し不機嫌そうに応えた。


「ちょうど喪服を取りに帰っていたから……それより、智くんは喪服を持って来たのでしょうね」


 智章は無言で頷いたが、もう黒い服を着ている叔母が、なぜ喪服を取りに行く必要があるのか、怪訝な心持ちになる。


「本当にあんたはしっりしているわ。あの姉さんの息子とは思えないわね」


 福山駅から祖母の家がある鞆まで、懐かしい風景を眺めながら、智章は百合の愚痴を散々に聞かされた。


「お姉さんときたら、喪服も持って来ていないのよ。そりゃあ、最初は危篤だと連絡したけど、お母さんの年齢を考えたら準備してくるのが常識でしょう。それに、あの派手な格好ときたら……」


『あの母親ならやりそうなことだ……』


 奔放で男遍歴が激しく、祖母を嘆かしてばかりだった母親とこれから何日か過ごさなければならないのかと、智章はうんざりする。


 民家の間の細い道を走り、海の側の駐車場に止まった。祖母の家まではこのベンツでは入れない。


「荷物を持ちましょうか?」


「良いのよ、そんなに重たくはないから」


 不出来な母親に肩身が狭くなる気がしたが、しっかりしている百合にとっても姉なのだから、共同責任だと割り切って坂道を登る。


『こんなに狭かったかな?』


 智章が前にこの坂道を登ったのは大学ニ年の夏休みだった。あの時を思い出してゾクゾクッと身震いした。


『あの時は、東京へ逃げたんだ。おばあちゃん……ごめん』


 百合に近所の人がお悔やみの声を掛けてきた。


「八重さんが亡くなられるとは、えらい急なことでしたね。あのう、お通夜やお葬式は? 何かお手伝いすることがあれば……」


「ありがとうございます。でも、母の言いおきで親族だけでお通夜もお葬式も執り行いますから」


 智章は、何年も祖母に会いに来なかった事を悔やんでいたが、そう言えば何故亡くなったのか知らない。近所の人に丁寧に頭を下げて、家へと歩きだした叔母に尋ねる。


「おばあちゃんは何か病気だったの?」


 ふと足を止めて、大きな溜息を百合はついた。


「お母さんは元気そのものだったのに……頭を打って倒れていたのよ。近所の人が発見して、救急車を呼んでくれたけど、こんな丘の上だからねぇ。きっと目眩でもして、転んだんでしょう」


「えっ? 病気で亡くなったんじゃないの?」


「薔子姉さんは言わなかったの? いい加減なんだから」


 いやいや、叔母さんも親の死因が何かはっきりしていなくて良いのか? と智章は驚いた。


「警察とか来なかったの?」


「割と早く発見されたから、その時は意識もはっきりしていたからね。お母さんが倒れて頭を打ったと言ったみたいだわ。嫌だわぁ、警察沙汰だなんて! これ以上、実家の事で肩身が狭くなりたくないわ。保科のお義父さんやお義母さんに何を言われるやら」


 冗談じゃない! と頭を横に振る叔母に、肩身を狭くさせている原因の息子としては平謝りしたい気分になった。



 丘の上に建つ酒井の家は、昔はこの辺の名家だった面影が残る立派な門構えとうねうねと続く白壁に囲まれている。住居部分の日本家屋と、診療所だった洋館が白壁の中に寄り添って建っている。


「かなり塀も傷んできているな」


 その昔は立派だった白壁も、所々剥げて、中の茶色い下土が見えている。その上、門も少し傾いている。


「この家も住む人がいなくなったら、荒れるでしょうね」


 スキャンダルばかり起こす姉を嫌い実家とは距離を置いていた叔母だが、やはり零落していくのは悲しいのだろうと智章も感じた。


「叔母さんが住めば?」


「まさか! こんな不便な場所に住めないわよ。それに病院をほっとけないし」


 遣り手の医者である保科を支える叔母には、この鞆の丘の上は不便過ぎるだろうと、智章も同意する。


 門をくぐるとそこには大きな松が前庭一杯に枝を伸ばし、それを何本もの木で支えていたのだが……


「あれ? 松が……」


 立ち止まった智章に、百合は事も投げに言い放った。


「松食い虫にやられたのよ。まぁ、鬱陶しかったから精々したわ」


 智章は、酒井の家の象徴とも言えるあの巨大な松が無くなったというのに『清々したわ』と言い切る叔母がもう保科の人なのだと感じた。


『あの松は福山藩の御典医だった祖先が殿様から拝領したもんだと、おじいちゃんはとても大事にしてたのに……』


 とはいえ、確かに圧迫感があった巨大な松が無くなり、前庭は広々とした印象になっている。そして、其処にはまだ小さい薔薇の苗が何本も植えてあり、夏以外は和服を着ていた祖母に何か似つかわしくない気がした。


「庭が……」


「ああ、お母さんは意外と洋風な庭が好きだったみたい。お父さんが亡くなって、何年かして松が枯れてから、花の咲く木を植えたりして改造したのよ。母屋には似合わないけど、診療所だった洋館には似合っているわね」


