今はもう、誰もおまえたちに文句は言わないよ
ロラは短剣を握った右手を額に当てると、気を鎮めるように息を吐き出した。ゆっくりと十字を切り、聖剣をすっと前に掲げる。
「我が前にラファエル!」
突然、目の前で小さく揺らめいていた蝋燭の炎が、音を立てて大きく燃え上がった。
勢いを増した炎の色に照らされ、二人は思わず息を飲んだ。互いを抱く腕に力がこもる。
ああ、ようやく……。ようやく、来てくれた。
ロラの頬に一筋の涙が伝うが、それに気付かないまま、夢中で呪文を叫ぶ。
「我が後ろにガブリエル!」
見えなくても分かる。背後に立てられた蝋燭も、同じように炎を上げている。
さらに続く呪文に従って、左右の蝋燭も順に激しく燃え上がった。
周囲の空気が急激に張り詰めていく。四つの方角に立てられた蝋燭全てが、天井の一点に向かって弓なりに炎を伸ばし、二人を囲む半球状の炎の籠となる。
悪魔祓いのときとは全く違う、耳鳴りを感じるほどの静寂と、肌を刺す清冽な気。日常と完全に切り離された、魔法円と炎に囲まれた聖なる空間に、ロラの声が滔々と響き渡る。
「我、汝ラファエルを強く呼び出す。全能なる神の名と偉大なる力によって……」
長く続く召還呪文だったが、これ以上は唱えられなかった。続ける必要もなかった。
いきなり弾けた真っ白な閃光に、思わずぎゅっと目を閉じる。前方に出現した強烈な圧力に吹き飛ばされそうになり、デューにしがみつく。彼もまた、ロラを守るように抱きしめた。
嵐のような一瞬が過ぎ、二人が恐る恐る目を開けると、彼らの正面、東の方角に、眩しい輝きに包まれた人影があった。
背中には純白の大きな翼。ドレープをたっぷりと寄せた白い衣を身につけ、身長より長い木の枝のような杖を手にしている。肩につくほどの長さの少し癖のある金色の髪と、紺碧の瞳。唇には柔らかな微笑。彫りが深く、壮絶に美しい顔立ちだが、デューと同じ年頃の若者に見えるせいか、どことなく親しみやすさを感じる。
「ラ……ファエル?」
夢でも見ているような心地で呼びかけると、大天使が微笑んだ。
「ああ、そうだよ。人間界に直接降り立ったのは、何千年ぶりだろうな」
見た目通りの若者らしい口調と声音だが、身体の芯を震わせるような、少し高めのよく通る美しい声だ。大天使の存在感に圧倒されたロラは、それ以上口もきけずにいた。
ラファエルは長い杖をつきながら、ゆっくりと近づいてくる。
「よく、頑張ったね。ロラ。俺としてはすぐに来てあげたかったんだけど、人間嫌いのウリエルが厳しくてね。ガブリエルは無関心だし……。でも今はもう、誰もおまえたちに文句は言わないよ」
大天使たちは四日間の儀式の間、僅かな気配すら見せなかったものの、ずっと二人を見守っていた。そして、先程の最後の儀式で、ようやくロラを、大天使の召還を許すに値する人間である認めたのだ。
ラファエルがすぐ目の前に立ち、ロラの言葉を待つように首を傾げた。そこで、ようやくロラは正気に戻る。
「あのっ。あたし、あなたにお聞きしたいことがあるんです」
「ああ。その男のことだろう? その男は、どこか妙だ」
大天使はそう言うと、手にしていた長い杖を斜めにデューの前にかざし、美しい金色の睫毛を伏せた。
「これは……」
はっと開かれた大天使の紺碧の瞳には、驚きの色が映っていた。
「驚いたな。人の身に、これほど強大な器を持てるとは。これなら、下級悪魔であれば簡単に従わせられる。もしかすると、上級悪魔すら……」
後半は呟くように小さくなった大天使の言葉に、二人は顔を見合わせた。
「どうして……彼に、そんなものがあるのですか?」
ことの重大性をよく分かっているロラが、震える声で大天使に問うた。
「器の資質は、生まれつきだ。ごく稀に、そういう能力を持つ者が人間界に生まれ落ちる。しかし、それは小さな種のようなものであるから、ほとんどの者はその存在にすら気付かないまま、平穏に一生を終える」
「だったら、なぜ彼の器は、こんな強い力を持つことに……?」
大天使はその問いの答えを探すかのように、しばらく彼をじっと見つめた。
