僕は今、自分の顔すら知らないんだから
「君のお兄さんなんだよね? いい人だ」
「ふふ……そうね。夜は兄が、あなたの看病をしていたの。あの人、あたしが熱を出したときは、いつもあの癒しの呪文を唱えてくれるんだけど、あなたにまで唱えてあげてたなんて思わなかったわ」
「悪かったよ。僕が取り乱したせいで、何か誤解をさせてしまったようだ」
青年は床から立ち上がってベッドに腰掛けると、謝罪を口にした。
ノエルの登場は衝撃的だったはずだが、彼は逆に落ち着いたようだ。目覚めたばかりのときの、子どものような不安げな様子は薄れ、言葉や振る舞いは年相応な印象だ。
「気にしないで。あの人、ちょっと過保護なのよ。ところで、気分はどう?」
「大丈夫だよ。少し頭がくらくらする程度だ」
部屋の端と端にいたのでは、どうにも話しづらい。
せっかく目覚めたのだから、もっと近くで顔を見て話したくて、ロラは椅子を引きずって、ベッド脇に戻っていった。
「いいのかい? お兄さんにまた叱られるよ」
「平気平気。兄さんが戻って来る時は、ばあさまも一緒だから。ねえ、あなたは……」
呼びかけてみて、このままでは不便だと気付き、質問を変える。
「……自分のこと、なんて呼ばれたい?」
「え?」
「名前が分からないと不便だわ。どう呼んだらいい?」
青年は軽く眉をひそめて考え込んだが、しばらくして溜め息をついた。
「……何も思いつかないよ。好きなように呼んでくれて構わないから、君が名前を決めてくれる?」
「あたしが?」
「僕より君の方が、僕のことを知ってる。僕は今、自分の顔すら知らないんだから」
そう苦笑すると、彼は目鼻を確かめるように、両手で自分の顔に触れた。
「えっ? あ、そうか。そうよね。じゃあ、鏡を持ってきてあげる」
自分の顔すら、忘れてしまっているなんて……。
ロラが椅子から立ち上がりかけると、青年の手が伸びてきた。
「待って! 鏡なんていいから、ここにいて」
ロラの腕を両手でぎゅっと掴み、必死な顔をしている。少し落ち着いたように見えたが、彼の不安が消えたわけではないようだ。
「う……うん。分かった」
ロラがすとんと椅子に座ると、彼はほっとしたような顔をした。
なんとなく会話が途切れ、落ち着かない気分でいると、青年が自分の長い前髪を指先で摘んだ。
「髪は、明るい色のようだ」
「うん。きれいな銀色よ。瞳の色は、すごく明るい青。まるで澄み切った水のような……。そうだ。あなたのこと、デューって呼んでいい?」
「水?」
その美しい瞳が自分に向けられると、もう、その名前しか考えられなくなった。
「だめ? あなたって髪も瞳も色が薄くて透明な感じだから、ぴったりだと思う」
「君がそう思うのなら、いいよ。デューって呼んでよ」
「ほんと? じゃあ、よろしく。デュー」
ロラはにっこり笑うと、握手のつもりで右手を出した。
「よろしく。ロラ」
彼はごく自然な所作で、その手を取ってくるりと甲を上に返すと、そっと唇で触れた。
「え? わっ! なっ……」
「どうかした?」
予想外のことに慌てふためいていると、デューは困惑したように、瞳を上げた。何の曇りもない透明な青。ロラが動揺した理由が、全く分からないらしい。
女性の手の甲に口づけるような優雅な挨拶をする人間は、周囲にほとんどいない。ロラが知っている限りでは、唯一、この地方の領主エヴィリエ伯ぐらいだ。
もしかしたら、この人って……?
手を取ったまま不思議そうに首を傾げる彼を、探るように見つめ返したとき。
「お、おまえらーっ!」
荒々しく開かれた扉の音と同時に、震え上がらんばかりの怒声が響いた。