リョウとクラナ アレクビューとハイネ
ファイーズ街道を突破したイムレッヤ帝国軍は一旦、軍団の再編を行った。
一方、ファイーズ要塞では迎撃の準備が進んでいた。
数的不利は圧倒的だったが、リョウには要塞防衛の奇策がいくつもあった。
そして、士気は高い。ファイーズ街道の戦いの「一戦に勝利して士気を高める」という目的は達成されていた。クラナは司令官代理として地位を確立し、ファイーズ要塞軍は一枚岩となった。
リョウはルピンと共に、クラナを訪ねた。
イムレッヤ帝国軍が攻め込んでくるまでの休息。この日々が長く続かないことは、誰もが知っている。
「少しは顔色が良くなったね。今、少しだけ良いかな?」
構いません、とクラナは答えた。
「イムレッヤ帝国軍に使者を送りたいんだ」
「使者ですか?」
「そうだよ。みんな、街道の戦いで疲労した。少しでいいから兵士に回復の時間を作ってやりたいからね」
「でも、待ってください、って言ったって、待ってはくれませんよね?」
「当たり前です」とルピンが言う。
「そう、だから、一捻り加えるんだ。こちらから降伏の申し出をしてくれ」
「こ、降伏ですか!?」
「ああ、ただし以下の言葉を忘れないでくれ。『先の戦闘でこちらは多大な被害を出した。士気は落ち、とても戦闘を継続できる状態ではないが、一部主戦派がまだ残っているからその説得、それと非戦闘民の退去のために準備が必要だから一週間頂きたい』と、ね」
「なるほどリョウさんらしい姑息な策ですね」
「姑息とは酷い褒め方だな」
「でも、イムレッヤ帝国は承諾するでしょうか?」
「いいや、たぶんしないよ。けど交渉で一日でも、二日でも戦闘開始を延ばせれば儲けものだからね」
シャマタル独立同盟軍からの書状が届くと、エルメックは軍議を開く。
「そのような申し出、議論の価値など無い!」
最初に発言したのはフェルターだった。
「明日にも要塞を落としてくれるわ!」
「フェルター殿、そうは言うが、我々も疲労している。もしこの申し出が本当なら、労せず要塞を手に入れられる。戦わずして勝つことは上の上策ではないか?」
「これはガリッター殿とは思えぬ発言だ。敗戦で戦意を削がれたか?」
この挑発的は言い方に対し、ガリッターが反論しようと身を乗り出す。
「これこれ、将軍同士でみっともない。この件は私が結論を出してもよいじゃろうか?」
エルメックの言葉に、フェルター・ガリッター両名は沈黙した。
「一週間待つとしよう」
「何をおっしゃる!? 敵軍が弱っている今こそ…………」
「フェルター将軍、ワシらがファイーズ要塞方面に出陣した意味を忘れてはいないじゃろうな? 損害はなるべく少なくするべきじゃ。結果として要塞を落としてしまえば、それに越したことはないが、今のファイーズ要塞に無理攻めしてまで落とす価値は無いのじゃよ」
「総司令官の決定に私は従うつもりです。しかしながら、非礼を承知でお聞きしたいことがあります。よろしいですか?」
「なんじゃ、ガリッター将軍?」
「エルメック様は今まで幾度か、シャマタル独立同盟軍、もっと言ってしまえば、アレクビュー殿に対して温情をかけている行為が見受けられます。今回、ファイーズ要塞軍の司令官はアレクビュー殿の孫娘だと言う噂、だから、今回も攻勢には出ないのではないかと疑念が生じます」
「なるほど、確かにハイネ・アーレ殿が逝去した際にワシはシャマタル独立同盟へ攻勢をかけなかった。それは認めよう。しかし、その後、ワシは全力でアクレビューを相手にオロッツェで戦った。あれが嘘だったとガリッター殿は仰るのか?」
この問いにガリッターは沈黙する。
第二次オロッツェ会戦の激闘は帝国国内でも有名である。アレクビューの右腕、フィラックは重傷を負い、帝国軍でも将軍が何人も戦死した。かつて、双璧と呼ばれた二人が激突したに相応しい戦いであり、手の抜いた個所などは無かった。
「ワシは今回、温情をかける気は無い。このファイーズ要塞侵攻の戦略的目的はなんじゃ? 同盟の注意をこちらへ向けることであろう? ワシの戦いぶりはそれにそぐわぬものかの? 要塞を無理攻めすれば、損害は多大じゃ。労せず、要塞を手に入れることができれば、戦わずして勝つ、上策じゃ。もし、降伏が虚言であったとしても一週間は戦闘が起きんのだから、兵を損なうことがない。戦うずして負ける。これも今回に関して言えば、悪いことではない。百戦百勝では兵が持たん、不戦も必要じゃ」
