僕にはそんな記憶はない
ドロテの指示で、二人の子どもはレミの父親によって室外に連れ出され、食堂の中は大人だけになった。壁側の席に客の二人。向かい側にロラ達と、ロラの祖父のジブリル。弟子達は、隣のテーブルについた。母親のリアーヌはお茶の準備をしている。
「フェリクス・ジル・ヴァンタール様は、十九歳。王家のお血筋でもある、コデルリエ公爵家のご嫡男です」
説明役を買って出た従者の最初の言葉に、誰もが驚愕した。
デューが、王族……!
彼の品の良い立ち居振る舞いから、もしかしたら貴族かもしれないとは思っていたが、まさか王家の血を引いているとは。
ロラがうかがうように隣を見ると、デューは凍り付いたように従者の顔を見つめていた。青ざめた唇が、微かに震えている。誰よりも衝撃を受けていたのは彼だった。
「デュー……」
テーブルの上に置かれていた彼の手にそっと触れると、身体がびくりと動き、大丈夫だと言いたそうな、辛い微笑みが返ってきた。テーブルに伏せられていた冷たい手がくるりと返り、包み込むようにロラの手を握る。
「二十日ほど前、フェリクス様は、突然城から姿を消してしまわれました。皆様方は魔術師ということですから、お気づきかもしれませんが、フェリクス様は特殊な体質の方です。魔術師が近くにいなければ、その身が危険にさらされてしまうのです」
従者の説明に、ロラの手を包んでいたデューの手が、強く握られた。
ああ。やっぱり、間違いじゃない。
二人同時に、同じことを思う。
彼は、自分は、間違いなくフェリクスという男だと。
従者が言う特殊な体質とは、彼の強い霊媒体質を指すだろう。フェリクスが行方不明になった時期と、デューが発見された時期も一致する。この事実は、二人が同一人物であるということを示す、否定しがたい証拠だ。
しんと静まり返った中、説明は続いていく。
行方不明となったフェリクスの捜索は懸命に続けられたが、行方どころか小さな手がかりすら見つけられなかった。お抱えの魔術師達による霊視も無駄に終わった。そんなとき、魔術師の一人が「大魔術師ドロテ・カントルーヴなら……」と漏らしたのを、リュシエンヌが聞きつけた。
「お嬢様は藁にもすがる思いで、こちらに駆けつけたのです。しかし、まさかご本人様がいらっしゃるとは……」
「フェリクス様、すぐに城に戻りましょう。お父様も心配されていますわ」
「……戻らない。僕には、そんな記憶はない」
デューが弱々しく首を横に振った。
彼の悪魔の器は、憎しみを糧に育った憎悪の器なのだという。公爵家という恵まれた環境に生まれ育ったはずなのに、彼は誰を、何を、それほどまでに憎みながら生きてきたのだろう。どれほど、辛く苦しい思いをしてきたのだろう。
そんな恐ろしい場所に、彼を帰したくない。
なにより、彼と離れたくない。
自分をその場につなぎ止めようとするかのように、きつくロラの手を握る手は、ずっと冷たいままだ。ロラはもう一方の手を、彼の手の下に滑り込ませた。こうすれば、少しは温めてあげられる。
「ねぇ、あなた。いいかげんにしてくださるかしら?」
ぴしりとした冷たい声が、テーブルの向こうから飛んできた。
ロラがぎょっとして顔を上げると、女は美しい顔に苛立ちを露にして、椅子から立ち上がる。
「言ったはずだわ。フェリクス様はわたくしの婚約者よ。そんな泥棒猫のような真似は、なさらないで!」
叩き付けられた言葉に、ロラの手がびくりと動いた。
「そんなはず……」
デューが血相を変えて椅子から立ち上がったが、それ以上、言葉が続かなかった。これほどまでに嫌悪を覚える女が、婚約者であるはずがない。そう思っても、否定できなかった。記憶がないのだから——。
「くそ……っ」
デューは両手をテーブルにつくと、俯いて歯を食いしばった。
追いつめられた二人を眺めるリュシエンヌの琥珀色の瞳が、楽しげに細められた。
「忘れてしまったなんて悲しいわ。あんなに、愛し合っていたのに」
「やめてくれ!」
追い打ちのように続けられる言葉を、デューが必死に遮ろうとする。
そんな彼の腕をロラがぎゅっと掴むと、そのまま、彼を支えにするようにして立ち上った。正面に座る黒髪の女に、挑むような目を向ける。
「これ以上、彼を苦しめることは許さないわ! あんたの話が本当だとしても、忘れ去られた過去のことよ。今の彼に、あんたの存在なんて欠片もないんだから!」
悲しいと嘆きながらも、女の瞳にはいたぶるような愉悦を感じる。愛し合っていたと言いながらも、彼の苦しみを汲み取ろうともしない。
こんな女がデューの婚約者だなんて、絶対に信じない!
そう思いながらも、相手を睨む瞳からは、ぽろりと涙が落ちた。彼の腕を掴む手が小刻みに震える。
「ロラ……すまない。君を苦しめるなんて」
デューが、ロラを守るように抱き寄せた。ロラもまた素直に彼の腕に納まる。それは、容赦なく過去を突きつける、目の前の冷たい女への抵抗でもあった。




