ランオ平原会戦
シャマタル首都。
イムレッヤ帝国軍のザーンラープ街道侵攻の報は首都、ハイネ・アーレにも届いた。
フェーザ連邦方面に配置されている兵力は少ない。まとまった兵力は第七連隊くらいだった。
「連隊長のローランに伝令を送れ。無暗な戦闘を避け、我らと合流せよ、と」
アレクビューの言葉はアレクビュー軍団が動くと言うことを示していた。
「第七連隊のローランは若いが、逃げることには長けている。敵に追い付かれることは無いじゃろう。問題は合流地点とその後の行動か」
「合流と民衆のことを考えると〝ランオ平原〟が防衛線となるでしょう」
そう言ったのはウィッシャーだった。
ランオ平原を突破されると、多くの街や村が点在する。攻めやすく、守りにくい土地ばかりである。ランオ平原が、イムレッヤ帝国軍の侵攻を防ぐギリギリの地点である。アレクビューがここで敗北すれば、シャマタルの民衆に多大な被害が出る。
「ランオ、か。なんの因果かの。…………出立の準備をせい。帝国の若造を叩きに行くぞ!」
軍議の最後にアレクビューは、皆を鼓舞した。
アレクビューも出立の準備に取りかかる。
「忙しいところ、申し訳ありません」
フェローがアレクビューを訪ねた。
「私はあなたに直接指揮を許可した覚えはありません」
「フェロー、確かにまだ許可をもらっていなかったな。では、今もらおうか?」
「なりません。総帥閣下にはここハイネ・アーレで後方から指揮を取ってもらいます。私は断じて出撃を許可致しません」
フェローは頑なだった。
「ワシは軍人だ。だから、政治は分からんし、関わろうとせんかった。そして、ワシは鉄の誓いを立てた。それは軍人であるワシがシャマタルの頂点には立たぬ、という誓いじゃ。どう言っても軍は人を殺す集団、最悪の暴力集団だ。その長たるワシが国の頂点にいれば、シャマタルは軍国となっていただろう。シャマタル独立同盟の兵士は侵略の兵士では無く、自衛の兵士だと思っておる。ハイネもそれを望んでおった。だから、軍は政府の一機関でなければいけない。政府の下に軍があり、元首の命令無くして、動いてはならぬと考えておる」
「なら、私の許可無く出撃などあり得ません。アレクビュー様、自身の体の状態をお考えください! あなたも人間なのです。そのような体で戦場に立てば…………」
「これが最後の戦いやもしれぬな」
「アレクビュー様はシャマタルの精神的支柱なのです」
「そのワシが今出ていかんでいつ出る?」
「そ、それは…………」
「多くの者を死なせた。それが今更、ベッドの上で死のうとは思わん。戦場で死ぬのはワシの本懐だ。それに心配せずとも新しい支柱はある」
「クラナですか?」
「あの子がいなければ、今回もワシは首都に残ったやもしれん。じゃが、今のクラナ、それにあの子を支える者たちがいれば、ワシがいなくても大丈夫だ。元首殿、出撃の許可を頂こうか? 今回に限れば、無くてもワシは出撃するがの」
「なら、私の言葉になど意味はありません」
「意味ならある。ワシが命令を無視して出撃したか、命令通りの出撃をしたかで兵士の印象は多少なり違うであろう」
フェローは沈黙し、大きなため息をついた。
「恩人であり、伯父であり、英雄であるアレクビュー様の歴史にこれ以上の汚点を残させるわけには行きませんね。元首として、正式に残存兵力全てをランオ平原に集結させることを許可します」
「感謝する」
アレクビューは頭を下げた。
状況は極めて不利である。にもかかわらず、逃亡者が出ない。士気も高い。これはアレクビューの人望が成せることである。アレクビューは英雄。シャマタルという大樹の、幹である。幹が健在なら、大樹は倒れない。――――倒れなかった。
アレクビュー軍団はランオ平原で第七連隊と合流した。総兵力二万五千余。ファイーズ要塞駐留軍を除けば、ここに集結したのがシャマタル独立同盟軍の正規兵のほぼ全軍だった。
「お久しぶりです。アレクビュー総帥。ファイーズ要塞方面はずいぶんと面白いことになっていたようですね」
ローランは少年のように笑った。歳は今年で二六歳、十連隊長の中で圧倒的に若かった。もしシャマタル独立同盟がこのまま存続していれば、後々は全軍の総帥になるであろう。そう言われるほど武才に富んでいた。
「面白そうか…………半世紀前のワシならお前と同じ言葉を言ったかも知れん。だが、今のワシにはただの脅威にしか思えん」
アレクビューは自嘲気味に笑った。
「そんなことを言っていてはクラナに笑われますよ。ここで勝って、クラナに会いに行きましょう。私はもう三年も会っていませんが、美しくなったでしょう。何しろ、あのカリンさんの娘ですから。今回の戦勝の報酬は私とお嬢様を一晩一緒にして頂くと言うのはいかがでしょう?」
ローランが言った瞬間、アレクビューは矛をローランの肩口で寸止めした。
「おっと、思わず…………」
「思わずじゃねぇ! このくそじじい!!」
ローランは涙目で抗議する。
「やかましい! クソガキが!」
「なんだと!」
「まったく少しは成長したと思っとたが、変わらんの」