ガリッターは納得したようでそれ以上は何も言わなかった。フェルターは何か言おうとしたが、ついにはその言葉を見つけることができず、納得のいかない表情で沈黙した。
「とはいっても、約束を守らず、籠城した相手に対し、あまり手緩い攻勢では相手も疑念を抱くやもしれん。攻城戦となった時はそれなりに本気になろうかの」
エルメックは笑った。
イムレッヤ帝国軍からの返答が届いた時、ほとんどの将兵は喜んだが、リョウは複雑な顔だった。
「リョウさん、何か不満があるのですか?」
ルピンが尋ねる。
「こんなにあっさり承諾されるなんてどうも引っかかってね。ルピン、地図を持ってきてくれないかい?」
「良いですよ。ファイーズ要塞周辺の地図で良いですか?」
「いいや」とリョウは頭を振った。
「シャマタル全体の地図だ」
「…………分かりました」
しばらくしてルピンはシャマタルの地図を持ってきた。
「ファイーズ街道以外にイムレッヤ帝国側からシャマタルへ攻め込む術は無いのかな?」
「軍団が通れるのはファイーズ街道くらいでしょう。それ以外の場合は必ず山越えをしなければなりません。危険が高すぎます」
「僕の世界でそれをやった英雄がいたけど、確かにそこまでの奇策を使うほどイムレッヤ帝国は追い込まれていないからね。たぶん、山越えはしないと思う。もっと別の何か、もっと別の大きな道…………」
リョウの視線は自然とザーンラープ街道を見ていた。
「その街道とイムレッヤ帝国軍の間にはフェーザ連邦がありますよ」
リョウの考えを察し、ルピンが指摘する。
「うん、そうなんだよ。それは分かってる。分かっているんだけど……………………」
リョウは珍しく迷い、煮え切らない態度だった。
「分かりました。フェーザ連邦方面にも注意を向けておきます」
「でも、途方に終わるかもしれないよ」
「それなら、それでいいことです。最悪なのは僅かな可能性に気付いていながら、それを見ようとしないことです。戦争において、慎重すぎると言うことは決してありません。リョウさんの世界の言葉で言うところの『石橋を叩いて渡る』といったところでしょうか」
「ありがとう、ルピン」
「いつものことですよ」
ルピンは声が少しだけ高かった。
それから一週間、シャマタル独立同盟軍は撤退の準備など一切しなかった。
休息と迎撃を万端に整え、イムレッヤ帝国軍を待ち受ける。
約束の反故を確認したエルメックは、
「そうじゃろうな。そうで無くては面白みに欠けるわい」
と笑いながら言った。ファイーズ要塞の攻略を即座に決定し、フェルターに先陣任せることにした。今のシャマタルは何をしてくるか分からない。なら、冷静な自分とガリッターが後衛に回った方が様々な状況に対応できると考えたのだ。
イムレッヤ帝国との約束を反故にした日の夜、リョウは野外で星を見ていた。
「リョウさん、そんなところいると風邪をひきますよ」
クラナがリョウに話しかける。
「今日はとても星が綺麗だからこうしていたいんだ」
「それなら何か羽織るものを持ってきます」
季節は春と夏の狭間。シャマタルの夜は、まだ冷え込む季節である。
すぐにクラナは戻って来た。温かそうな毛布を持っている。
「ファイーズ要塞の司令官自ら悪いね」
「からかうのはやめてください。…………リョウさん、少しお話をしてもいいですか?」
「寝れないかい?」
クラナはコクリと頷いた。
「いいよ。けど、それなら自分の分の毛布も持ってきた方が良かったね」
「…………うっかりしてました。で、でも、大丈夫です。私はシャマタルの民、寒さには…………へっくしゅん!」
「やれやれ、要塞司令官が敵襲前に風邪で倒れたんじゃ敵わないよ」
リョウは一度受け取った毛布をクラナにかける。
「そ、そんな、これじゃ意味がありません! …………そうだ、こうすればいいのです」
クラナは、リョウに密着した。
「ク、クラナ、何のつもりだい」
「一つしかいのなら二人で使えばいいのです」