 松に隠れていた診療所だった洋館が、妙に近く感じて、智章は目を逸らす。


「まだ葬儀社の人は来てないみたい……」


 玄関に『忌中』と手書きの半紙が貼り付けたままなのを見て、百合は眉を顰めた。


 春の陽射しの中を歩いて来た智章には、玄関は薄暗く感じた。


『智くん、お帰り』


 祖母の出迎えの声が聞こえたような気がした。


「懐かしいなぁ」


 立派な垂木を見上げて、智章は自分が建築士を志した元はここにあると感じる。こういった木造建築に関わりたいとの欲求がむくむくと湧いてくる智章だった。


 ふと目を落とすと、立派な玄関の大きな沓脱ぎの一枚岩の上に黒いパンプスが脱いであった。それもど真ん中に。


「お姉さん、智くんを迎えて来たよ」


 智章が酒井の家を久しぶりに見て、立派な木材を惜しみなく使っている事に改めて感動していた横で、百合はサッサと靴を脱いでいた。


「そう、ご苦労さん」


 玄関に出迎えることもなく、座敷の方から母の声がした。


『やっぱり、苦手だ!』


 自分の母親ながら、どうしても相性が悪いと智章はずしんと胃に重たく感じながら、百合の横に靴を脱ぐ。


 百合の黒いパンプスは年相応の五センチほどのヒールだが、相変わらず派手好きな薔子のはどう見ても十センチはありそうだ。その上、裏は真っ赤だ。


『ブランド物のハイヒールをわざわざ祖母の葬儀に履いて来なくても良いのに……』


 派手好きな母に智章は心の中で舌打ちする。


「お姉さん、こんなど真ん中に脱いで……これからお弔いの人も来られるだろうに……」


 ぶつぶつ文句を言いながら百合が端に三人の靴を揃えているのを見て、智章は複雑な気持ちになる。非常識な母も苦手だが、この叔母も何処と無く苦手なのだ。


 兎も角、育ててくれた祖母に手を合わそうと座敷に向かう。三間続きの中の間に薔子がいた。

 

 何年振りに会った母親は、相変わらず若々しく美貌を保っていたが、叔母の嘆き通り派手な格好をしていた。


『親不孝者!』智章の視線に気づいたのか、嫌そうに綺麗に整えられた片眉を上げた母親を無視して、わざと声も掛けずに奥の座敷へと進む。


「おばあちゃん……」


 顔に掛けてあるレースのハンカチをそっと外して、祖母と対面する。手を合わせて、十五歳まで育ててくれた感謝と、この数年会いに来なかった不孝を謝った。


『おばあちゃん、あの時……声を掛けてくれなかったから……』


 最後まで心配してくれたのか? 東京メトロのホームまでお別れに来てくれたのか? 智章は何一つ祖母に孝行していないと反省しながら手を合わした。


「以外と綺麗にできたやろ?」


 祖母に静かに別れを告げたいと智章は思っているのに、中の間にいた母が横に座って、ちゃちゃを入れる。


「本当にねぇ」


 叔母も同意しているので、何かあるのだと不審に思い、祖母の白い顔を眺める。薄っすらと化粧が施してあり、唇の淡いピンク色が眠っているように思わせる。


「お母さんの死化粧をするとは思わへんかったわ」


「お姉さんは化粧が上手いから。それにしても上手く隠せているわ」


 よくよく見ると、祖母の額には薄っすらと傷がある。


「おばあちゃんは、頭を打って亡くなったの?」


「そうみたいやね。でも、心不全って聞いたから、心臓が止まったってことでしょう」


 人間は心臓が止まれば死ぬものだが、そこに至る原因があるだろうと、いい加減な母親の言葉に智章は苛立つ。


「でも……」


 言い返そうとした時に、玄関で葬儀社の人の声がした。


「友愛葬儀社から参りました。この度はご愁傷様でございます」


「やっと来てくれたわ!」


 少し中年肥りになった百合だが、素早く立ち上がり、いそいそと玄関へと向かう。勿論、横着者の母親は奥の座敷に座ったままだ。


「お母さんは密葬で良いと言っていたのにねぇ。百合は保科にええ格好したいんや」


 この件だけは不本意ながら母親に同感してしまう智章だった。


 中の間で、張り切って葬儀社の人と話し合っている百合叔母さんの声を聞きながら、身内だけの通夜と葬式だけど、キチンと体裁を整えたいのだろうと智章は肩を竦める。


 それに保科の叔父が来るなら、医者なのだから祖母の死因も詳しく説明してくれる筈だと、母や叔母にこれ以上尋ねるのを諦めた。


『仲が悪いくせに、何処か似ているんだよな』


 常識人の叔母と奔放な母だが、変な共通点があると智章には感じる。自分なら、疎遠である母が亡くなったとしても、きちんと死因は知りたいと思うだろう。そして、そこには見知らぬ父親の影響があるのかもしれないと智章は身震いした。

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