アレクビューは笑った。
「じいさんこそ、顔の割には元気そうで良かったぜ。そういえば、泣き虫姫が来たらしいじゃないか?」
「泣き虫姫? ああ、ユリアーナ殿か。訪ねて来たの。本人が希望したんで今はファイーズ要塞におるがの」
「いい女になってたか?」
「半世紀前のワシなら手を出していたほどには成長していたの」
「なるほど極上ということか。会うのが楽しみだ」
かつて、フィラックはローランのことを次のように評した。用兵はエルメック殿と重なるところあり、性格はアレクビュー様に重なるところあり、と。
「総帥殿、連隊長殿。そろそろ軍議を始めたいのですが」
ウッシャーは苦笑いしながら、二人に話しかけた。
「イムレッヤ帝国軍は、八万の大軍でございます」
参謀長のウィッシャーが言う。
「イムニアの直属兵力と麾下の将軍の兵力はどうなっておる?」
「直属、ジーラー・ミュラハール・カタインの三将軍それぞれ一万前後の兵力を有しております」
「イムニアか。ワシがあと二十歳若ければ、面白い奴に出会えたとうれしがっていたであろうな――――だが、今日の状況では脅威にしか思えん。ワシも老いたということじゃな」
アレクビューは自嘲する。
「しかし、イムニアは堂々としておりますね。自らが戦闘の最前線に立つとは」
ローランが言う。
「そういうものじゃから、あれだけの将が集まるのじゃろうな。エルメックが傘下には入った時など、ワシでも驚いたわい。こちらはまず、敵の中央を突破し、左右どちらかに回り込み、各個撃破するしか手は無いだろう。イムニアもそうじゃが、ジーラー軍団にも警戒が必要じゃな」
オロッツェ会戦でシャマタル独立同盟軍を壊滅させたのは、リユベック騎兵軍団である。アレクビューもそれは重々承知していた。
「皇帝軍の方は?」
「そっちは勝ちが決まるまで動かんよ。でなければ、先鋒をイムニアへ譲ったりせん」
一方、イムレッヤ帝国軍の統帥、イムニアは自軍の最前列にいた。そこでシャマタル独立同盟軍の動向を確認していた。
「イムニア様、危ないです。お下がりください」
銀髪碧眼の青年が言う。イムニアの右腕、最年少の大将軍、リユベックである。
「心配するな。まだ戦闘は始まらん。そんなことよりシャマタル独立同盟軍の陣形を見よ。アレクビュー殿は中央突破を行う構えだ」
「兵力で圧倒的に劣る以上、そうせざる負えないのでしょう。万が一、我らが敗退すれば、戦を知らない皇帝陛下の近臣ばかり、我々は歴史に汚名を残すことなりましょう」
「ああ、そうだな。そもそも私は、あのような愚者を皇帝と崇め、頭を下げなければならない、このことだけで、自らが情けない。いつか必ず……」
「声が少しばかり大きいです」
リユベックに指摘されると、イムニアは言葉を続けなかった。代わりに、
「中央軍など数に含めておらん。で、万が一、それが起きることはあるか?」
と尋ねる。
「善処いたします」
リユベックは即答した。イムニアは満足そうに笑う。
「リユベック、私はこの戦争に反対だった」
イムニアは真剣な顔になった。
「不公平な境遇に不満を募らせ、蜂起した民衆と、それを先導したアレクビュー殿。悪は私たちだ」
リユベックは何も言わない。
「だが、今は全力でシャマタルに勝とうと思っている。英雄アレクビューと戦えるのだ。これは武人として心躍る」
救いがたい性分だな、とイムニアは付け加えた。
老いた英雄と若き英雄の戦いが始まったのは、曇天の朝だった。アレクビューは当初の予定通り、中央突破、各個撃破を図る。
両軍は正面からぶつかり合った。序盤、アレクビュー軍団の猛攻に、イムニア軍団は劣勢に立たされる。
イムニアはアレクビューが中央突破を選択すると分かっていた。そのため、イムニアは十五段に及ぶ、防御陣を構築した。すでにその半数が突破されている。
「閣下、万が一がございます。念のため、本陣を退いては如何ですか?」
参謀の一人が進言した。
「不要だ。私は前線に立つことで今まで、自らのあり方を決めてきた。ここで退いては勝ってもアレクビューから逃げたと冷笑を受けるだろう。それにもうすぐ戦況は変わる」
イムニアの言った通りだった。
ミュラハール、カタインの両軍団が来援したことで戦況は忽ち逆転した。並の指揮官なら、半包囲の危険を察し、後退していたであろう。アレクビューは違った。イムニア軍団への攻勢を強めたのだ。
「いかん。イムニア様を御守りする!」
これに対し、ミュラハールは、イムニアを守るために半包囲体勢を解き、アレクビュー軍団とイムニア軍団の間に割って入る。
これにより、半包囲体勢は崩れ去ったが、イムニアはミュラハールを非難することはできなかった。もし、ミュラハールが救援せず、アレクビューに、イムニアと心中する意思があれば、それが達せられた可能性は十分にあったからだ。
実際のところ、アレクビューにそのような意思はなかった。そのような姿勢を見せることで半包囲体勢に亀裂を生じさせるのが目的で、それは目論見通りなったのだ。
半日が過ぎた。シャマタル独立同盟は善戦している。