「器の種を芽吹かせ大きく育てるのは、人の負の感情だ。お前の中にあるのは、憎しみを糧に育った憎悪の器。強い絶望や孤独をも取り込んだ、どこまでも深い闇だ。お前は、よほど過酷な環境に生まれ育ったとみえる」
「そんなことを言われても、今の僕には……」
デューが両手で頭を抱えて呻くように訴えると、大天使は哀れむような目を向けた。
「そうだな、お前には記憶がない。だから、お前の器を創り上げることになった経緯までは、俺にも分からない。結果から推測するだけだ」
「大天使にも、分からないことがあるのですか」
「俺は神ではないからな。お前の記憶が忘却の彼方にあるのなら、読み取ることができるだろう。壊れてしまったのなら、修復も可能だ。しかし、存在しないものは、俺にもどうすることもできない」
「存在しない……?」
「そうだ。お前の中にその記憶はない。だから、思い出すことは、決してない」
残酷な事実を告げられたが、デューはさほど衝撃を受けなかった。彼にとって、恐ろしい記憶が存在しないことは、救いでもあったのだ。そして彼には、過去を思い出したくない別の理由もあった。
しかしロラは、なんとか記憶を取り戻す方法がないかと、大天使に食い下がる。
「デューはたくさんの悪霊に取り憑かれていたんです。その影響なのですか?」
「違うな。悪霊は人の精神を破壊するだけだ。過去の記憶のみを選んで消し去るなどという、高度な技はない。これはおそらく、サルガタナスの仕業」
「サルガタナス……? まさか、悪魔」
聞き覚えのある名に、ロラが記憶をたぐり寄せた。
サルガタナスは地獄の旅団長と呼ばれる上級悪魔だが、あまり凶悪な印象はない。ドロテから聞いた話では、人の姿を消したりを瞬時に移動させたり、あらゆる鍵を開けてしまう悪魔だということだったが、人の記憶を消す能力があるとは初めて聞いた。
「じゃあ、サルガタナスなら、彼の記憶を元に戻すこともできるんですか?」
「あぁ、できるだろうな。だが、お前がそれをやるというのか、魔術師ロラ。お前が悪魔と契約して?」
大天使の言葉は静かだったが、向けられた深い青の視線は冷厳としていた。
「う……。まさか……そんな、こと……」
一瞬頭をよぎった考えを大天使に看破されて、ロラは言葉につまった。
人の世から悪魔信仰を失くすことが、自分の使命。そう考えているロラが、黒魔術師のまねごとなど、できるはずもなかった。記憶を戻す唯一の方法が分かっても、それを行使することは決して許されない。それがデューのためであっても……。
ロラは自分自身を嫌悪し、唇を噛んで俯いた。
悪魔を利用すればいいと、一瞬でも考えてしまった自分。自分の信念からデューを助けられない自分。どちらも許せなかった。
「いいんだ。ロラ」
デューの手が慰めるように、赤い髪をくしゃりと撫でた。
「大天使ラファエル。それでは僕は、これからどうしたら良いのですか? 悪魔の器を消す方法はないのですか?」
「それは一度できてしまったら、一生、消えることはない。小さくなることもない。しかし、器を別のものでいっぱいに満たしてしまえば、その器は力を失くす」
「別の……もの? それは、どうやって?」
「器を創り上げるのは人の負の感情。そして、その中を満たすことができるのは正の感情だ。憎悪には惜しみない愛を。絶望には光り輝く希望を。孤独には差し伸べる手を……。美しく温かな感情で、悪魔の器を満たしていけば良い」
大天使の言葉に聞き入っていたデューの手が、ほとんど無意識にロラの頭を抱き寄せた。ロラも彼の背中に手を伸ばし、身を寄せる。
かつての彼が切望していたであろうものを、今の彼は手にしようとしている。その様を眺めていた大天使は、満足そうに微笑んだ。
「ここで暮らしていけば、お前の器はいつかきっと力を失くすだろう。ただ、これだけ大きな器を満たすには時間がかかりすぎる。このまま人間界に放置しておくのは危険だな」
大天使の長い杖の頭が、デューの胸元に向けられた。ロラの目の前に突き出された枯れた枝のようなその先が、ぼんやりと輝き始めたかと思うと、強烈な閃光が弾けた。




