ちょっと顔、かせ
ロラには来るなと言われたものの、あんな叫び声を聞いては、デューもじっとしてはいられなかった。彼女に遅れて裏口から家の中に入ると、彼女の部屋の前に心配そうな様子のいくつかの人影があった。
「ロ……むぐっ」
何があったのかを訊ねようとすると、いきなり大きなごつい手で口を塞がれた。
「声を出すな。ヴィオに男の声を聞かせるな! ちょっと顔、かせ」
ドスの効いた囁き声が耳元でしたかと思うと、口を塞がれたまま強引に引きずられ、外に連れ出される。そして、さっきまでいたベンチまで来ると、放り出されるように座らせられた。
ようやく自由に息ができるようになったデューは、肩で息をしながら、月の逆光になった熊のように大きな影を見上げた。影のてっぺんは、燃え上がる炎のように真っ赤だ。
「な……何があったんですか。ヴィオはどうして、あんなことに……?」
「そんなことより」
ノエルはひどく不機嫌そうに言うと、脅すようにどすりと隣に腰を下ろした。
「そんなことじゃない、でしょう? あんなに叫んでいるのに」
少女の泣き叫ぶ声は、今も聞こえている。
「あれはいつものことだ。そんなことより、お前」
しかし、ノエルはデューの疑問をあっさりと切り捨てると、ぐいっと顔を近づけた。
「こんな夜中に、何をしていた! 俺のかわいいロラと……何だ? 逢い引きでもしていたのか?」
「逢いび……? ち、違います。ただ、月が眩しくて……」
ここでロラと二人でいたことを、ノエルに気付かれたらしい。だとしたら、そう誤解されるのも無理はない。
「月が綺麗だからって、あいつを誘い出して、口説こうとでもしたんだろう? ああ?」
「誤解です。たまたま目が覚めて、偶然ここで……」
「そんな馬鹿な偶然なんて、あるか!」
実際に偶然でしかなかったのに、何をどう説明してもノエルは納得しなかった。デューが知りたいヴィオレットのことは何一つ聞き出すことができないまま、二人の押し問答は空が白み始めるまで続いた。
翌朝、ロラはあくびをかみ殺しながら、忙しく朝食の世話をしていた。
大暴れをしたヴィオレットが腕の中でことりと眠ってしまったのは、明け方近かった。夜中に彼女のそばを離れてしまった自業自得なのだが、かなりの寝不足だ。
それでも、いつものように大皿に盛った料理をテーブルに置き、山羊の乳やスープを配る。ふと気付くと、いつもはデューが座っている席にノエルが、ノエルの席にデューが座っていた。
「なんで兄さんが、ここに座ってるのよ」
ゆでたジャガイモを山盛りにした皿を、彼の真ん前に置くと、ロラが口を尖らせた。
「ここはもともと俺の席だ。あいつも、もうここの生活に慣れただろうから、返してもらうことにした。あんな奴を、かわいいお前の近くに置いておく訳にはいかんからな」
ノエルは正面の席をぎろりと見ると、椅子にふんぞり返って大あくびをした。
ロラがデューに目を向けると、彼はひどく疲れた様子で、「いいんだ」というように、軽く手を挙げた。
昨晩、この二人に何かあった?
目の前に横たわる妙な空気に、そうピンときたものの、兄の二つ隣の席には、これまた寝ぼけ眼のヴィオレットが座っている。彼女の件もおそらく関係しているだろうから、この場で聞き出すことは躊躇われた。
一通りの仕事を終え、自分のスープ皿を手にノエルとヴィオレットの間に座る。大皿から残り少なくなった豆のトマト煮を取り分け、自分のじゃがいもを取るついでに、デューの皿に一個転がした。それをめざとく見つけたノエルが、あからさまに不機嫌な顔をしたから、彼の皿には三個乗せてやる。
もぉ……。ただでさえも寝不足なのに……。
兄の大人げない態度にうんざりしながら、冷めたスープをすすっていると、自分の方が多かったじゃがいものおかげで、少しだけ機嫌が直ったノエルが話しかけてきた。
「ロラ、おまえの今日の予定は?」
「ばあさまが、薬の調合を手伝ってほしいって言ってたわ」
兄が自分と行動を共にするつもり満々なのが分かったから、とっさに嘘をついた。肉体派の彼は、薬の調合のような繊細な作業には向いていないのだ。
案の定、ノエルはそれを聞くと、心底嫌そうに眉をひそめた。
これで兄さんは、絶対について来ない。だったら……。
「あ、デューにも薬の調合を手伝ってほしいって。薬をすり混ぜるのがすごく上手いって、ばあさまが褒めてたわよ」
「本当? ばあさまの役に立てるのは嬉しいよ」
斜め向かいの席に声を掛けると、問答無用で追加された1個のじゃがいもに苦労していたデューが、嬉しそうに顔を上げた。
ドロテが褒めていたのは本当だが、手伝ってほしいというのは、もちろん嘘だ。もともと、そんな仕事は頼まれていないのだが、曾祖母はきっと話を合わせてくれるだろう。
「えーっ。お姉ちゃん、今日は、お薬のお仕事するのぉ?」
横で話を聞いていたヴィオレットは不満そうだ。薬の調合は人の命にも関わる作業のため、小さな子どもは作業部屋にも入れてもらえないのだ。
「そうよ。だから、ヴィオは母さんと、アンヌ叔母さんのお手伝いをしてあげて。ハーブの植え替えをするって言ってたから」
なだめるように言い聞かせると、ヴィオレットはしぶしぶ了承した。本当は、ロラが頼まれていたのがこの仕事だったから、叔母にも話を合わせてもらうことにする。
よし。これで、誰にも邪魔されずに、デューから昨晩の話が聞ける。
ロラはふふっと笑うと、ヴィオレットの皿の隅に追いやられていたにんじんを、さっと真ん中に戻した。