しかし、それはほぼ全軍を投じての結果である。
イムレッヤ帝国軍は、イムニアの切り札、リユベック軍団を温存したばかりか、まだ後軍に四万の皇帝軍が待っている。アレクビューはその存在を軽視し、イムニアは「数に入れていない」などと言っていたが、シャマタル独立同盟軍の兵士にとっては無視できない兵力である。
アレクビューが体勢を立て直すために攻勢を緩める。
「あら、休憩かしら? なら、前に出るわよ」
兵力を温存していたカタイン軍団がシャマタル同盟軍左翼、第七連隊を強襲する。
「ちっ、元気なのが出てきたな。こっちは朝から戦いっぱなしだってのに…………しょうがない。今、あの集団と正面からやりあったら、被害が増すだけだ。一度、こちらを突破させ、イムニアとの連携を分断する。うまく負けた振りをしろよ!」
ローランをそう言って、カタイン軍団を誘い込んだ。
カタイン軍団はシャマタル独立同盟軍の左翼の分断し、大きく攻め込んだ。
「妙ね。いくら疲れているといっても抵抗が少なすぎるわ。これはちょっと甘く見たかしら」
カタインの予感は当たった。突破したはずの第七連隊は再集結を果たし、カタイン軍団の退路を遮断する。
「あらら、第七連隊の坊やは中々巧みね。酷い宴会に誘い込まれたわ。私たちはこのまま前進して、一旦戦場を離脱するわよ」
カタインの判断は正しかった。脱出に成功する。
「ちっ、女傑カタインには振られたか。しかし、これで…………」
カタイン軍団が戦場を離脱したことで一時的にシャマタル独立同盟軍の兵力がイムレッヤ帝国軍を上回った。
ここが勝負どころと判断したアレクビューは総攻撃に出た。
「踏み止まれ! なんとしてもフォデュース様の元へ敵を近づけるな!」
イムニアとシャマタル独立同盟軍の間に割って入ったミュラハールは檄を飛ばした。
「右翼より新たな敵!」
それは攻勢に転じた第七連隊だった。ローランはカタインを追撃せず、中央に雪崩れ込んだ。結果的にカタイン軍団に側面攻撃の好機を与えてしまうのだが、カタインがすぐに攻勢に出ることができないと判断しての大胆な戦術だった。
「行かせるか! 二個大隊を迎撃に向かわせろ!」
「しかし、ミュラハール様、全体の三割も割いてはこちらが…………」
「分かっている! 分かっているが…………」
直後だった。シャマタル独立同盟軍本隊がミュラハール軍団に苛烈な一点突破を敢行する。
「アレクビュー様、味方の後続が遅れております。このままでは分断されますぞ」
「構わん。狙うは敵の大将、フォデュースのみじゃ。全軍前進!」
アレクビューは敵の防衛線が構築される前に本陣まで到達するつもり。帝国軍の兵士はそう思った。それは玉砕に近い作戦だった。
イムニアは落胆していた。アレクビューが自暴自棄になり、無策に突進してくると判断したからだ。「つまらん」とイムニアは呟く。
「もしもの時の為に取っておいたが、老いた英雄に引導を渡してやるか。リユベックに連絡しろ。急進し、突撃してくるアレクビューを撃滅しろ、と」
リユベック軍団が動いたことでイムレッヤ帝国軍全体が攻勢へと転換する。イムニアも自軍の半数を戦場へと投入していた。
大軍の前にアレクビューの動きは止まった。イムレッヤ帝国の誰もが勝利を確信する。
その直後だった。
「リユベックの騎兵をこちらに回したな」
アレクビューは笑った。
今度はイムニア軍団の後背が騒がしくなる。
「い、一大事でございます…………」
それだけ言うと、報告の途中で兵士は絶命してしまった。
イムニアは、次の報告を受けるより早く自らの目で何が起きたか理解した。
「フ、フハハハハハハハハハ!」
イムニアは気が振れたように笑った。
「こうだ、こうでなくてはつまらん! 英雄は耄碌などしていなかったのだな! 背後に現れた敵は、私が直接指揮する近衛隊で足止めする。他の隊は各指揮官の指揮の元、アレクビュー本隊を包囲し、殲滅しろ。ミュラハールとカタインに連絡。予備兵力から騎馬隊をこちらへ回せ。背後に現れた敵は少数だ。これで十分だろう」
窮地に立たされたイムニアは焦るどころか、笑っていた。
アレクビューは近衛隊をイムニアの背後に回していた。規模は一個大隊。この一個大隊でイムニアの本陣を奇襲する。邪道ではあるが、この兵力差で勝つためにはこれしかない。被害は甚大である。それが現実困難な策であることは分かっていた。大博打だった。
「敵を討つ好機は今ぞ。全騎突撃!」
カーゼは先頭切り、イムニア軍団へ切り込んでいく。
「これ以上敵の侵入を許すな! イムニア様を御守りしろ!」
イムニアの近衛兵が、カーゼ隊の突進の前に立ちはだかった。
「敵はそんなに多くない。ここは突破だ!」
ランオ平原会戦は、完全な混戦状態に陥った。
イムニアの臣下が離脱を進言したが、「不要だ」と一蹴した。
「私は勝つのだ。勝者が戦場を離れる理由など、どこにもありはしない」
イムニア自身も剣を振るった。
「カーゼ様、両翼より新たの敵です」
近衛隊の突破まであと少しと言う所でイムニアの元へ救援が到着した。
足を止められてしまう。
