二人は結ばれる縁であるから、まだ望みを捨てるでない
ヴィオレットの頭の上には、クローバーの花冠がちょこんと乗っている。ロラのエプロンのポケットから顔をのぞかせているのは黄色いタンポポ。レミはデューの背中で熟睡中で、先を行く女の子二人が声を張り上げて歌っていても、全く目覚める様子はなかった。
斑入りのアイビーが絡まった低い柵の間から、家の敷地に入ろうとすると、こちらに向かってくる、黒い立派な馬車が見えた。
「あ、ジェレミー様の馬車だ!」
ヴィオレットが嬉しそうに大きく手を振ると、馬車は四人の目の前で止まった。
「こんにちは、ロラ。ヴィオ。見当たらないと思ったら、お出かけでしたか」
御者台のモーリスが帽子をとって声をかけた。白髪を肩まで伸ばし、眼鏡をかけた老齢の彼は、この地方の領主エヴィリエ伯に長年使える従者だ。
エヴィリエ伯は代々、カントルーヴ家の魔術師としての能力を高く評価し、目をかけてくれている。特に、現在の若き当主ジェレミーは、気さくな優しい人柄で、魔術師一家と親しい付き合いをしてくれる。ロラにとっても、もう一人の兄のような存在だった。
「ジェレミー様はいらっしゃらないの?」
彼はいつも、馬車の窓から手を振ったり、馬車を降りて話しかけたりしてくれる。なのに今日は、ヴィオレットが扉の外で何度も名前を呼んでも、窓から顔をのぞかせることすらしない。
「いいえ、馬車の中にいらっしゃるのですが……」
モーリスは深刻そうに顔を曇らせると、ロラを手招きした。
「実は、ローズモンド様が、別の男性とご婚約されることになってしまいまして……」
「ええっ! どうして?」
ジェレミーと、隣の領地を治めるシルール伯爵の娘ローズモンドは、幼馴染みで仲が良く、周囲の者達はいずれ二人は結婚するものと思っていた。おそらく、当人同士もそう思っていたはずだ。
「いろいろと、事情があるのですよ。旦那様も、もう少し早く話を進められれば、このようなことには、ならなかったのですが……」
伯爵が子どもの頃から彼に仕えていた従者は、言葉を詰まらせ、目頭を押さえた。
半年ほど前、伯爵の母親が長い闘病生活の末に亡くなった。心優しい伯爵の嘆きようはかなりのもので、その痛手から立ち直るのに長い時間がかかった。
その彼が、今後のことを考えるのだと笑顔を見せていたのは、つい先日のこと。きっとローズモンドとの婚姻を決意したのだと、誰もが安堵していたのに……。
「誰が、横からかっさらっていったの?」
「フランヴィル侯爵のご子息です。ローズモンド様は、その方を嫌っておいでだったのですが、一体何があったのか……。近々、婚約発表の舞踏会も開かれるようで、昨日、その招待状が届いたのです」
ロラは痛ましい思いで、従者の背後の馬車に目をやった。
カーテンに閉ざされたその薄暗く狭い箱の内に、伯爵は一人俯いているのだろう。
「旦那様があまりにもおいたわしくて、もう、私は見ていられません……」
従者も、そっと背後に目をやった。
「ばあさまは、なんて言ってたの?」
「お二人は結ばれるべき縁であるから、まだ望みを捨てるでないと、励ましてくださいました。そして、不眠や食欲不振のお薬と、お香と、魔除けの石をくださいました」
「そう……」
ドロテが諦めろと言わなかったのなら、きっとまだ彼らの未来は決まっていない。全く望みのない時は、彼女はそうとはっきり告げるのだ。
しかし、魔除けの石を持たされたことが気になる。お香も魔除けの香に違いない。そんなものが必要になるほど、彼の心は弱っているのだ。
「ちょっと待ってて」
