僕はただのデューだ
「な……」
ずずずずずずーっ。
女が言いかけた言葉を邪魔するように、ドロテが大げさに音を立てて、お茶をすすった。
「ああ、リアーヌ。すまんが、わしにもう一杯お茶をくれんか?」
長の隣に座っていたジブリルが、いらいらするほど、のんびりとした口調で言う。
隣のテーブルにいた弟子達が、肩を揺らせ声を押し殺して笑う。
「なんなの、この人たち! フェリクス様、すぐに、わたくしと一緒に城に戻りましょう! こんな下品な人たちと一緒にいるから、戻る記憶も戻らないのだわ!」
リュシエンヌがお嬢様らしからぬ様子で、両手をテーブルに叩き付けた。
「僕はただのデューだ。君のことも、フェリクスという男も知らない。僕は戻らない」
デューはロラを抱く腕に力を込めると、赤い髪の向こうからリュシエンヌを睨む。
しかし、目が合った女は、予想に反して、余裕たっぷりに目を細めた。
「いいえ。あなたは戻らなければなりませんわ。コデルリエ公爵様は、気性の激しいお方。この場所に兵を差し向けてでも、あなたを取り戻そうとなさるはずですわ」
「まさか……。そんな」
デューが大きく息を飲み、ロラを抱きしめていた腕がふっと緩んだ。
「そうなると、公爵家の子息を監禁した罪で、この家の方達全員が捕らえられてしまうことになるかもしれませんわね」
リュシエンヌは残忍な微笑みを浮かべた。琥珀色の瞳がぎらりと光り、獲物を前にした黒い獣のようだ。
「監禁なんかじゃないわ! 彼の意志でここにいるのに!」
「公爵様の意向が優先されますわ。あなた方を捕らえる罪状も、どうとでもなりますわよ。そうね、魔術師がフェリクス様の記憶を消して、たぶらかした……とか? ふふふ」
そこまで言うと、女は静かに腰を下ろした。テーブルに肘をついて指を組み、二人の様子を面白そうに代わる代わる眺める。
彼女の言葉は、決して大げさではないだろう。公爵という地位があれば、強引に権力を振るうことも可能だ。カントルーヴ家の者達を人質に取られた状態では、これ以上の抵抗はできなかった。
「……分かった。行くよ」
了承の言葉を絞り出したデューの腕が、力なく下がった。
「デュー」
もう、逃れられない。彼の過去から。この女から……。
行かないでと言いたくても、言えない。言えば、彼をさらに苦しめる。
言えない言葉の代わりに、彼のシャツをぎゅっと握りしめると、「大丈夫だよ」と囁かれ、髪がふわりと撫でられた。
「では、早速……」
「まぁまぁ、そう焦りなさるな。今晩これからでは、あまりにも急すぎて旅支度もできぬわい。今夜は一旦、お引き取りくだされ」
椅子から立ち上がった女を、ドロテが押しとどめた。
「旅支度など必要ありませんわ」
「この者にとっては、今はこの場所が家で、わしらが唯一の家族じゃ。別れを惜しむ時間も必要じゃろうて。あんたは、そんな人の心も分からぬのか?」
老婆の静かな言葉には、抵抗を許さない強烈な威圧感がある。言葉の最後に、深いしわの間からぎろりとひと睨みすると、若いリュシエンヌは身震いした。
「……仕方がありませんわね。でしたら明日の朝、お迎えに来ますわ」
「そのとき馬車を一台、余計に用意してくだされ。この家から、供をつけたいのでな」
供という言葉に反応して、ロラが曾祖母の横顔を見た。しかし、直後に落胆する。
……ちがう。あたしじゃない。
一瞬、自分を同行させてもらえるかと期待したが、ジェレミーの問題が解決していない以上、カントルーヴ家一の魔術の使い手である自分を、行かせるはずがない。その証拠に、長は正面の女に目を据えたまま、こちらを見ることはなかった。
「な……。婚約者のわたくしと一緒ですもの、供など必要ありませんわ」
女が反論するが、言葉には力がない。完全にドロテに気圧されている。
「いいや。大事な家族をたった一人で、見ず知らずの女と一緒に、知らない場所へ行かせるのは忍びないのでな。それに、彼のような特殊な体質の者には、優秀な魔術師の付き添いが必要じゃろうて」
「……く……」
「わしらも彼の身を案じておるのじゃよ。あんたは婚約者なのだから、もっと心配じゃろう? なぁに、遠慮はいらぬよ。わしらが守ってやるわい」
優しげな言葉だが、女に向ける眼力は凄まじい。
リュシエンヌは怒りと恐れで声を震わせながら、しぶしぶ同意した。
「では、話は終わりじゃ。リアーヌや、大事なお客さまがお帰りになられる。丁重に、お見送りをしてやっておくれ」
長に呼ばれたロラの母親は、恐ろしいほどの無表情で、客を玄関に案内していった。
扉がばたりと閉まると、ロラは強引にデューの手を取った。
「こっちに、来て」
二人は反対側の扉から廊下を通り、母屋の裏から外に出た。