全体ではイムレッヤ帝国軍が優勢であるし、意表を突いたカーゼ隊も徐々に勢いを削がれていく。包囲され、徐々にその数を減らしていく。
アレクビューは陣頭に立ち、果敢に槍を振るうが、包囲され、攻勢も防衛も困難になりつつあった。中央へ進出していた第七連隊も態勢を立て直したカタイン軍団に側面を襲われ、完全に足が止まってしまった。兵力は各所に分散し、次々に各個撃破されていく。
「全軍、奮戦しておりますが、もはや…………」
ウッシャーは最後まで言わなかった。
「イムニアには届かんか。…………どうやら負けのようじゃな」
アレクビューは呟いた。
「どうやら勝ったな」
同じ頃、イムニアは勝ちを確信した。
シャマタル独立同盟軍は崩壊した。
シャマタル独立同盟軍は敗北した。
勝敗が決した以上、敗軍の将がやるべきことは、一人でも多くの兵士を生還させることである。
「じいさん、こりゃひどい有様だ」
カタインの猛攻を振り切ったローランがアレクビューに合流する。ローランは副連隊長が戦死したことなど、第七連隊の状況を説明した。
「負けじゃな。お主、逃げ脚には自身があるであろう?」
「ええ、まぁ」
「命令じゃ、残存兵力を糾合しながら、退却するのじゃ」
「じいさんは?」
「敗戦の責任を取られねばなるまい。ワシの指揮の元、多くのものを死なせた」
「なるほど、なら殿は任せるぜ。首都で先に待っている。復讐戦をしないとだからな」
ローランは笑った。
死ぬなよ、と目で訴える。
「そうだな。また会おう」
アレクビューは全軍に戦場からの離脱を許可した上で、自らは戦場に残った。
しかし、半数ほどがそのまま戦場に残り続ける。
「馬鹿者共……」
アレクビューは呟いた。
戦場で今まさに雌雄が決しようとしている頃、異変が起こった。
「軍勢がこちらへ向かってきます」
一人の兵士が報告する。
「皇帝陛下の軍勢か? 意図を確認せよ」
上官は事務的にそう命令した。
直後、接近してきた軍勢から無数の矢が放たれた。
「て、敵襲だ! 新たな敵が来襲!!」
「これは過重労働だね」
やれやれ、とリョウはため息を突く。
「クラナ、ごめんよ。あとほんの少し早くつけていれば、こんなことにはならなかったのに」
ルピンの報告と戦場にあり様を見て、リョウは決戦に間に合わなかったのだと思い知る。
「いえ、リョウさんのせいではありません。リョウさんはいつも最善の策を考えてくれます」
クラナの言葉には、リョウに対する思いやりと信頼が含まれていた。
「グリフィード、白獅子隊の出番だよ。敵を撹乱する。フィラックさんは敵の注意が白獅子隊に集まっている内に味方をかき集めてください。ルピンはクラナと一緒にクラナの祖父さんに合流してくれ。そして、撤退するんだ」
撤退か、とフィラックが問う。
「撤退です。意表を突いた僕らは、一時的になら有利になるだろうけど、すぐに数の不利が出ます。とにかく今は死地を抜け出すことが先決です」
リョウの指示の元、各々が行動に移る。
「で、お前はどうするんだ?」
グリフィードが、リョウに聞く。
「フィラックさんと行くよ。なるべく戦況が見えるところにいたいからね。フィラックさん、大丈夫ですか?」
フィラックは「問題ない」と答える。
「あ、あのリョウさん……」
クラナは言葉に詰まる。
『一緒に来ていただけませんか?』
その一言が言えなかった。
「どうしました、ネジエニグ嬢? 今は一刻を争います。行きますよ」
ルピンが言った。自身は自然に言ったつもりだったが、リョウたちは違和感を覚えた。気付かなかったのは、クラナだけだった。
「グリフィードさん、どうしましたか?」
「いいや、今はよそう。この戦場から抜けたら、話すとするか」
ルピンは、珍しく嫌そうな顔をする。
「ああ、努力するよ。それじゃ、各自作戦開始だ」
「さて、ネジエニグ嬢、私はあなたに運んでもらいましょうか」
ルピンは、クラナの助けを借りて、彼女の馬に乗る。ルピンは小声で「リョウさんじゃなくてごめんなさいね」と囁いた。クラナの耳が真っ赤になる。
兵士は真っ青になって報告した。
「敵の増援か?」
イムニアは楽しげに笑った。
「シャマタルにあれほど大規模な別働隊が残っているとは思えない。あれは恐らくファイーズ要塞軍だろうな。だが、そうなるとファイーズ要塞は空か? 民衆を捨て、ここへ来たのか…………?」
イムニアは右の人差し指を噛みながら考える。
「用心に越したことはない。全軍に戦闘の中止と軍団の再編をさせろ。その上で追撃を行う」
イムニアの命令で戦闘は収束し、アレクビューは窮地を脱した。
その間にクラナとアレクビューの合流が叶う。
「おじい様! ご無事でしたか!?」
「まさか、お前に救われるとはの。…………ワシも老いた。多くの者を死なせてしまった」
クラナには、大きな祖父が小さく見えた。
「ネジエニグ嬢、今はあなたのやるべきことをやる時ですよ」
「そうですね。おじい様、脱出を。この戦場からの離脱を決断してください」
「何を馬鹿なことを! 敵は混乱している。決戦をいどむべきだ!」
兵士の一人が言う。
