あんたたち、覚悟なさいっ!
背の高い針葉樹の間を駆け抜けると、ぽっかりと円形に開けた草地に出た。朝の清浄な空気を少しずつ温める柔らかな日差しが気持ちいい。高い枝でさえずる小鳥達や、若草をそよがせる優しい風が、二人を歓迎してくれていた。
林と草地の境界に茂る灌木には、親指の先ほどの大きさの黄緑、赤、黒の色とりどりの果実がたわわに実っている。土地の人々が『精霊のいちご』と呼んでいる実だ。
「ほら見て。きれいでしょ?」
ロラはつやつやとした丸く赤い実を一粒もぎ取ると、はしゃぎながらついてきたヴィオレットに見せた。続いて、皮がひからびた真っ黒な実を摘んで、同じように見せる。
「今、あたしが取ったみたいな、真っ赤な実と真っ黒な実しか取っちゃダメよ。こうやって、かごの中に分けて入れるのよ」
説明しながら次々と赤と黒の果実を収穫し、真ん中で仕切られたかごの左右に分けて入れていくと、ヴィオレットも見よう見まねで実を摘み始めた。
「お姉ちゃん、これは取ってもいい?」
「うん、大丈夫」
背中を並べて仲良く果実を摘んでいる二人は、まるで年の離れた仲の良い姉妹のようだ。しかし、ロラは「お姉ちゃん」と呼ばれていても血の繋がりはなく、その証拠に容姿は全く違っていた。
十七歳のロラの背中に緩やかに波打つ長い髪は、赤い精霊のいちごに負けないほどの鮮やかな色だ。真剣に果実を吟味している瞳は、明るいグレー。立ち上がるとひょろりと背が高く、年頃の娘にしては女らしさに欠けているが、くったくのない笑顔が印象的だ。
一方、七歳のヴィオレットは肩までの長さの金色の巻き毛に、ヘーゼルの瞳。ふっくらとした頬には笑うと小さなえくぼができる、愛らしい少女だった。
「お姉ちゃん、これって食べられるの?」
「食べられるよ。でも、赤い実は……」
実を摘むのに夢中だったロラが、顔も上げずに答えかけた。
「ぎゃー。苦いっ! ぺっ、ぺっ!」
自分の声を遮るように上がった悲鳴に、ぎょっとして顔を上げると、ヴィオレットが赤い欠片を必死に口から吐き出している。
「ヴィオ! 赤い実、食べちゃったの? 話は最後まで聞いてよ。赤い実はそのままじゃ、食べられないんだから……。ほら、苦かったでしょ?」
慌ててかごの中から黒い実を一粒取り出して、涙目になっているヴィオレットの口に押し込んだ。少女はその実を二、三度噛むと大きな目をまんまるくする。
「わぁ、あまーい。もっとぉ」
甘えるように突き出された小さな口に、次々と黒い実を入れてやる。あたりにふわりと甘い香りが漂い、ロラも我慢しきれなくなって、一粒口に放り込んだ。
「うん、おいしーい! 黒い実がたくさん取れたら、ジャムにしてもらおうね。でも、本当は赤い実の方が大事なのよ。よく効くお薬が作れるから」
「ふうん。あっ! 黒い実、あっちにたくさんあるよ」
ヴィオレットは、もはや黒い実しか眼中になかった。彼女が日当りの良い場所に密集している黒い実を見つけ、嬉しそうに立ち上がったとき、ロラの全身が一瞬で体温を奪われたかのように、ぞくりと冷えた。
え? これ……は。
風の精霊が凍り付いたように動きを止めた。木や草花の精霊たちが怯え、ざわめいている。大地が震える。空気がよどむ。
「ヴィオ、だめよ! 待って!」
ロラは駆け出そうとしていた少女の腕をとっさに掴んで引き寄せ、小さな身体を護るように抱きしめた。
「どうしたの、お姉ちゃん? ……あ、もしかして、お化け?」
「しーっ。じっとしてて」
少女を抱きしめながら、目を閉じて、神経を研ぎすませると、立ち並ぶ木々の向こうを疾走していく、禍々しい存在を感じ取った。
それはかつて、人であったもの——。
「ヴィオ、ここでじっとしていて。あたしがいいというまで、この円から出ちゃダメよ」