「まぁ、クラナがこれでいいなら、僕は良いけど…………」
リョウは自分の心臓の鼓動が速くなるのを感じた。
「明日からまた戦いなのですね」
クラナの体に力が入るのを、リョウは感じた。
「また、そんなんじゃ体が持たないよ。大丈夫、地の利はこっちにあるし、小細工だってあるからね。要塞は落とさせないよ」
「それは心強い言葉です……………………星を見るの、好きなのですか?」
「昔は星なんて見なかったさ。でもこっちの世界に来てからよく見るようになった。星を見ていると、どれかが僕のいた世界じゃないかって思えてくる」
「こっちの世界? 僕のいた世界??」
クラナは首を傾げた。
「いいや、気にしなくて良いよ……………………ねぇクラナ、仮定の話をしても良いかな?」
「仮定?」
「もし今回の戦争でシャマタルが生き残れたら、という仮定の話だよ」
リョウは仮定は不謹慎極まりなかったが、クラナは嫌悪しなかった。そもそもリョウたちいなければ、今の状況など到底考えられない。
クラナは話の続きを聞く姿勢になる。
「君はこの戦争が終われば、英雄になっていると思う」
「英雄、ですか?」
その意味がクラナにはまだ分かっていない。自分の価値を見つけている途中のクラナにとって、英雄とはとても遠くの存在だった。
「いずれ、いやこの戦争中に、もしかしたら君は絶対的な存在になっているかもしれない。君は綺麗だし、英雄の家系だ。人々はそういったものに惹かれるんだよ。君の行動一つ、言葉一つで人々は動くかもしれない。君は今までにないものを多く手に入れることになる。だけど、だからこそ変わらないでいてほしい」
「…………………………………………」
「少し生意気なことを言えば、僕は権力を持った瞬間に人格が豹変した人間を何人も知っている。君にはそうなってほしくない。君は君のままでいてほしい」
「リョウさん、私には分かりません。私は屋敷を出てから必死に生きてきたつもりです。周りを見る余裕なんてありませんでした。周りに与える影響なんて分かりませんでした。考えませんでした。だけど、確信して言えることがあります」
「なんだい?」
「私はリョウさんの言葉を信じると言うことです。リョウさん、もし私が間違っていたときは止めてください。リョウさんの言葉なら、絶対に届きます」
「僕が常に正しいとは限らないよ」
「そういう風に言えるリョウさんだからこそ、私は信じたいのです」
「分からない。どうして君はそんなに僕を信頼してくれるんだい?」
「逆に聞きます。どうしてリョウさんは私を助けてくれるのですか?」
「それは君を守り立てないとシャマタルが崩壊するからだよ。僕は君を利用しているに過ぎないんだ」
「本当にそうなら面と向かって言うようなことはしませんよね? 私はずっと気になっていました。リョウさんはなんで私を助けてくれるんだろうって。もし利用するだけなら、私のことはフィラックとかに任せていたんじゃないんですか?」
「………………なるほど。君は世間知らずかもしれないけど、馬鹿じゃないみたいだね」
「なんだか酷い言い方ですね!?」
「クラナ、僕が君を助ける理由があるとすれば、とても単純でくだらないものだよ。聞いたところで納得できるか分からないよ……………………僕が君を助ける理由、それは君が若すぎるからだよ」
「えっ!?」
「司令官としてはもちろん、人としても若すぎる。本当はもっと色々なことを出来る歳なのに戦場に立たなければならない。戦場に立たせてしまった責任を僕らは取らないといけない。少なくとも僕はそう思っている………………………………言ってみて分かったけど、酷い理由だね。クラナを戦場へ引っ張り出したのは僕らなのに。これ以上の偽善も中々無いよ」
それを聞いたクラナは声を上げて笑った。
「僕は面白いこと言ったつもりは無いんだけど?」
「す、すいません。でも、リョウさんがあまり年長者っぽいこと言っているのでつい。だって、リョウさんって私とあまり年は変わりませんよね?」
「あれ、言ってなかったっけ? 僕は君と同い年だよ」
「なら、なおさらです。リョウさんだって若いじゃないですか。それなのに私のことを年少のように扱って、確かに人生経験、と言う点ではリョウさんの方が上ですけどね」