「リョウさんが、撤退すべきだと言っていました。私はその言葉を信じます!」
「確か、お前の手紙に書いてあったファイーズ要塞防衛の功労者じゃな。ワシも一度あっておる。屋敷でじゃ。白髪の青年が目立つんであまり印象に残っておらんが、あの者をお前は信頼しておるのじゃな」
「はい、信頼しております。リョウさんがいなければ、ファイーズ要塞は落ちておりました。それにイムレッヤ帝国のザーンラープ街道通過を見抜いたのも、このランオ平原に向かう決断をしたのもリョウさんでした。本当は、私は何もやっていないのです。私がやったことになっているほとんどのことはリョウさんがやったことなのです! そのリョウさんが撤退を判断したのです。私はリョウさんを全面的に支持します。どうか撤退を決断してください」
祖父と孫娘の目が合う。その時間は一瞬だった。
アレクビューは一瞬で判断を下した。
「ワシはリョウという青年がどんな者かしらん。しかし、お前のことは知っている。お前が支持するリョウ青年をワシも支持しよう。撤退じゃ、全軍速やかに準備せい」
白獅子隊は戦場を引っ掻き回した。イムレッヤ帝国軍の兵力の薄いところを正確に突き、損害を与えていく。イムレッヤ帝国の動きが鈍くなった隙にフィラックは孤立した味方を救い出す。
「フィラック様! 増援感謝致します!」
近衛隊長のカーゼと合流が叶った時、カーゼはフィラックの手を取り、礼を言った。
「カーゼ殿、安心するのはまだ早い。お前たちも早く撤退するのだ。戦況はすぐにまたイムレッヤ帝国有利に傾くだろう」
多勢に無勢。このような状況で小さな戦術、個人の武勇などほとんど意味がなかった。それでも注目が集まり、味方の撤退の時間を稼ぐことには成功する。
リョウはシャマタル独立同盟軍の本隊が撤退するのを確認した。
フィラック連隊と白獅子隊以外のほとんどは戦場からの退却した。
すでにシャマタル独立同盟で戦闘を行っているのは、フィラック連隊と白獅子隊だけだった。
白獅子隊が、フィラック連隊に合流する。
「リョウ、いつ退くのよ」
「もう少し、もう少しで、味方は安全圏まで撤退できる」
シャマタル独立同盟軍の撤退は見事だった。あっという間に死地を脱してしまった。
さすが英雄と呼ばれる人物だ、とリョウは感心した。
「報告! 敵の一個軍団が我らの後背に回り込みました。退路が遮断されます!」
「何だって? 早すぎる! どこの軍団だい?」
リョウは珍しく焦った。それだけ異常な速度で、背後に回り込まれてしまった。
「ジーラーです。イムニアの最精鋭騎兵軍団です!」
「あれが噂のイムニアの右腕かい? 指示があってからの動きじゃ無いね。ジーラーは自ら判断し、僕らの退路を断ったのか!?」
リョウは自らの判断に誤りがあったと認めるしか無かった。
「報告します。フィラック殿ら部隊が敵の包囲を受けております!」
兵士の言葉に、いち早く反応したのはルピンだった。ルピンは戦場の各所に通信兵を配置し、戦況の把握に努めていた。その報告も同様で「脱出は絶望的」というものだった。
ルピンは頭が真っ白になった。リョウなら、グリフィードなら大丈夫。何処でそんな根拠のない安心をしていた自分に気付く。
「リョウさんたちを救援に行きます」
そう言ったのはルピンではない。
クラナが即決した。
「待ってください、ネジエニグ嬢。今から言っても間に合いません。仮に間に合ったとしても多勢に無勢、ネジエニグ嬢には、活路が見えますか?」
ルピンは、冷静な口調だった。いつも通りの幼い顔に不釣り合いな冷静な口調。
眼は少しだけ赤かった。クラナは、それに気が付かない。
「活路は……ありません。しかし、このままリョウさんたちを見殺しするなど……」
「見殺しするも何も私たちに出来ることは、何もないんです」
ルピンは、微かに声が震えた。
「さぁ私たちはやるべきことをやりますよ。幸い、敵の注目は白獅子隊に集まっています。追撃もありませんし、このままで安全圏まで撤退しますよ」
「ルピンさん!」
クラナは怒鳴った。
「リョウさんたちは、あなたの仲間じゃないんですか! 掛け替えのない、大切な仲間じゃないんですか!」
「だからと言って激情で動いていい理由にはなりません」
私は冷静、と自分に言い聞かせるルピン。
「そうですか、そうですよね、さすがルピンさん、正しい道を簡単に選択できる!」
禁句だった。
「私が仲間の死ぬところを平気で見ていられると思いますか!」
今度はルピンが怒鳴った。クラナの沸騰していた感情が冷める。
「私はこの戦争に参加するのに反対でした。初めから反対していました。リョウさんを、仲間を失いたくないからです。シャマタルに来てからも、どうにかしてこの戦争から抜け出せないか考えていました。あなたが悪いのです、ネジエニグ嬢!」
「わ、私ですか?」
「ええ、あなたが暗愚なら、人でなしなら、リョウさんたちを言いくるめて戦争から抜け出せました。それなのにあなたは必死に生きようとする。この理不尽な世界を受け入れる。リョウさんはそんな人を見捨てることができる人じゃありません。それともその性格は演技ですか? リョウさんの性格を見越しての。なら、あなたは恐ろしい方ですね。後世に梟雄として名を残せますよ!」