ロラは少女を取り囲むように、草の上に赤い精霊のいちごをぐるりと置いて、簡単な呪文を唱えた。これは、悪しきものが近づけないようにする結界だ。
「すぐに戻るから、いい子にしててね!」
そう言い聞かせると、ロラは濃い緑のドレスの裾をなびかせて駆け出した。
先ほど感じ取ったぞっとする気配は、林の奥に移動した後、その場に留まっている。
息を切らせながら、相手の姿が目視できる距離まで近づくと、ロラはその凄まじい光景に絶句した。
複数……十体近くの悪霊が、何かを奪い合うように争っている。
どろどろに腐り落ちた古の悪霊から、生前の姿を残した最近の亡霊、動物の霊。たった一体でも、人間に悪影響を及ぼすほどの凶悪な霊ばかりだ。それらが、自分以外を排除しようと激しく攻撃し合い、大きな力の塊となっていた。
「どうして、こんなにたくさん集まってるの? しかも、どの霊体も強い……」
顔をしかめながら、ゆっくりと近づいていくと、おぞましい力の集合体の中の数体が脅威を感じ取ったらしく、びくりと身体を震わせた。
ぐにゃりと力の均衡が崩れたと思った次の瞬間、骨がむき出しになった手や、目に見ない力の触手が数本、襲いかかってきた。
「汚い手で、触らないで!」
ぴしりと腕を払うと、悪霊たちは驚いたように力を引っ込めた。その気配で、他の悪霊達もロラの存在に気付き、巨大な力の塊の中の意識が、すべて一点に注がれる。
突き刺すような強烈な悪意。行き場を失った恨み。救われることのない絶望。生ある者への羨望。ありとあらゆる負の感情が、どっと押し寄せてくる。並の人間なら、一瞬で気が狂うほどの凄まじさだ。
しかし、ロラは全く動じない。相手を威嚇するように睨みつけ、ゆっくりと間を詰めていく。
一歩一歩近づくにつれ、いくつかの霊体が、怯えた様子を見せ始めた。しかし。
変ね。誰一人逃げようとしない……。
普通なら、力の弱い悪霊はここで逃げ出すはずだ。しかし、彼らはその場から離れようとしない。まるで、その場に捕われているかのように——。
「そこに、何があるの?」
悪霊たちをその場に縫い止めているものの正体を確かめるために、目力で相手を圧倒しながら、慎重に前に進む。
そして、はっと息を飲んだ。
怖れと怒りが入り交じり恐慌状態となった悪霊たちの下に、何かが横たわっている。
目を凝らしてみると、ところどころ血の滲んだ白いシャツを身につけた、銀色の髪の男が、土の上にうつぶせに倒れていた。
「なっ! ……まさか」
その人に、全ての悪霊が取り憑いている?
ロラは目の前の信じられない光景に、呆然となった。
その一瞬の隙をついて、凄まじい勢いで悪霊達が襲いかかってきた。何本も伸びてくる手を、慌てて振り払う。しかし、反応が遅れたせいで、その一本が首にかかった。
「ぐ……」
腐肉がわずかに残る骸骨の手が喉に食い込み、息が詰まる。
敵が怯んだ絶好の機会を逃すまいと、悪霊達の手が次々に伸びてきた。
「そ……んな、手……で、あたし、に、触るん……じゃないわよ!」
そう叫んで、首にかかった悪霊の手首を掴み、力ずくで引きはがした。骸骨の手は力を失くし、ロラの手の中でぼろりと崩れて消え失せる。それを見た他の悪霊たちが、慌てて退却した。
「もぉ! あったまきた! あんたたち、覚悟なさいっ!」
ロラはさっきまで骸骨の手首を掴んでいた右手を、そのまま天に高く突き上げた。
「光よ、風よ、大地よ、大樹の精霊達よ。我に力を分け与えよ!」
呼び声に応えるように、密集した木葉の間から眩しい光が差し込み、それまで怯えていた風が、ロラの周囲で渦になった。地下深くからわき上がってくる大地の力が、鼓動を刻む。周囲を取り囲む大樹たちが枝葉を振るわせ、高く強固な結界を張り巡らせる。