クラナは笑った。
リョウは今の答えがクラナを満足させたか分からなかった。
「でもそうですね。人が動くのって、単純な理由かもしれません。私だってそうでした。だから、リョウさんが私に優しい理由も信じられます」
そう言って、クラナはそれ以上、この話を続けなかった。
だから、リョウもそれ以上話さなかった。
リョウとクラナの会話を聞いていた者たちがいる。
「ルピン、いいのか。リョウがクラナと仲良くしていても」
ルピンとグリフィードだ。
「グリフィードさん、覗きとは悪趣味ですね」
「人のことを言えた口か?」
「私はリョウさんに話があっただけですよ。まぁ、お邪魔のようですし、話は明日にするとしますか」
立ち去ろうとするルピン。その腕をグリフィードは掴んだ。
「ルピン、全てのことが変わらずに存在するなんてことはないんだぞ」
「多くの歴史を見てきた私にそれを言いますか? ネジエニグ嬢がリョウさんに好意を持っているのは見れば分かります。しかし、その好意は殻を破った雛鳥が初めてみたものを親と勘違いするのと同じこと。いずれ、それがなんでもなかったと思うようになりますよ」
「お前は過去も未来も良く見えているだろうが、現在を見ようとしない。一目惚れ、そんな言葉もあるぞ。そもそも親だと思えば、親。恋だと思えば、恋。認識などその程度のものじゃないのか? お前は歴史家気取りで、第三者を演じる。だがな…………」
グリフィードは真剣な顔で言う。
「たまには当事者になってもいいんじゃないか?」
「…………………………………………」
ルピンは何も返答しなかった。
グリフィードは、「やれやれ」と言い、ルピンの腕を離した。
ルピンは早足に去っていった。
イムレッヤ帝国軍陣営。
「ネトシナ川の水量が極端に少なくなっている。西から攻めるべきだ!」
フェルターは声を張った。
「ファイーズ要塞の、西の防衛はネトシナ川があってこそだ。それが干上がってしまえば、西は完全に無防備だ」
フェルターの言うとおりだった。ファイーズ要塞の西の守りの要はネトシナ川である。今はネトシナ川が馬や人でも渡れるくらいまで水嵩が減少している。
「待て、乾期でもないのに、川の水量が少ないのはおかしい。何かあるやもしれん」
ガリッターが慎重論を唱える。
「ガリッター殿、何かとはなんだ? 具体的に説明していただこう」
ガリッターは沈黙した。
「そのような根拠のない勘繰りで、この好機を逃すべきではない。心配なら、ガリッター殿は後詰として控えていればいい。とにかく俺は西からファイーズ要塞を攻める。エルメック様、許可をいただこうか」
「よいぞ、好きなようにせい」
エルメックは即断。許可を出した。フェルターは満足そうな顔で自軍の出撃準備に向かった。
「よろしいのですか? あまりに安直な気がするのですが」
「フェルターはああいう性格じゃ、静止したところで不満が残るじゃろう。それにワシもシャマタルの連中が何をしてくるのか分からん。ならば、フェルターの好きにやらせてみてもよかろう。あやつが、窮地に陥った時はワシらが、どうにかすればよい」
空は曇天。風は強風。この日は冬並の寒さだった。
リョウはネトシナ川がある西の城壁にいた。
「フェルター軍団が西より来襲!」
兵士が報告する。
「了解。う~~、寒い…………まったく最悪の天候だよ」
リョウの声には開戦前の緊張感が欠落していた。
「大丈夫ですか? 何か羽織る物を持ってきましょうか?」
「ネジエニグ嬢、あまり甘やかさないでください。ここは戦場です。私たちはピクニックをしているわけじゃないんですから、これくらいの寒さなら我慢すべきです」
とは言ったもののルピンも唇を青白くしていた。
「敵の先頭集団が川を渡り始めました」
兵士から次の報告が入った。
「まだ手を出さないでくれるかな」
要塞の西にはネトシナ川が流れる。これが天然の要害。今は乾季でもないのに、川は干上がっていた。川が無ければ、一番脆くなるのが、西の防衛線である。イムレッヤ帝国軍は、それに気付き、攻勢かけてきた。
フェルター軍団の半分ほどが川を渡り終える。
