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僕はずっと、ここにいてもいいだろうか?

 あまりの眩しさに閉じた目を、ロラがそっと開けると、目の前に重厚な銀のクロスが揺れていた。

「これ……は」

 デューが驚いたように胸元に目を落とし、ロラはクロスに手を伸ばした。

 掌に乗せてみると、ずっしりと重い。尖端がクローバー型になったクロス・ボトニーと呼ばれる十字形の中央に、六条の光を放つ大粒のサファイアが埋め込まれており、その左右に翼の意匠があしらわれている。裏を返すと五芒星の彫り込みがある。

「すごい……わ。このクロス」

 その細工の見事さもさることながら、掌に伝わってくる、クロス自体が振動しているかのような、強い力の波動に驚嘆する。これまで扱ってきた魔除けの石など、このクロスの前では、おもちゃですらない。ロラの経験や想像を遥かに超える、大天使ラファエルの神聖なる力が込められた呪具だった。

「そのクロスは、悪魔の器の力を封じ込むことができる。お前の器が充分に満たされるまで、それを肌身離さず身につけているが良い」

 大天使の言葉を掌で実感したロラは、クロスをぎゅっと握りしめた。

「感謝します。大天使ラファエル」

「ありがとうございます」

 それぞれに感謝を口にする二人に、大天使は慈しみ深い眼差しを向けた。

「さて、そろそろ天界に戻るとしよう。ロラ、立ち去りの許可を」

「……はい」

 自分の名が刻まれた召還地点に戻ったラファエルに向かって、聖剣を掲げる。

「汝が平和的に、静かに降り立ち、そして我が請願に応えた。我は汝をつかわせた神に礼を言う。汝のあるべき場所へと退去せよ」

 呪文が進むにつれ、大天使を包んでいた輝きが増していく。そして辺りが、眩しい白一色に染まったと思った瞬間、その輝きはふっと消滅した。同時に、目の前が闇に染まり、足元がすとんと落ちたような感覚がした。

 目の眩む輝きに曝された目は、しばらくの間、何も見ることができなかった。ただ、すぐ近くにある温もりだけを感じていた。

 やがて、薄闇にぽつぽつと浮かぶ蝋燭の炎が目に入り、次いで足元の魔法円が見えてくる。先程までと同じ場所だが全く違う——香の煙がゆらゆらと漂う現実の世界。

 一瞬、夢でもみていたのではないかと不安になり、デューを見る。

 ああ、夢ではない。

 彼の胸に輝く重厚なクロスは、先程の出来事が夢ではなかったという確かな証。大天使ラファエルの召還に成功し、デューの悪魔の器を封じるために授けられたものだ。

 ほっとしたとたん、ロラの足元からがくりと力が抜けた。崩れ落ちる身体をデューが慌てて支え、床に座らせてくれたかと思った直後、彼の両腕が背中に回った。

「ロラ。ありがとう」

 すぐ耳元で聞こえる感極まったような声。痛いくらいに強く抱きしめる腕。

 どうしてさっきまで立っていられたのだろうと思うほど、身体に力が入らない。

 このままずっと彼に身体を預けていたかったが、彼に対する妙な罪悪感が、自分にそれを許さなかった。

 ロラは彼との間に挟まる手で、彼を押しやった。

「ロラ?」

「ごめんね、デュー。あたしは、あなたの記憶を戻してあげられない」

 悪魔に魂を売る決心さえすれば、彼の記憶を戻してあげられる。けれど、それは人として間違った方法だ。大天使に釘を刺され、デューにも「いいんだ」と言われ、自分自身もこれが正しい選択だと分かっていても、心が塞ぐ。

 彼の記憶を戻す方法は、他にはないのだから——。

「記憶のことはもう、いいんだ」

 デューは、先程と同じ言葉を繰り返した。そして、両手でそっとロラの頬を包み込んで、顔を上げさせた。

「記憶が決して戻らないと分かった時、正直、僕はほっとしたんだ。記憶が戻ったら、僕は、元いた場所に戻らなきゃならないかもしれないだろう? それが、何より怖かった」

 彼の言葉は意外だった。

 記憶がないことは、どれほど不安なのだろうと思っていた。何日も眠り続け、ようやく目覚めたときの彼は、あまりにも心細そうに見えた。だから、いつか自分が彼の記憶を戻してあげたいと思っていた。

「でも、あなたにも家族がいたはずよ。きっと、心配しているわ」

 記憶を諦めるということは、どこかにいるはずの家族を見捨てるということ。過去の自分が積み重ねてきたものを、切り捨てるということだ。

 いいの? 本当にそれでいいの?

