あの場にいたのがお前じゃなかったら
「おい、ロラ。飯だ」
低音のかすれ声で振り向くと、四歳年上の兄のノエルが、扉をくぐるようにして部屋に入ってきた。ロラと同じ燃えるような赤毛を、短く刈り上げた大男だ。今朝、彼がその太い腕で、林の中で倒れていた青年を軽々と担ぎ上げ、この部屋まで運んできた。
「どうだ、様子は?」
ノエルは妹の膝に夕食が乗せられた盆を置くと、部屋の隅にあった椅子を引っ張ってきて、彼女の隣にどっかりと腰を下ろした。
「相変わらず、眠ったままよ」
ロラは、隣のベッドに横たわる銀髪の青年をちらりと見た。
彼はあれから一度も目覚めることなく、こんこんと眠り続けている。少し熱があったため、濡らした布を額に置いているが、苦しそうに歪められていた顔は、今は安らかに緩んでいる。
「おいしそう! お腹すいてたんだぁ」
盆の上に目を落とすと、鶏肉と豆のシチューが湯気を立てていた。早速、パンをちぎってシチューに浸し、ぱくりとほおばる。
ノエルはそんな妹の様子を、目を細めて見つめていた。
「あんまり、無理するなよ。いつ目を覚ますのか分からんのだし。それに、目を覚ましたときに、お前に襲いかかる可能性も、ないわけじゃない」
「でも、ばあさまが大丈夫だって言ってたじゃない。うなされてもいないし、心地良さそうに眠ってるから、私も心配いらないと思うけど……。ただ、目覚めるかどうかが、問題よね」
ノエルは椅子から立ち上がってベッドに近寄ると、眠り続けている男をじっくりと観察する。
「こんな女みてえな顔してる奴に、十体近くも取り憑いていたっていうんだろ? 俺は、今だに信じられんけどな」
「実際に自分の目で見たあたしだって、信じられないわよ。でも、本当だもん。ものすごい光景だったわ」
ロラの言葉に、兄はやはり納得いかないというように頭を掻いた。
ロラとノエルの兄妹は、古くからまじないや占い、祈祷、医術などを生業としてきた魔術師一族、カントルーヴ家に生まれた。
一族の血筋には、亡霊や悪霊などが視えたり、精霊を操ることのできる能力者がしばしば生まれる。ロラとノエルもその能力を受け継いでいた。彼らの父親や、叔母、従兄弟なども、同様の力を持っているが、その中でもロラの能力は抜きん出ており、一族の長である彼らの曾祖母、ドロテ・カントルーヴを凌ぐとも言われていた。
「あの場にいたのがお前じゃなかったら、こいつは助からなかっただろうな」
ノエルは椅子に戻ってくると、大きな手で妹の頭をくしゃりとなでた。
「へへへ……」
ロラは照れくさそうに笑うと、最後に残しておいた鶏肉を口に運んだ。
「ごちそうさま。母さんに、おいしかったって言っておいて」
「おう」
ノエルはお盆を受け取って立ち上がると、ふと思いついたように妹に視線を落とした。
「そいつの見張り、夜中は俺が代わるからな」
「え、いいよ。大丈夫」
「いつ目覚めるか分からないんだ。夜中に、お前と男を二人きりにできるかよ!」
妙な心配をしている兄に、ロラがくすりと笑った。
「そんな、心配しなくても……。あの人、病人みたいなものだよ?」
「だめだったら、だめだ! それに、お前と一緒じゃないとヴィオが寝られんだろうが。お前がこっちにかかりっきりだから、あいつ、しょんぼりしていたぞ」
「……あ、そっか」
ヴィオレットは姉代わりのロラと一緒のベッドでないと、眠ることができない。そうしていても、悪夢に飛び起きてしまうことが頻繁にあるのだ。
ロラは愛らしい少女の顔を思い浮かべ、深夜の看病を兄に託すことにした。
「じゃあ、後でな」
兄が部屋から出て行くと、ロラは立ち上がって、ベッドで眠っている青年の顔を覗き込んだ。顔色は少し赤いものの、表情は穏やかだ。別段、変わった様子はない。
さっきノエルが女みたいな顔だと言ったが、確かにそう思える、ぞくりとするほどの美貌の青年だ。年齢は、自分より少し上だろうか。
この銀色の長い睫毛に縁取られる瞳は、どんな色なのだろう。
この綺麗な唇で、どんな風に、どんな声で話すのだろう。
ぼんやりそんなことを考えながら、額に置かれていた布を水に浸して絞り、彼の額に戻した。そして、布の上から手を重ね、何度目になるかわからない、癒しの呪文を唱える。
しかし、彼が目を覚ますことはなかった。