「はぁ~~、最悪の天候だよ。もっと暖かければよかったのに…………」
「まだそんなことを言っているのですか」
「ああ、こんな寒いんじゃ思っていたより、死人が多く出るだろうね」
リョウの声は暗かった。
「……………………戦です。敵の心配より、まずは味方の心配をしましょう」
「最もだね。そろそろかな。上流に待機している工作兵に合図を送ってくれるかな。堤防を決壊させてくれ、とね」
リョウの指示で狼煙が上がる。
すぐに上流で堰き止められていた水が、川に流れ込んだ。濁流はすぐにフェルター軍団に襲いかかる。
フェルター軍団の兵士は、轟音に気付いたが、遅すぎた。次の瞬間、フェルター軍団を濁流が呑み込んだ。無数の悲鳴が濁流の中へ消えていった。
フェルターはその有様を目の前で見ることになった。
「なんだ、これは………………俺たちはいったい何と戦っているのだ…………」
野戦において無類の突破力を誇るフェルター軍団も自然の力の前には無力だった。
「敵はすでに軍と呼べるものではないですね」
ルピンが簡潔に言う。
「ああ、そうだろうね。グリフィードに連絡、総崩れしたフェルター軍団を引っかき回してくれ」
ファイーズ要塞から出撃した白獅子隊は、四散していたフェルター軍団を各個に撃破していく。
しかし、この攻勢は長く続かなかった。ガリッター軍団が、フェルター軍団の救援に現れた。
「恐らく、エルメックは予想していたんだろうね。さすがに、すべて思い通りにはいかないか。グリフィードたちを退かせよう。もう戦果は十分だ」
白獅子隊は、ガリッター軍団と接触すること無く退却した。ガリッター軍団は追撃せず、フェルター軍団の後退支援に徹底する。それが終わるとガリッター軍団も後退し、戦闘は終結する。
勝利に沸くファイーズ要塞。クラナの株はまた上がった。
不敗神話、と言い出す者も現れた。
この日の夜、クラナはいつものように、リョウの宿舎を訪ねた。フィラックも一緒だった。
アーサーンは、兵士たちと酒を飲んでいるため、来ていない。
ファイーズ街道の戦い初日から、クラナはよくリョウたちを訪ねるようになっていた。リョウはそれを拒否しなかったし、それでクラナの心が少しでも落ち着くなら良い、と思っていた。
「今更だけどクラナ、こんな宿舎に入り浸って大丈夫なの? 将兵から文句が出るんじゃないの?」
リョウが尋ねる。
「えっと、まずいでしょうか?」
「それは問題ないと思われます。今となっては、白獅子隊はファイーズ要塞の重要な戦力。クラナ様が個人的な交流を作っても問題ないでしょう」
フィラックが言った。
「そうなら良いですけど…………」
「ネジエニグ嬢が勝っている間は誰も文句は言いませんよ。人間とはそういうものです」
ルピンが言った。
「それは不安になる言い方ですね」
「大丈夫です。どうせ、負けたら死にますから」
「酷い大丈夫ですね!?」
「まぁ、今はうまくいっているからいいじゃないか。頑張って『英雄クラナ』を演じてもらうよ」
「…………私が英雄なんて…………私はお祖父様やお祖母様のような立派な人間でありません」
「…………クラナ様、いい機会です。一つ昔話をして差し上げましょう」
フィラックが口を動かした。
「フィラックの武勇伝ですか?」
「違います。私は自分で自分を語る勇気はないもので。私が語るは、女好きとヤキモチ焼きの話です。全ての場面で私がいた訳のでは無いので、多少の着色と伝聞はありますが」
一言と断りを入れ、フィラックは静かに語りを始める。
――シャマタル暦二年。夏。ファイーズ要塞内の街。
ハイネは膨れっ面で夫を探していた。
子を産み、母となったことで消えていた幼さが、この時ばかりは全面に出る。
途中、アレクビューの腹心のフィラックに出くわす。
「フィラック殿、アレクビュー殿は、私の夫はどこにおりますか?」
「ハ、ハイネ様、アレクビュー様はその…………」
フィラックは、適当なことを言って事態を切り抜ける器用さを持ち合わせていなかった。
「あなたの反応を見て確信しました。私の夫はどこへおりますか? 隠し立てするようなら…………!」
ハイネは腰の剣を握る。
「お、お待ちください! アレクビュー様は…………」
