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なるほど……そういうこと、ね

 朝食後、白いローブを身に纏った三人は神殿に向かった。ロラとレミはランプを、デューは蝋燭や香炉などが入った道具箱を抱えている。

 両開きの重い扉を片方だけ開けて中に入ると、昨日使った香の甘い香りが鼻につく。神殿の中は昨日のうちに片付けられており、床に埋め込まれた二重円環が描かれているだけの、ただっぴろい空間だ。しかし、目が慣れるまではほとんど中の様子は見えない。

「うわぁ。真っ暗だね」

 神殿内に初めて入るレミは、一歩中に入ると、きょろきょろと辺りを見回した。

「ほら、見てごらん」

 ロラが中に進むと、手にしたランプを低くして床を照らした。

「わあ、二重円環だ。すごい! 本物、初めて見るよ」

 はしゃいだ少年は、床に白い石で描かれた線を辿るように、ぐるりと室内を一周した。外側の円を一周すると、今度は内側を回る。

「かわいい! あたしが初めて神殿に入ったときも、同じことをしたのよ」

 ロラまで楽しくなってきて隣のデューを見上げると、彼は「うん。かわいいね」と、くすりと笑った。

 ロラが師匠で、レミが弟子。そんな雰囲気で、魔法円を描くことから準備が始まった。ろう石を手にしたロラが、ひとつひとつ説明しながら、床に既に描かれている二重円環に文字や記号を書き加えていく。その手元が見やすいように、デューがランプを掲げた。

「この部屋の一番奥が、東。だから、ここに書く大天使の名は?」

「ラファエル……だよね?」

 ロラは頷いて、二つの円弧の間に、古い文字でラファエルの名を刻んだ。残りの天使の名も、対応する方角に合わせて順に書いていく。そして、円の内側には今回召還するラファエルの印形シジルを描く。解説しながらの作業のため、魔法円が完成するまでに、たっぷりと時間がかかった。

「よし。できた! ねぇ、デュー。部屋の四隅に蝋燭を灯してくれない?」

「ああ」

 部屋の四隅の蝋燭は、単純に明かりとしての灯火だ。魔術師以外にも任せられる。

 一方、四大天使の名のすぐ外側に立てる四本の蝋燭は、魔法円の一部だから、ロラとレミが火をつけた。これは、天使達の力を呼び出す点になる。

 八本の炎の色に照らされて、濃い灰色の石の床に、白く描かれた魔法円がぼおっと浮かび上がる。

「うわぁ」

 闇の中に照らし出された魔法円の壮観な全体像に、レミが歓声を上げた。

 魔法円は儀式の場と外部とを区切る結界となるが、呪文を唱える前は、何の力も持たないただの図形だ。それでも、目の前にすれば自然と背筋が伸びる。

 これからこの場所に、癒しを司る大天使、ラファエルを召還する——。

 大呪術師として名高い一族の長ですら、一度も成功したことのない術だ。そう簡単に、うまくいくはずはない。成功するかどうかも分からない。それでも、まだ誰も実際には見たことのない、大天使の神々しい姿を、必ずこの円の中に降ろしてみせる。

 そう覚悟を決めた。

「レミ。もう準備は終わったから、行ってもいいわ」

「うん、分かった。ロラ……あの、頑張ってね」

 ぴりぴりとした緊張感が伝わるのか、レミは遠慮がちに答えると、不要になった道具類が入った箱を抱えて、そそくさと神殿から出て行った。

「レミは一緒じゃないの?」

「あの子には、準備と後片付けを手伝ってもらうだけよ。儀式の場には召還者と、儀式に直接関係する者だけしか、いられないの」

 そう言いながら、ロラは蝋燭の火を紙片に移し、香炉に入れた。昨日より少し清涼感のある香りが、煙となって立ち上る。ゆらゆらと広がる薄い煙に、蝋燭の炎の色と二つの人影が映り、より幻想的な光景になっていく。