 彼の本心を知りたくて、彼を見つめた。自分を気遣って言っているのではないかと疑った。しかし、見つめ返す彼の瞳に浮かんでいるのは、諦めではなく希望の色。

「いいんだ。大天使の話だと、僕の過去は決して幸せなものじゃない。記憶が戻らないままの方が、きっと僕は幸せなんだ。それに、ばあさまが、僕のことをカントルーヴの家の者だと言ってくれた。僕にはそれがすごく嬉しかったんだ。ねぇロラ。僕はずっと、ここにいてもいいだろうか?」

 ロラがこくりと頷いた。

 記憶が戻らなければ、ずっとここにいればいい——。

 以前、彼にそう言ったときは、慰めのつもりだった。だけど、記憶を戻す手段が、悪魔と契約する以外にないのなら。そしてそれを、彼が望まないのなら——ずっと、ここにいればいい。

 嬉しそうに間近から見つめてくる彼の澄んだ瞳は、炎の色を映して温かだ。

「君は、僕を助けてくれた。目覚めるまで看病してくれて、新しい名前を付けてくれた。そして、苦手なかぼちゃを無理矢理食べさせてくれて……」

 デューの少しおどけた言葉に、ロラが思わずくすりと笑った。それに釣られたように、彼も幸せそうな笑みを浮かべる。

「こんな風に一緒に笑ってくれて。一緒に薬を作って。そして、僕のために何日もかけて大天使を召還して、このクロスを手に入れてくれた。僕の……デューの記憶のすべてに君がいる。もう、君のいない生活は考えられないんだ」

 髪を撫でていた手が、ゆっくりと頭の後ろに回った。もう一方の手が、大切なものを包み込むようにそっと頬に触れる。

「過去なんていらない。君さえいればいい。この先もずっと、君のそばにいられたら、それだけで幸せなんだ。ねぇロラ、僕は……」

 彼の澄んだ青の瞳があまりにも美しくて目を離せないでいると、不意に、柔らかなものが唇に触れた。

「……君が、好きだよ」

 吐息が触れる距離で囁かれても、何が起きたのか分からなかった。呆然としていると、切なげに名を呼ばれ、もう一度抱きしめられて、ようやく理解が追いついた。

 彼の言葉と、触れたものの意味。

 そして、自分の想い……。

 一気に体温が上がり、頬がほてる。きゅうっと絞られたようになった胸が、その後、信じられないほど速い鼓動を刻んでいる。

「こうやって君を抱きしめるだけで、泣きたくなるほど幸せだよ。そんな想いも全部、君がくれたんだ」

 ロラは彼の言葉をそのまま、実感していた。彼の腕に包み込まれると、涙があふれそうなほど幸せだった。こんなに優しく甘い腕があることを、これまで知らなかった。

 しばらくの間、慈しむように肩や髪を行き来していた彼の手が、ふと止まった。

「ねぇロラ。この家にずっといさせてもらえるのなら、僕は薬師になりたい。ばあさまについて薬草や調薬の勉強をして……。そうしたら、皆の役に立てるだろう?」

 穏やかに語られる、彼の未来の姿。

 真剣な表情で、乳鉢で薬をすり混ぜる彼。

 その隣には、自分の姿があるといい。

「素敵ね! だったら、あたしも、デューの仕事を手伝う!」

 彼の胸に埋もれていた顔を上げると、彼は本当に泣いてしまうのかと思うほど、愛おしげに目を細めた。指先で、ロラの額にかかる赤い前髪をかき分け、そっと唇で触れる。

「香の調合は、魔術師じゃない僕にもできる? 精霊の薬酒は?」

「できるわ。あたしが、教えてあげる」

「嬉しいよ。君が手伝ってくれたら、何だってできそうな気がする」

 次に、右の頬に彼の優しい温もりが触れた。

 なんだかくすぐったくて恥ずかしくて、ロラが首をすくめたとき。

 ぐううぅぅぅぅ……。

 なんとも情けない音が、二人っきりの神殿に鳴り響いた。

「やだ……。ほっとしたら、急にお腹が……」

 腕の中で真っ赤になって、お腹を押さえて縮こまるロラを、デューが笑いをこらえながら抱きしめる。

「今の君には口づけより、食べるものが必要だね。気付かなくてごめん。立てる?」

「う、うん……」

 離れてしまうことを、ちょっと残念に思いながらも、彼の手を頼ってなんとか立ち上がる。足元が少しふらついたが、彼がしっかりと支えてくれるから安心だった。

「行こう」

 デューが神殿の重い扉を押し開けると、とたんに、わっと歓声が上がった。

 眩しさに細めた目で辺りを見回すと、二人は家族と仲間達に取り囲まれていた。

 興奮して拳を振り上げ叫ぶ者。笑顔で手を叩く者。儀式を補助したレミは誇らしげで、ドロテはしわだらけの目頭を押さえている。

「おめでとう!」

「やったな! さすがロラだ」

 大天使ラファエルの強烈な気は、神殿の外にいた魔術師にはもちろん、何の能力も持たない者たちにも届いていた。それだけで、ロラの成功は皆に伝わっていた。

「みんな……」

 ロラが言葉を詰まらせていると、横からぬっと伸びてきた、ごつい手に捕まった。ひったくられるようにデューの側から引きはがされ、そのまま、丸太のような二本の腕でぎゅうぎゅうと締め付けられる。

「わははは。さすが、俺のロラ! 本当に大天使を呼んじまった!」

「ち……ちょっと、兄さん。やめ……く、苦し……い。死んじゃう……から」

 少々乱暴で暑苦しいが、自分をいちばん大切にしてくれる兄の腕。だけど、感じる幸せの種類は、さっきのデューの腕とは全く違っていた。

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