ロラはそう断って、敷地を取り囲む柵に走った。そこに絡み付いているアイビーのつるを短剣で長く切り、手早く輪の形にまとめあげる。そして、出来上がった輪を土の上に置くと、その真ん中に右手を置いた。
「古よりこの地を守り育んできた、大地の精霊達よ、我が呼び声に応えよ……」
右手を中心に意識を大きく広げ、大地の護りの力を引き寄せる。渦巻くように噴き上がった力は、やがて逆流し、アイビーの循環する円に吸収されていった。
ロラは出来上がったリースを手に駆け戻る。
「大地の精霊の護りの力を借りたわ。これを、ジェレミー様のお側に」
「これもっ。ヴィオのも、ジェレミー様にあげる!」
ロラがアイビーのリースを差し出すと、ヴィオレットも自分の頭を飾っていたクローバーの花冠を渡した。ヴィオレットは馬車から出てきてくれない伯爵を、病気だと思っているらしく、心配そうな顔をしている。
「ジェレミー様、これで元気になる?」
「ありがとうございます。これのおかげで、きっと元気になられます。そうしたらまた、ヴィオと遊んでくださいますよ」
モーリスが二つの輪を掲げるように持ち、目尻にしわを寄せて優しく微笑んだ。
ロラとヴィオレットは走り去る馬車を見送ってから、デューに駆け寄った。彼は邪魔にならないよう、レミを背負ったまま少し離れた場所で待っていた。
「ごめんね。待たせちゃった」
「さっきの人は?」
「この辺りの領主様の従者よ。伯爵も馬車に乗っていらしたのだけど、ちょっと事情があって、ご挨拶できなかったわ」
伯爵にとっては、あまり知られたくないことだろうから、ロラは話題を変えた。
「ねぇ、さっきあたし、アイビーの輪を作ってたでしょ? その時、何か感じなかった?」
「地面に手をついて、何かつぶやいていたよね? おまじないだったの?」
「似たようなものだけど……そのとき、何か、感じなかった?」
もう一度確認するように聞くと、彼は空を見上げたり地面を見つめたりしながら、しばらく考え込んだ。
「……いや、何も。何かあったのかい?」
「ロラ、さっき大地の精霊を呼んだでしょ?」
不思議そうな顔をするデューの背中から、半分寝ぼけたような声が聞こえてきた。
「レミ、起きてたの?」
「うん。……てか、さっきので起きた。あの力は強烈だったもん」
そう言いながら、レミは大あくびをした。
半人前魔術師のレミには眠っていても感じ取れたものが、デューには察知できない。元は人間だった悪霊とは違い、精霊は波長が合いづらいのだが、彼の霊感はその程度しかないのだ。とても、彼の霊媒力とは釣り合わない。
「ふうん……そっか。デューはやっぱり、魔術師じゃなさそうね」
「そうなの? なんだ、ロラたちと一緒かもしれないって思って、嬉しかったのに……」
眉を少し寄せて落胆した様子を見せる彼は、少々子どもっぽかった。
いつの間にかデューの背中には、にこにこ顔のヴィオレットが乗っていた。
「ヴィオ、もう、お腹ぺこぺこ」
「じゃあ、急いで帰ろう!」
デューがヴィオレットを背負ったまま、いきなり走り出した。少女の楽しそうな笑い声が上がる。レミが彼と競うように、歓声を上げて追いかけていく。
彼の、子どもたちとの接し方は、慣れた人のそれだ。おそらく、年の離れた弟か妹がいたのだろう。きっと、すごくかわいがっていたのだろう。
言葉を忘れていないように、好き嫌いが変わらないように、彼の中に残っているものがある。記憶が戻らなくても、少しずつ以前の彼の姿が見えてくる。
もっと彼のことを知りたい。
できることなら、彼の記憶を戻してあげたい。
楽しそうな三人の後を、ロラは物思いに耽りながら、ゆっくり歩いていった。