だから僕は、君だけは知っていた
「どうしたの? 名前を教えて」
「な……まえ? 僕の、名前……名前?」
彼は両手で頭を押さえて俯き、呻くように何度も言葉を繰り返す。
「まさか」
「…………わから……ない。僕は……誰?」
「もしかして、記憶がないの? 自分のこと、分からないの?」
ロラが彼の両肩に手を置いて揺すると、彼は苦しそうに頷いた。
もしかしてこれは、あの時の後遺症?
あれだけたくさんの悪霊に一度に取り憑かれて、何の影響もないはずはない。霊障は精神的な障害として現れることも多いから、記憶を失くしたとしても不思議はなかった。
「ちょっと、待ってて。ばあさま呼んでくるから」
「待って!」
一族の長を呼びにいこうと、慌てて立ち上がったロラの腕を、青年が掴んだ。
「ばあさまは腕のいいお医者様で、最高の魔術師よ。ばあさまなら、きっと何か分かるはずよ。だから」
「行かないで! ここにいて!」
子どものようにすがつき、必死に懇願する青年に戸惑う。
「すぐに戻るから……」
「お願いだ、行かないで! 僕が知っているのは君だけだ。自分のことすら知らない。何も分からない。君だけなんだ……」
たぐり寄せるように腕を引っ張られ、彼の横にぺたりと座り込むと、首に両腕が回された。肩に彼の額がこつりと当たる。
「一人は嫌だ……ロラ」
彼の肩越しに見える背中は大人のそれだ。しっかりと広く大きい。なのに、捨てられた子犬のように頼りなく震えている。
不安なんだ。こんなに……。
自分が自分であった記憶がなくなるとは、どういう感じだろう。自分の名前も過去も、肉親のことも、今いる場所も。それら全てが、突然全部真っ白になってしまったら……。
「……分かったわ。ここにいる」
ロラは腕を回して、銀色の髪にそっと触れた。いつもヴィオレットにしてあげるように、ゆっくりと彼の髪をなでながら、無意識にいつもの癒しの呪文を口にする。
すると、彼の強ばっていた肩から、すうっと力が抜けた。
「……それ、その歌」
間近から、震える声が聞こえた。髪を撫でるロラの手が止まる。
「これ? 歌じゃないわ。癒しの呪文なの」
「その君の歌うような声が、ずっと聞こえてたんだ。だから僕は、君だけは知ってた」
「そう……」
ロラはまた、銀色の髪に指を滑らせ、呪文の続きを唱え始めた。
真っ白な中に放り出され、足元にあるはずの自分の影さえ見えない彼。その目に唯一映るのが自分なら、今は彼に寄り添おうと思った。
がちゃん。
部屋の入り口で何かが割れる音がして、二人は反射的に顔を向けた。
「き、貴様……!」
そこには興奮で顔を真っ赤に染めた兄が、肩をいからせて立ち尽くしていた。握りしめた両手が、ぶるぶると震えている。足元には割れた皿と、さっきまでケーキであった残骸。
「俺の妹に、何しやがる!」
兄の荒々しい言葉に、自分たちが抱き合っているように見える体勢だと気付き、ロラはぎょっとした。
まずい。これは完全に誤解してる。
ロラはぱっと青年から離れたが、時、既に遅し。
兄は足音も荒々しく部屋を横切ると、二人の間に割り込み、ごつい手で青年の胸ぐらを掴んだ。
「せっかく助けてやったというのに、恩を仇で返すとはどういう了見だ。ああ!」
「え? あの……僕」
驚きに見開かれた青く澄んだ瞳が、恐怖の色に覆われていく。こんな大きな熊のような男にいきなり掴み掛かられ、大声で怒鳴られたら、怖いのは当たり前だ。
「兄さん! 乱暴はやめて! 違うから。そんなんじゃないから!」
ロラが、兄の腕にしがみつくようにして止めに入った。
「いいや、違わない。俺はこの目でしっかりと見た!」
「違うったら! この人、記憶を失くして、混乱しているようだったから、落ち着かせようとしてただけなのっ!」
「お前は、こんな奴の肩をもつのか!」
「そういう訳じゃないけど、兄さんが誤解してるから……」
いつの間にか兄妹喧嘩になってしまった二人を、青年は呆然と見ていたが、やがてぽつりと言った。
「あ……。僕、この人のことも、知っている気がする」
「はぁ? てめぇ、いい加減なこと……」
青年は、怪訝な顔をするノエルの顔を見つめると、確信を持ったように大きく頷いた。
「その声……。きっとそうだ。ロラと同じ歌を歌ってくれた人だよ。あのときはもっと、静かで優しい声だったけど」
その言葉に何か心当たりがあるらしく、ノエルの顔がさっと赤くなった。
そんな兄の顔を、ロラはにやにやしながらのぞき込む。
「へえ、兄さん。いいとこあるじゃん。夜中に、彼に癒しの呪文を唱えてあげてたんだ」
「お、俺は、そんなこと……」
「さすが、あたしの兄さん。誰にでも優しいのね」
追い打ちをかけるように目を細めて言うと、兄はとうとう黙り込んだ。
「だから兄さん。彼のために、ばあさまを呼んできてくれる? 彼、自分のことを何もかも忘れてしまっているみたいなの。ばあさまに診てもらわなきゃならないわ。だから……ね、お願い」
妹にからかわれ、おだてられ、最後には上目遣いに甘えられて、ノエルは両手で頭をがしがしと掻いた。それから、ちっと舌打ちして立ち上がり、椅子とロラをがっちり掴んで、引きずるようにして扉に向かう。
「ちょっと、兄さんっ」
彼は扉の横に椅子を置くと、ロラを無理矢理そこに座らせ、何も言わずに扉から出て行った。
八つ当たりされた扉が、壊れそうな大きな音を立てて閉まる。
「もぉ……」
ロラが肩をすくめると、青年はこらえきれなくなったように、くすくすと笑い出した。