ロラはにやりと不敵に笑うと、右手を悪霊達の塊に向けた。
「永遠の闇を彷徨うこの世ならぬ者。悲しみと苦しみの鎖に絡めとられし、哀れなる者……」
悪霊達がうめき声を上げ始めた。
光の精霊はその輝きで邪な力を溶かし、大地の精霊は突き上げる力で威嚇する。大樹の精霊達は、結界の輪をじりじりと狭めていく。
窮地に追い込まれた悪霊達が、憎悪をむき出しにして襲いかかってきた。しかし、ロラを中心に渦巻く風の精霊が、それを阻む。
「……光よ、神聖なる光の煌めきよ、我が手に宿れ。邪悪を貫く浄化の矢となり汝を射抜き、歪められし魂を解き放たん!」
ロラが呪文の最後の言葉を叫ぶと、掲げた右手が強い光を放った。
もがき苦しむ悪霊達の醜悪な姿が神々しいまでの光に照らし出されると、生前の人影が地面に落ちた。耳をつんざく、たくさんの断末魔が上がる。次の瞬間、悪霊であったものはざらりと崩れ落ち、黒い霧となって消えていった。
辺りが安堵と喜びの気に満ちる。太陽の光は柔らかに差し込み、爽やかな風が、木の葉をさらさらと揺すっていく。
ロラはふうと一息つくと、額の汗を拭った。そして、少し先の地面に視線を落とすと、眉をひそめた。脅威は去ったが、まだ問題は残っているのだ。
「そこの人、大丈夫?」
ロラは声をかけながら、慎重に地面に横たわる男に近づいていった。
さっきまで悪霊が取り憑いていたのだから、死んではいないはずだ。しかし、強力な悪霊が十体近くも取り憑いていたことを考えると、正常な状態ではない可能性が高い。意識を取り戻すと同時に、我を忘れて襲いかかってくるかもしれない。
「ねえ、大丈夫?」
男の傍らに膝をつくと、彼の両肩に手をかけて身体を揺すってみた。手には温もりが伝わってきたが、全く反応がなかった。
男の白いシャツは所々破れ、血がにじんでいるが、それほど深い傷ではなさそうだ。両手首には、縛られたような紫色の痣がぐるりと取り囲んでいる。黒のズボンからのぞく足首にも、同様の紫色の痣。なぜか靴を履いておらず裸足だったが、足の裏は汚れておらず、傷もない。
「この怪我は、さっきの悪霊達とは無関係よね。自力で逃げてきたって訳じゃなさそう……。暴行を受けて気を失った後、ここまで運ばれて捨てられたってところかしら」
ロラは男の状態を背中から一通り確認すると、衝撃を与えないように慎重に、彼を仰向きにした。顔をのぞき込んで、思わず息を飲む。
「う……わ。きれいな人」
苦しげに寄せられた眉は凛々しく、瞳を隠す瞼には銀色の長い睫毛。すっと高い鼻筋。歯を食いしばっているためか、唇は固く結ばれている。辛そうに歪められているが、恐ろしいほどに整った顔立ちだった。
「こんなに素敵な人が、どうしてこんな目に遭っちゃったのかしら……」
男の身につけている衣服はさらりと手触りがよく、かなり上質なものに思える。顔や腕は日に焼けておらず、手にはマメなどができていないから、労働者階級の男ではなさそうだ。裕福な商人か貴族の息子なのかもしれない。そう考えると、なんらかの陰謀に巻き込まれることもあり得る話だ。
ロラは、彼の顔にかかる銀色の髪をそっと払うと、額に手を置いた。
「神聖なる天の光よ。大いなる大地の脈動よ。その尊き力の欠片を、このささやかなる手に分け与えたまえ」
一族に古くから伝わる癒しの呪文を、心を込めて三回となえた。それから立ち上がると、別の呪文を唱えながら、周囲の木に順番に触れていく。ロラの歩みが円を描き終えたとき、青年を護る大樹の精霊の結界が出来上がった。
「よしっ。これで、別の悪霊が襲ってきても大丈夫。急いで助けを呼んでこないと……」
ロラはその場に男を残し、ヴィオレットの待つ草地に駆け戻った。