 ロラはゆっくりと魔法円の中心に歩いていった。ラファエルの名が二つ並んでいる東を向き、円の中心に引かれた線をまたぐようにして立つ。

「デューは私の左側に並んで立って。今から儀式を始めるわ」

「僕はどうしていたらいい?」

「そうね……。気楽に見ていてくれればいいわ」

 薄く微笑んで前を見つめるロラの横顔は、魔術師としての自信に溢れている。彼女の凛とした気高い姿に、デューは目を奪われた。

 東の空間を見つめたまま、白いローブの下から銀の聖剣を取り出し、蝋燭の炎の光を反射させながら、切っ先で十字を切る。

「我が前にラファエル。我が後ろにガブリエル。我が右手に……」

 昨日の悪魔祓いと同じ手順で、儀式を開始する。

 ……違う。

 ロラはすぐさま、異変を感じ取った。いや、正確に言えば、異変が起こらないことを感じ取った。いつもの悪魔祓いであれば、呪文を唱えればすぐに大天使達の力が四つの方角に出現する。しかし、今は微かな気配すら感じられない。魔法円の四本の蝋燭にも変化はなく、炎が小さく揺れているだけだ。

 ロラは同じ動作と呪文を三度繰り返すと、聖剣を握った手を下ろした。

「なるほど……そういうこと、ね」

 ドロテの作り話の中でも、今と全く同じ状況が語られている。一番最初の呪文で躓いた物語の中の彼女は「天使達は、悪魔祓いでなければ、人間を手助けする気はないのか」と嘆くのだ。この部分に限っては、曾祖母の体験談に違いない。

 本当に天使達に手助けをする気がないのだとしたら、どうしたらその気にさせられるのだろう。悪魔召還ならば簡単だ。自分の魂や生け贄などの代償を準備すれば良い。しかし、そんなものに左右されないのが天界の者たちだ。

 じゃあ、どうやって……?

「ロラ、大丈夫かい?」

 じっと考え込んでいると、大きな手が肩に触れてはっとする。顔を上げると、身を屈めたデューが、心配そうに顔をのぞき込んでいた。

「気分でも、悪いの?」

 自分が黙っていることで、彼に心配をかけていたのだと気付き、慌てて弁解する。

「ううん、そんなことないわ。うまくいかないから、どうしたらいいか考えていただけ」

「ああ……そうだね。昨日と違って、何も動かない」

 微弱な霊感しか持たない彼にも、昨日との違いははっきり分かるようだ。

 同じ呪文を唱えたはずなのに、何の変化も起こらない。見た目は非現実的なこの空間は、まだ現実世界の中にあるのだ。

「うん。……思っていた以上に難しいわ」

 ロラは聖剣を一旦懐に戻すと、香炉を手に、魔法円の外側をゆっくりと歩き始めた。静かな中に、こつこつと足音が響く。ロラが歩くことで空気が動き、香炉の煙が大きな渦を作り上げた。

「もう一度、やってみる」

 気を取り直して、最初から儀式をやり直す。しかし、結果は同じだった。

 何度試しても、ほんの僅かな変化も起こらない。やがて、ロラは床の上にぺたりと座り込むと、両手で頭を抱え込んだ。

 ロラは幼い頃から、魔術に関してあまり苦労したことがなかった。新しい術は、少し練習すればすぐに身に付いた。カントルーヴ家に代々伝わる秘術は、十年以上前にすべて修得済だ。経験も十分に積んだ。それなのに、自分の魔力がすべて消えてしまったのかと錯覚するほどの、手応えのなさだ。

 デューはどう声をかけていいか分からず、隣に腰を下ろした。

 どれくらいそうしていたのか。床すれすれにまで短くなった蝋燭の炎を、ロラがぼんやり眺めていると、不意に頭に何かが触れた。

「あのばあさまが、いくらやってもできなかった術だから、簡単に成功するはずはないよ。でもロラならきっと、いつかできる。僕は、そう信じてるから」

 彼の大きな手が、何度も髪を滑る。子どもに言い聞かせるように、優しく囁く声は、まるで呪文のようだ。

 それが、自分がこれまで、彼やヴィオレット、レミにしてきたことと同じだと、ふと気付く。これほどまでに心強く、心を落ち着かせるものなのかと初めて知った。

 ふふっ。

 ロラはくすぐったそうに首をすくめると、自分を癒してくれる手と声の持ち主を見た。目が合うと、彼はほっとしたように微笑んでくれた。

「そうね。今まで誰も成功していないんだもん、簡単にいく訳ないよね」

 ロラはそう笑って、立ち上がった。

「デュー。レミを呼んできてくれる?」

「ああ」

 彼は、ロラの肩にぽんと手を置いてから、神殿を出て行った。

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