ようやく、お目覚めですか?
何か、夢を見ていた気がした。全体は色あせているのに、赤の色だけが妙に鮮やかで禍々しい。そんな息苦しい夢——。
ここは……?
デューはがばりと上半身を起こした。足にまとわりついているのは、真っ白でなめらかなシーツ。身体が沈み込むふかふかの寝台。左側には、たっぷりドレープを寄せた、金糸の刺繍が入った紺色の布地が、天蓋から下がっている。そして開かれた右側からは……。
「ようやく、お目覚めですか?」
少し目尻が下がる、甘ったるい美貌の金髪の男に、金色に輝く瞳で顔をのぞき込まれていた。彼は、金の縁取りのある豪華な深紅の上着とズボンを身につけ、頭には金色に輝く王冠を乗せているが、王などではない。いや人間ですらなかった。
「おまえは……ベリト!」
とっさに、その男が悪魔であると認識した。
デューは思わず後ずさると、慌てて自分の胸元を探った。しかし、そこにあるはずの大天使のクロスが手に触れることはなかった。
「ふふふ。お帰りなさい、フェリクス坊ちゃん。それとも、私がただいまと言った方が正しいですかね?」
悪魔は、にいぃと口元を不気味に歪め、片膝を寝台にかけて身を乗り出した。
「ああ、貴方の胸にぶらさがってた、あのおぞましいやつはね、リュシーが持っていきましたよ。さすが、高名な魔術師一族ですよねぇ。まさか、人界にあんなものが存在するなんて、私も驚きましたよ」
枕元の壁際まで追いつめられ、逃げ場を失ったデューに、悪魔が口元だけが歪んだ美しい顔をぐいと近づけた。
「僕に近づくな、ベリト!」
「んー。そう言われましてもねぇ。私はもう、貴方の中にいるのですし……」
まさか、ベリトが僕の中に……いる?
そのとき、デューは悪魔の言った言葉ではなく、自分がその悪魔をベリトという名で呼んでいることに気付きはっとした。
なぜ、名前を知っている?
どう見ても人にしか見えない姿なのに、なぜ、すぐに悪魔だと分かった……?
そこまで考えた時、さっき見ていた悪夢が鮮明に脳裏に甦った。色も形も、手触りや臭いまでまざまざと再現されてくる。
いや、違う。あれは夢なんかじゃない。
あれは、僕の過去。フェリクス・ジル・ヴァンタールの記憶——。
「お兄さま。もっと読んで」
読み終わったばかりの本を抱え、五歳ぐらいの金色のふわりとした巻き毛の少女が、母親の寝台の足元から飛び降りた。すぐさま、次の本を持って戻ってくる。
「もう疲れたよ」と笑いながらも、十二、三歳ぐらいの銀色の髪の少年が、小さな手から本を受け取った。少女はいそいそと寝台に上がると、兄の隣にくっついて座った。
母親は枕にもたれながら、仲良く本を広げる二人に、愛おしげな眼差しを向けている。部屋の隅の長椅子には、魔術師の老婆の姿があった。
公爵である彼らの父親は、妻や子ども達に無関心で、ほとんど顔を合わせることはなかったが、母子はそれなりに幸せな毎日を送っていた。
しかし、そのささやかな幸せも、長くは続かなかった。幼い頃から面倒を見てくれていた魔術師の老婆が、塔の上から転落して亡くなったのだ。その直後、長患いをしていた母親も容態が急変し、帰らぬ人となった。幼い兄妹は引き離され、少年は独ぼっちになった。
父親が新しく雇い入れた魔術師は、冷たい美貌の黒髪の女で、彼女によく似た黒髪の娘を連れていた。
魔術師は少年に耳打ちをする。
「あなたのお母様とばあやは、私たちが殺したのよ。あなたの父上のご命令でね」
「どうして父上が、そんなことを!」
「邪魔だったからに決まってるじゃない。でも、あなたは生かしておいてあげる。せいぜい憎むといいわ。私たちを。父親を」
そして少年は自室に幽閉された。
部屋には他に誰もいないはずなのに、少年はいつも何者かに監視されていた。少年は何度も自害を試みたが、その度に、身体の中に何かが入り込んだ。高熱にうなされ、全身を引きちぎられるような苦痛を味わい、幻聴や幻覚に狂う少年を、魔術師はあざ笑いながら何日も放置した。
少年は十五歳になってすぐ、城の地下にある神殿に連れていかれた。
神殿の床には禍々しい魔法円と、その外側に魔法三角が描かれている。そして、その不吉な三角形の上に、床に頑丈に固定された椅子があった。
黒いローブを身に着けた父親と、魔術師の母娘が、魔法円の中心でにやりと笑う。
「父上、これは……?」
父親は息子の問いには答えず、少年の後ろにいた二人の兵に向かって、顎をしゃくった。
兵たちは少年の腕を掴み、無理矢理、部屋の奥に引きずっていく。そして、固定された椅子に少年を力づくで座らせ、背もたれの後ろで手首を固定した。
父親が手を挙げて合図すると、今度は、白いドレスの若い娘が連れて来られ、中央の台の上に縛り付けられた。
娘の半狂乱の悲鳴が響き渡る中、父親が口元をにやりと歪めて宣言する。
「さあ、儀式を始めようではないか!」
ランプの火が全て落とされ、闇の中に蝋燭の炎がゆらゆら揺れる。胸が悪くなるような、甘ったるい香の煙。魔術師達が紡ぐ呪文が、禍々しく重なる。
そして、娘の絶叫とともに、目の前の景色が真っ赤に染まった。
少年の意識はそこで途切れ、次に目覚めた時、頭に王冠を乗せた赤い衣服の男が、枕元に立っていた。そして、その日以来、少年はベリトと名乗ったその悪魔に、四六時中つきまとわれることになった。
その後も、少年はしばしば神殿に連れて行かれた。そこには父親達の他に、ぎらつく欲望を抱えた者たちが待ち構えていた。魔術師達は少年を椅子に縛り付けると、その身に宿る悪魔の前に、恐怖に怯えた白いドレスの娘を差し出した。
「やめろ! もう、やめてくれ!」
どれだけ叫んでも、儀式は止まらない。娘の悲鳴が上がり、白いドレスの胸元が深紅に染まる。甘ったるい香と血の匂いが混ざり合う禍々しい空間で、赤い悪魔が満足そうに口元を歪ませる。集まった人々の、狂気をはらんだ笑い声が反響する。