「…………ルピンさんになんと思われようと構わない。私はリョウさんを救援に向かいます」
「ですから無駄だと……」
「方法はあります!」
クラナの眼には決意、覚悟が宿っていた。
「私が囮になればいいのです。おじい様の、英雄の孫娘である私が。ファイーズ要塞の戦いで私は活躍したことにもなっています。敵も知っているでしょう。そんな私が前線に出れば、敵の眼は私に向けられるでしょう。その隙にリョウさんなら、フィラックやグリフィードさんもいます。必ず死地を脱出出来るはずです」
「ネジエニグ嬢、あなたは間違いなく死にますよ」
「構いません。ルピンさん、私が死んだら、どんな手を使ってもいいです。リョウさんを戦争から抜けさせてください」
「あなたは死に、シャマタルは滅ぶ。それでいいのですか?」
「構いません!」
クラナに迷いはなかった。
アレクビューはこのやりとりを黙って見ていた。クラナの発言は、軍を預かる者としては決して許されるものではない。それでもアレクビューは自身の孫娘が凛々しく自分の意見を言う姿を見て安心した。自分を見つけることが出来たのだと、分かったからである。
ルピンはさすがに認めるしかなかった。クラナがリョウのことを本気で好き、という事実を。リョウの為なら全てを放棄できる、という覚悟を。
「この戦場を生き延びたからといってどうなりますか? 勝ち目はありません。どうせ死ぬなら、好きになった方のために死にたい。たとえ、それが片思いでもリョウさんのためになるなら――」
パンッ!
ルピンが、クラナの頬を叩いた。
数名の兵士が身を乗り出すが、アレクビューが制止する。
クラナの白い肌が赤く染まる。
「リョウさんは、あなたが好きになった男は、誰かの犠牲の上に平気で立てる人だと思いますか? リョウさんがあなたを犠牲にして生き残ろうとすると思いますか?」
ルピンは穏やかな口調だった。
「絶対にあなたを救おうとするに決まっています。本当の意味で勝ち目のない戦いになると覚悟の上で。リョウさんはあなたや私に戦場を離脱するように言いました。リョウさんが、今を生き残るためだけに、そんなことを言ったとは思えません。リョウさんにはまだ勝算があるのです。シャマタル最後の希望、最後の軍が消失してしまったら、どうすることもできません。私たちはリョウさんが死地を抜け出せると信じて、一兵でも多く戦場から帰還させるべきです。それしか選択肢がないのです」
「ルピンさん……」
「待つことも戦い。生き残ることもなのです」
クラナは少しの時間沈黙した。ルピンの眼が赤いことに、体が震えていることに気が付く。クラナは下唇を噛み締めた。
「…………分かりました」
クラナは振り絞るように言った。
「ハハハ、こいつは参った! どっちを向いても敵ばかりだ!」
「笑っている場合じゃないでしょ! リョウ、何か手はないの!」
ユリアーナが言った。
リョウは精一杯、活路を見出そう苦心する。
しかし、現状、活路はない。
(必ず、必ず生き残る方法はあるはずだ)
リョウは思考の網を巡らす。蜘蛛の糸を手繰り寄せるような気分だった。
幸い、全隊に混乱はない。グリフィード、ユリアーナ、フィラックがうまく抑えている。それもいつまで続くか分からない。
「リョウ、危ない!」
ユリアーナの声で、リョウは背面の敵に気付く。筋肉隆々の大男の剣が、リョウを襲う。リョウに勝ち目はない。
「うちの参謀になにすんのよ!」
リョウと大男の間に、騎馬に乗ったユリアーナが割って入る。大男は構わず、剣を振り下ろした。剣はユリアーナの騎馬の首を切り裂いた。一瞬の悲鳴の後、騎馬は絶命した。
「くっ!」
騎馬が崩れ落ちる寸前、ユリアーナは飛び、大男の首を刎ねた。ユリアーナは態勢を崩し、ドサッ、と重い音と共に右肩から地面に落ちる。
「ユリアーナ、大丈夫かい!」
「…………平気よ」
リョウは活路を見出すのに必死だった。だからユリアーナの返答に間があったことに、まったく気が付かなかった。
「あれは……」
混戦の中、ユリアーナは将軍章の刺繍されたマントを靡かせる指揮官を発見した。
「銀髪……ってことは、あいつがリユベックね」
ルピンが言っていた特徴と一致した。
ユリアーナは敵の騎馬兵に応戦、鎧の隙間から剣を差し込んだ。騎馬兵は絶命する。主を失った騎馬に、ユリアーナは跨った。
「あいつを討てば、敵の勢いは削がれるはず! それどころか、敵の戦線が崩壊する可能性だってあるわ!」
ユリアーナは突進した。
リョウの視線にもそれは映っていたが、敵の攻勢が苛烈を極め、救援には向かえない。
「リョウ、ユリアーナの突進を止めさせろ!」
グリフィードは珍しく焦っていた。
「こっちに余剰戦力ないよ。それにユリアーナなら…………」
「あいつは利き腕をやられている。だから左手に剣を持っているんだ!」
グリフィードの言葉に、リョウはハッとした。
(落馬した時か!)
