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もう……やめよう、ロラ

 大天使召還の儀式を始めてから四日経った。その間、ロラは眠る時と身を清めるために水を浴びる以外、ほとんど神殿に籠り切りだった。

 蝋燭の炎が揺れる薄暗い神殿の中で、今日もデューと二人で円の中心に並んで立つ。

「……左手にウリエル。我が四囲に燃え上がる五芒星。我が頭上に輝ける六芒星」

 あぁ、やっぱり……だめだ。

 今朝だけで、何回目になるのか分からない呪文の詠唱を終えると、全身からふうっと力が抜けた。あたりに漂う香の煙が、黒く染まって見える。銀の聖剣が手から滑り落ちて、石の床の上で音を立てた。

「ロラ!」

 腕を伸ばしたデューが、ふらつく身体を支えてくれた。そのまま、彼に抱えられるようにして、ゆっくりと床の上に座り込む。

「大丈夫かい? 僕に寄りかかるといいよ」

「ん……」

 肩を抱き寄せられ、素直に彼の胸にもたれかかった。初めのうちは恥ずかしくて、彼の手を拒否していた。しかし、今はもう、彼が支えてくれなければ儀式を続けられない。

 限界——。

 そんな言葉が頭をよぎる。食事を摂っていないせいで体力が落ち、呪文を詠唱する間、立っていることすら難しい。集中力も続かない。ゆらゆら動く香の煙に目眩がする。

 何度呪文を唱えても、魔法円を描きかえても、初日の全く手応えのない状態から、抜け出せなかった。

 あたしの声は、天使達には届かない。

 魔術では誰にも負けないと思っていたのに……。

「どうしたらいいの……?」

 彼の前では弱音を吐くまいと思っていたのに、労るように優しく背中を撫でる手に、つい心を許してしまう。

「もう……やめよう。ロラ」

 彼の声に「しまった」と思う。泣き言を言えば、優しい彼は絶対、こう言うと思っていたのに。

「や、やめないわよ!」

 腕を突っ張ってデューから身を離し強がってみせたが、彼は静かに首を横に振った。

「無理だよ。もう、立っているのも辛いだろう?」

「そんなことないわ。少し休めば大丈夫だから」

 デューはまた、悲しそうに首を横に振ると、ロラの手を両手で包み込んだ。

「だめだよ。手だってこんなに冷たい。何日も食べていないから、ちゃんとした血が通っていないんだよ」

 彼の手を熱いと感じるのは、それだけ自分の手が冷たいからだ。手だけではない、全身が冷えきって鉛のように重い。

「でも、このまま諦めるなんて、できないわ!」

 何日も儀式を続けてきたのに、ただの一度も、天使達の気配すら感じ取れない。まるで無力な自分が、あまりにも情けなくて悔しかった。だからまだ、やめる訳にはいかない。

「放して!」

 彼の手を振り払おうとしたが、びくともしない。きっとした目を彼に向けると、辛そうな淡い青の瞳とぶつかった。

「君が儀式を続けているのは、僕の為なんだろう? だったら、僕の為にもうやめて欲しい。魔術師としての意地もあるかもしれないけど、見ていられないよ。だから、もうこれ以上は……」

「え……?」

 魔術師としての意地——。

 その言葉がちくりと胸を刺した。ふと、以前ドロテが話してくれた言葉を思い出す。

『わしは、ただの好奇心から、大天使を召還しようとした。じゃが、今のおまえには強い動機がある。その思いが純粋で確固たるものであるなら、大天使達も見捨てたりはせんかもしれん』

 純粋で確固たる思い。

 それは、今の彼のような……?

 何かがすとんと、胸に落ちた。身体から力が抜け、放心したように床にへたり込むと、慌てたデューの腕が背中に回り、そのまま強く抱きしめられた。

「もう……いいから。終わりにしよう、ロラ」

 必死に説得しようとする声。無理をさせまいとする腕。

 自分は悪魔の器ではないのか。自分の過去はどうだったのか。それを一番知りたがっているのは彼自身のはずなのに、彼は今、ロラのことだけを純粋に案じてくれている。

 そういうことだったんだ——。

 いつの間にか、目的を見失っていたのだ。いや、最初から間違っていたのかもしれない。デューのためだと言いながら、ロラは自分のために、魔術師としての意地のために、大天使を召還しようとしていたのだ。それは、彼を救うための手段でしかなかったはずなのに。

 こんなあたしの声を、彼らが聞いてくれるはずがない。

「ふふっ……」

 ロラの口から自虐の笑いが漏れた。

「ロラ?」

「心配かけてごめんね、デュー」

 そう言うと、彼はロラが儀式を諦めたと思ったのだろう。ほっとしたような表情を浮かべて、腕を緩めた。

 ロラは彼から離れると、手を伸ばして、さっき落とした聖剣を拾い上げた。複雑な模様が彫り込まれた柄を両手で握りしめ、剣身に映る自分の顔を見つめる。

 もう一度、試したい。今ならきっと……。

 決心して勢い良く立ち上がると、一瞬目の前が暗くなった。

「ロラ、もうやめるんじゃなかったのか!」

 慌てて立ち上がったデューが、後ろに傾いだロラの背中を支え、声を荒げた。彼のこんなに強い調子の言葉を聞いたのは、初めてだった。

 はっと顔を上げると、間近から見下ろしてくる彼の瞳に浮かんでいたのは、怒りと憂いと悲しみ……そして深い優しさ。痛いほどに彼の思いが伝わってきて、胸が熱くなる。

 あたしは、この人の役に立ちたい。

 彼の抱える重く苦しいものを、取り除いてあげたい。

 だから。

「お願い、あと一回だけ。これで最後にするから」

「だけど……」

「本当に、これが最後だから。お願い。やらせて!」

「……分かった」

 彼の表情が苦しそうに歪んだが、それでもロラの意志を尊重してくれた。

 背中を支えていた手がそっと離れていく。

「待って! そのままで……」

 ロラは訴えるようにデューを見上げると、左手を彼の腰に回して力を込めた。

 それに応えるように、彼の離れかけた手がロラの腰に回り、ぐいと抱き寄せられる。

「これで、いい?」

 真上から降ってきた声に頷くと、頭のてっぺんに何かがふわりと触れた。

「しっかり……。ロラ」

 彼のくぐもった声が、力となって身体に満ちていく。

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