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君は……僕を知っているのか?

 翌日の夕方に完成した幻夢の香の代替品は、弟子の一人が、ローズモンドの屋敷を探っているノエルの元に届けに向かった。フランヴィル侯爵家の調査に向かったマルク達は、まだ、目的地に着いていないだろう。

 大所帯のカントルーヴ家はごっそりと人が減ってしまい、拡張されたばかりの食堂は、妙にもの寂しかった。大食漢がいないこともあって、用意される食事の量は、普段の半分以下だ。

「お疲れさま。あなたは手伝わなくていいから、ゆっくり食べなさい」

 母親に促されて席に座ると、ヴィオレットが羊肉と野菜の煮込が入った皿を運んできた。

「はい、お姉ちゃん。たくさん食べてね!」

 急に成長した妹分の様子にロラが目を丸くしていると、当然のように隣に座ったデューが、楽しそうに耳打ちしてきた。

「ヴィオは君がいない間、ずっと君の代わりをしていたんだ。口調までそっくりで、まるでちっちゃいロラみたいだろう?」

「ふふふ……そうね」

 ロラが椅子にゆっくり座って食事をすることは、普段はあまりない。大天使の召還に引き続き、香の調合をしていたため、食堂で普通に夕食を摂るのも久しぶりだ。隣にデューが座っているのに、兄の邪魔が入らないのは、おそらく初めてだ。

 なんとなく嬉しくて、ちらりと隣を見ると、デューが眉を寄せながら、小さく崩したかぼちゃを口に運んでいる。相変わらずの、背筋を伸ばした綺麗な姿勢に見とれていたら、視線に気付いた彼が不思議そうな顔をした。

 給仕のお手伝いをしていたヴィオレットが、ロラの隣にちょこんと座った。

 別のテーブルについているドロテは、果実酒をちびちびやりながら、二人の弟子達にホラ話を聞かせている。

 少し寂しいが、和やかな雰囲気での夕食も終わりにさしかかり、母親がミントの香りがするお茶をカップに注いでくれた。

「あれ? 誰か来たみたい?」

 玄関のあたりから、扉を叩くような音がする。直接食堂の裏口から入ってこないところをみると、あまり馴染みのない客らしい。

「そうね。見てくるわ。ロラ、このお茶をみんなに配ってくれる?」

「僕がやります。ロラは座っていて」

「じゃあ、お願いするわね」

 母親はデューにポットを預けると、玄関に向かった。

「ばあさまに、お客さまなのですが」

 しばらくして、二人の客を連れた母親が食堂に戻ってきた。

 先に入ってきたのは、きっちりとした黒い上下の服を身につけた、従者風の中年の男。その後ろから、旅装らしく簡素ではあるが、上等なえんじ色のドレスに身を包んだ若い女。美人だが、真っすぐな黒髪と琥珀色の瞳が、冷たくきつい印象を与える娘だ。

 一目で貴族の娘とその従者だと分かる二人に、ほろ酔い気分だったドロテが、いかにも迷惑そうに顔をしかめた。

「なんじゃ、こんな夜に」

 ぎろりと睨みつけた老婆に、従者風の男は丁寧に腰を折り、事情を説明し始めた。

「こちらは、リュシエンヌ・フルマンティ嬢でございます。実は、ある方を捜しておりまして……。私どもの知る魔術師が、ドロテ・カントルーヴ様にご相談すると良いと申しておりましたので、ご相談にうかがった次第です」

 説明を続ける従者の後ろから、食堂の中を見回していた女が、テーブルを回ってお茶を配る背の高い青年に目を止めた。

「あ……あぁ……フェリクス……様」

 女は従者を強引に押しのけて前に出ると、テーブルの間をすり抜けていく。

 突進するように自分に向かってくる女に、デューは怪訝な顔をしてポットをテーブルに置いた。その彼の首に、女の両手が回った。

「フェリクス様!」

 見ず知らずの女にいきなり抱きつかれ、デューはぎょっとした。同時に、背筋にぞくりと悪寒が走る。

「は、放してくれないか!」

 デューは慌てて女の肩に手をかけると、無理矢理、身体を引き離した。

「何をなさいますの、フェリクス様。ようやくお会いできましたのに」

 女は嘆き悲しむように眉を寄せ、デューの腕にすがった。しかし、見上げる琥珀色の瞳は、言葉とは裏腹に氷のように冷たい。彼女に触れられた部分から、肌がざわざわと粟立っていく感覚に、デューは顔をしかめた。

「ちょっと、待ってくれ。君は……一体?」

「リュシーですわ。あなたの婚約者の。まさか、わたくしの顔をお忘れになったの?」

「なっ……!」

 彼女の手を振りほどこうとしたデューが、ぎくりと硬直した。

 ロラも驚いて椅子から立ち上がる。

 彼女の信じられない言葉に、心臓がどくんと打った。

「君は……僕を知っているのか? 僕は、フェリクスという名なのか?」

 デューはようやく女の手を払いのけると、確認するようにゆっくりと問うた。

「何をおっしゃっているの? フェリクス・ジル・ヴァンタール様なのでしょう?」

 しかし、はっきりと名を告げられても、記憶を失くしたデューには、何一つ思い当たることがなかった。唇を噛んで、首を横に振る。

「その男は、記憶を失くしておるのじゃよ」

 ドロテが二人の間に割って入った。

「記憶……を?」

「そうじゃ。その男は、林の中で倒れていたところを、あの娘に助けられた。じゃが、目覚めたときには何も憶えておらんかった。……自分の名前すらのぉ」

「そんな馬鹿な話が……」

「僕は本当に、君の知っているフェリクスという男なのか? それを証明するものは?」

 自分の身元が判明するかもしれないのに、彼の表情は、それを拒絶するかのように固く強ばっていた。

 間違いであってほしい。

 ロラもまた、祈るような気持ちで見守っていた。

「証明と言われても……ああ、そうだわ。フェリクス様には、右のこめかみに、幼い頃に転んでできた傷跡がありますわ」

 デューは言われた場所を指先で触れながら、不安そうにロラを見た。

「……どう?」

 彼の額にかかる銀色の髪を、ロラが恐る恐るかきあげる。その指が、びくりと止まった。

 生え際から地肌にかけての見えづらい場所に、存在感のある古い傷跡。

 それは、彼がフェリクスという別の名で生きていた証——。

「…………あるわ」

 ロラの掠れた声に、彼の透明な青い瞳が苦しげに伏せられた。

「そうか……。そうなのか」

 彼は過去を捨てて、この家の一員として生きていこうと決めていた。しかし、記憶が戻らなくても、身元が明らかになれば、過去に引きずり戻されてしまうかもしれない。

 実際、目の前の女は、フェリクスという男を捜しに来たのだ。

 ロラもまた、彼と生きる未来を思い描いていた。昨日生まれたばかりのその夢は、ロラの胸を埋め尽くすほどに膨らんでいた……のに。

 辛そうに俯く二人を前にしながら、勝ち誇ったように見える女の顔を、ドロテが忌々しげに見上げた。

「じっくり話を聞かせていただこうかのぉ」

 そう言って、空いている奥のテーブルを目で示した。

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