全てを理解した時には遅かった。
「リユベック将軍とお見受けします!」
「その通りですが、あなたは誰ですか?」
戦場であった敵にかけているとは思えないほど、優しい声だった。
「馬上から失礼します。私はユリアーナ・ゼピュノーラと申します」
「ゼピュノーラ? 確か、数年前に滅んだ国ですね」
「将軍は賢明ですね。それに勇敢です。将軍でありながら、その身を敵の矢先に晒すとは」
「隠れているだけの将軍では、イムニア様の勇名を傷付けますから。どうですか? 降伏して頂けませんか?」
「それはできません。いざ!」
ユリアーナとリユベックは馬上で打ち合った。二人は一度距離を取り、リユベックがユリアーナの右へ回り込む。ユリアーナは咄嗟に右手に剣を持ち替えて変えてしまった。剣がぶつかった時、ユリアーナの剣に力なく、あっさりと弾き飛ばされる。
「気付かれていたの、ですか?」
「申し訳ありませんが、これは戦、卑怯と言われようと勝てる手を使わせて頂きます」
リユベックは穏やかな表情で、優しい声で言った。しかし、その一撃に容赦はなかった。
ユリアーナは、リユベックに一閃され、受け身もとらずに落馬した…………
「ぐっ…………」
「驚きました。咄嗟に急所を外したのですね」
ユリアーナはすぐに立ち上がった。右腕の感覚は無い。リユベックの一撃を受け、左肩からは血が噴き出している。
「投降しなさい。その出血ではいずれ死にます。私は戦えない者を斬りたくない。特に女性はね」
「慈悲感謝します。ですが、捕まるだなんて都合の良いこと私には出来ません」
言うと、ユリアーナは僅かに動く左腕でどうにか短刀を抜き、口に銜えた。
「そうですか。残念です」
リユベックが剣を振り下ろした時だった。
「無粋な真似をして悪いな」
グリフィードが割って入る。
ユリアーナは銜えていた短刀を落とした。
「グリフィード…………」
「いくらお前が頑丈でもそれ以上血を流せば死ぬぞ」
グリフィードはリユベックに向き直った。
両者の一騎打ち。誰もがそう思った。
しかし、その一騎打ちは実現しなかった。
イムレッヤ帝国の中央軍が戦場に乱入してきたのだ。
中央軍乱入一時間前の出来事。
「戦況はフォデュース候優勢とのことです」
兵士の言葉に皇帝は安堵と不満、二つの感情を露わした。
勝てることが分かったが、その功績を全て取られるのが面白くなかった。
「よし決めたぞ。余も戦いに参加しよう」
醜く太った体を椅子から立つと皇帝はそう宣言した。自身は凛々しく、恰好を付けたつもりだったが、その姿はブタが立ちあがったようにしか見えなかった。
「お待ちください、陛下」
皇帝を静止したのは、ウルベルだった。
「なんだ貴様は?」
皇帝は不機嫌になり、その場に緊張が走った。
「勝敗はすでに決したように思えます。この時期に不要な戦力投入は浪費なばかりか、同士打ちの危険さえありましょう。この戦場はフォデュース候に任せ、後の戦いに備えるのが得策であると思われます」
「後の戦いだと?」
「そうです。アレクビューが戦死すれば、シャマタル独立同盟は柱を失うでしょう。それでも個々に抵抗があるやもしれません。それを皇帝陛下が討ち取ればよろしいのでは」
ウルベルは淡々と無感情に言葉を並べる。そして、その提案はある意味で正しかった。
しかし、高慢で尊大な皇帝にとっては堪え難いものだった。
「貴様は余に残飯を漁るが如き真似をさせるつもりか!」
皇帝は顔を真っ赤にした。
「ですが…………」
「ええい、お前のようなもの顔は見たくない! 下がれ」
「……………………」
ウルベルは一礼すると御前から身を引いた。
「あれが人の上に立つ者の姿か。この国は腐っている。いや、腐っているのはこの大陸か」
ウルベルは半分口の中で呟いた。
かくして、皇帝を静止するものはいなくなり、皇帝軍は無秩序に雪崩れ込んだ。
「皇帝の阿呆は何をやっている!」
イムニアは悪態をつく。
中央軍が割り込んだことで、隙が出来る。
「どうやら運が味方したようだな」
グリフィードは笑った。
「そのようですね」
リユベックは苦笑する。
「次に会う時は決着を付けよう。こいつの仇も討たないといけないからな」
グリフィードはユリアーナを抱きかかえた。
「私は…………まだ死んじゃ…………いないわよ」
「もうしゃべるな。頼むから戦場を脱出するまで持ってくれよ。全隊、敵の新手を突破し、戦場を離脱する! 付いて来いよ!」
白獅子隊は敵陣を突破する。
「活路が出来たね。今回は本当に、本当に運が良かった」
「リョウ殿、その言葉はまだ早いぞ」
フィラックが言う。
「そうですね。グリフィードたちに続いて僕たちも戦場を離脱しましょう」
フィラック連隊も次々に戦場を離脱する。
