彼女の心を、奪ってきてやろう
ジェレミーの元に悪魔が現れたのは、昨晩のことだった。
「お前の愛するローズモンドを、取り戻してやろう」
「彼女の心を、奪ってきてやろう」
眠っていた彼の耳元で、そんな囁き声が聞こえた。優しく甘美な響きで誘うその声に、彼は夢うつつのまま応えそうになったが、懐に入れていたドロテの魔除けが突然熱を発し、驚いて飛び起きた。すると、ベッドの上に、蝙蝠の羽を持つ奇妙な姿の悪魔が座っていたのだという。
「僕はとっさに、枕元に置いてあったロラとヴィオのリースを胸に抱きしめて、お前の言うことは聞かない。ここを立ち去れ! と何度も悪魔に命じたんだ。だけど……」
悪魔は執拗にジェレミーを誘惑し続けた。時には甘い猫なで声で、時には恫喝めいた激しさで彼を責め立てる。必死に抵抗を続ける彼だったが、夜が明けるころには、激しい消耗のために意識も朦朧となっていた。
「早朝、旦那様の部屋から激しい物音がしたので、私どもが参りましたところ、窓ガラスは割れ、室内のあらゆる物が激しく飛び交って、部屋の中はめちゃくちゃになっておりました。そして旦那様は、部屋の隅で膝を抱え、ひたすら嫌だ嫌だと呟いておられたのです」
従者のモーリスは、主の尋常でない様子と室内の怪奇現象を、悪魔か悪霊の仕業だと考え、慌ててカントルーヴ家に知らせに走った。
城に駆けつけた三人の魔術師達は、すぐさま悪魔の力を封じ込め、宿主となっていたジェレミーごと悪魔を捕縛した。
「じゃが、ジェレミーは、強い意志で、悪魔を拒絶し続けていたのじゃよ。完全には取り憑かれてはおらんかった。なのに、あの間抜けな魔術師どもはそれを見抜けんかったもんじゃから、より強い拠り所を見つけた悪魔は、捕縛の縄からするりと抜け出してしまったのじゃ。まったく、あいつらときたら……」
ドロテが忌々しそうに吐き捨てると、喉を鳴らしてお茶を飲み干した。
「じゃあ、ジェレミー様は悪魔の誘惑に勝ったっていうこと? それって、すごくない?」
「ばあさまにも、そう言われたよ」
ロラが驚くと、ジェレミーは、少し照れたような笑みを浮かべた。そして、両手をテーブルの上に置いて指を組むと、すっと表情を引き締めた。
「でも、悪魔を呼び寄せてしまったのは、僕の心の弱さが原因だ。皆にはいろいろと心配をかけたが、もう大丈夫だ。二度と、こんなことは起こさないよ」
決意のこもる言葉に、ドロテは満足そうに目を細めると、テーブルの上に身を乗り出して、彼の組んだ手をポンポンと叩いた。
「よい目をしておるのぉ。お前さん、これからもう一踏ん張りせんとな?」
「……え?」
「悪魔の誘惑をかわしたのじゃ。自力でなんとかしようと考えておるのじゃろう?」
老婆が意味ありげに目配せすると、しばらくぽかんとしていた彼は、急に声を上げて笑い出した。
「はははっ。ばあさまには敵わないな。確かに奴の声を聞きながら、そんなことを考えていたよ。僕はまだ、自分では何もしていなかったから」
「未来は、お前さん次第じゃよ」
「はい」
力強く頷く若き領主を、老婆はひ孫を見るような優しい目で見つめていた。