「追撃なさらないのですか?」
リユベックに兵士が進言する。
リユベックは首を振った。
「味方が邪魔で追撃が出来ません。中央軍と同士討ちなど起こしてしまえば、イムニア様の立場が悪くなってしまいます。我々は退きます」
中央軍の追撃戦は大した戦果も上がらないまま終了し、ランオ平原会戦は終結する。
リョウは戦場を離脱すると気絶した。疲労と責任による過労である。
シャマタル独立同盟軍は一万人以上の死傷者を出した。イムレッヤ帝国軍の死傷者は、その倍であるが、分母が違うため、結果シャマタルの方が傷は深かった。
後世のランオ平原会戦の評論は、シャマタル独立同盟軍に来援があり決着付かず、とするものが大半である。
しかし、リョウは目覚め、事実を、損害を知った時、シャマタル=イムレッヤ戦争に参加してから、初めての敗戦だと感じずにはいられなかった。
クラナ、アレクビューらのシャマタル独立同盟軍本隊と、リョウたちはハイネルの街で合流した。白獅子隊、フィラック連隊は皆疲労の限界に達していた。ハイネルへ着いた瞬間、倒れる者が続出した。
「リョウさん!」
フィラックに背負われたリョウを、クラナが発見する。
「フィラック、リョウさんは怪我をされたのですか?」
「いえ、ただの過労です。心配ありません。しかし――」
無傷な者など一人もいなかった。
「大変な……激闘だった……ようですね……」
ルピンが、息を切らし、大粒の汗を垂らしながら現れる。
「ルピン、俺はお前がそんなに焦っているところを久しぶりに見たぞ」
グリフィードはいつものように笑った。
「ネジエニグ嬢、リョウを頼めるか? フィラック殿も疲れただろう」
フィラックは無言だったが、疲労の色は隠せなかった。
「ええ、医務室に運びます」
クラナはリョウを背負った。彼女が去ると、
「普通、女性に男性を運ばせますか」
「なに、ネジエニグ嬢も幸せだろうよ。好きな男を助けられるのだから」
「………………女の子は助けられたいものだと思いますが?」
「姫役と王子役が逆転することがあってもいいじゃなか?…………そっちはネジエニグ嬢と何かあったか?」
「色々と、自分でも恥ずかしくなるようなことがありました。けれど、それより先にやることがありますね。あなたがリョウさんを医療室まで運ばなかったのには他の理由があるのでしょう」
ルピンはグリフィードの足を軽く蹴った。
「ぐっ……」
グリフィードは顔を歪めた。
「まずはやせ我慢するお馬鹿さんの治療をするとしますよ」
「応急処置だけでいい。診療台の上で寝るのは趣味じゃないんだ。弱った姿を見せるのは俺の役目じゃないからな」
「趣味とか役目の問題じゃありませんよ。まったくうちの団は馬鹿ばっかですね。…………グリフィードさん、『団』の情報参謀長として進言します。この戦争から手を引くべきです。ネジエニグ嬢の気持ちは本物でしょう。ですが、私はあなたやリョウさん、ユリアーナさんを失いたくない。もし、リョウさんがネジエニグ嬢を見殺しにしたくないのなら、誘拐同然でもいいです。ネジエニグ嬢を連れ出しますから」
「おいおい。フィラック殿がいるんだぞ」
グリフィードはフィラックを見る。
「ええ、だから今、言いました」
「もしそうして頂けるなら、私は感謝するだろう」
フィラックは即答した。
「まったく大した保護者たちだ。俺の意見は却下だ。俺はシャマタルに何の義理もないが、ユリアーナやリョウが納得しないだろうし、ネジエニグ嬢に何も言わずにそれをやるのは失礼じゃないか。俺たちの流儀に沿わない。それに負けっぱなしは俺の趣味じゃない」
「流儀に、趣味ですか。いつから私たちは義勇団になったのですかね。まったく馬鹿ばっかです。私も含めて、ね。…………グリフィード、私も前線に出ます」
「ほう、昔のように俺を指揮してくれるのか?」
「何を馬鹿なことを、あなたは私より優れた指揮官になりましたよ。私はフィラックさんの副官をやろうと思っています。恐らく、リョウさんは、フィラックさんに一個連隊規模の指揮を取っても貰おうと思っているはずですから。人材の枯渇している現状では私が適任だと思います。どうですか?」
「ヤハラン殿は私には過ぎたる方だ。やって頂けるならありがたい」
フィラックは頭を下げた。
「ほう、情報収集や補給はどうする? 他にできる者がいるのか?」
「できる者はいるでしょうけど、私よりうまくはできないでしょうね。ですから、それも私がやります」
「しまいには倒れるぞ」
「リョウさんのためなら構いませんよ。やれることはすべてやります」
ルピンの元にイムレッヤ帝国軍の動向が報告された。
ルピンは、すでに情報の編集と新たな諜報活動を始めていた。