ハイネはアレクビューの居場所を聞き出すと足を速めた。
中心街から離れた宿舎、そこにアレクビューはいる。
「店主、お客の中で一番体格の大きい方は何号室に泊っていますか?」
「な、なんですか、急に? 宿泊されているお客様の情報を教えるわけには…………」
渋る店主に、ハイネはアーレ家の家紋の入った首飾りを見せた。店主はギョッとする。
「私はアーレ家のハイネです。答えよ」
「と、とんだ御無礼を! 一番でかい客なら二階の右奥の客室だと思われます」
「情報提供、感謝します」
ハイネはついに走り出した。店主は茫然としていた。
そして、ノックもせずに教えられた部屋のドアを開ける。鍵は掛かっていなかった。
「アレクビュー殿!」
ハイネは赤面しながら、怒鳴る。ハイネの予想は大方当たっていた。外れていたことは、相手の女が一人ではなく、三人であったことぐらいだ。
「ハイネか、どうしてここが、と聞く必要もないか。フィラックは不器用だからな」
ハイネはすぐに女たちを部屋から追い出した。服を着るのを待ったのは、ハイネの最低限の情けだった。
「英雄色を好む、とはよく言ったものですね。アレクビュー殿、私はあなたの妻ですが、別にあなたがどこの女と寝ようと仕方のないことと諦めております。しかし、時機をお考えください!」
昨年、アレクビューはファイーズ要塞にて、イムレッヤ帝国軍は撃退した。
しかし、イムレッヤ帝国軍が再び、侵攻してきたのだ。
「ドワリオはまだ三歳です。ですが、イムレッヤ帝国からすれば、大罪人の子供、私たちが負ければ、どうなるなど分かりきっていることでしょう!? 我が子だけではありません。私たちが負ければ、シャマタルの人々は以前のような、いえもっと酷い環境に身を置くことになるでしょう。その辺をお考えですか!」
「ワシが禁欲すれば、シャマタルが安泰にならそうしよう。だが、そうもいくまい。働く時に働く。心配するな。それとも放置されたのがそんなに気にくわなかったか?」
「何ですって!?」
「心配しなくてもお前が一番だ。しかも二番以下を大きく引き離しているぞ」
「女を一番、二番と扱う言い方が気に入りません。いつか刺しますからね!」
ハイネは半分本気で言った。
「いつものやり取りはこれくらいにしておこうか、総参謀長殿。今回のイムレッヤ帝国はどうだ?」
アレクビューは急に真剣な声になった。
「その切り替えの早さ。羨ましいですよ」
ハイネは頭を抱えた。そして、何かを諦め、深呼吸をする。
「八万の大軍を持って侵攻中です、総帥殿。前回の敗戦で懲りるどころかさらに兵力を動員してきました」
「総帥はどれが務める?」
総帥はターデン、とハイネが告げるとアレクビューは失笑した。
「ターデン? あの頭でっかちに八万の大軍を満足に指揮できるものか。ワシが抜けたイムレッヤで、それだけの大軍を指揮できるのはエルメックぐらいだろうな」
「大した言いようですね。満足に運用できずとも、イムレッヤは私たちの四倍以上、こちらの不利は明白。前回と同じようにファイーズ要塞に籠り、防御に徹するのが上策でしょう」
これに対し、アレクビューは首を振る。
「今回は打って出る」
それを聞いたハイネは驚くことも、反論することはしなかった。普段の素行に問題はあるが、こと戦争においてアレクビューは比類なき才の持ち主だと、ハイネは認めているからだ。
「要塞に籠れば、まず負けないだろう。しかし、それだとイムレッヤ帝国軍は大した損害を出さない。懲りずに再侵攻してくる。その時の総帥が愚将なら、また撃退できるだろうが、エルメック辺りに出られては、敵わん。今回の戦いでイムレッヤ帝国軍が今後、容易に侵攻できないほどの損害を与えておくべきだ。こう何度も立て続けに戦いが起きてはシャマタル全体が疲労しきってしまう。そうなれば結局は帝国に屈することになるだろうからな」
アレクビューの主張はもっともだった。
「なるほど、アレクビュー殿は長期的な戦略的有利を得るために、短期的な戦術的勝利が必要だと考えているのですね」
真面目な顔で、そう口にしたハイネのでこを、アレクビューは軽く突いた。
「そう難しい言葉並べるな。もっと単純な話だ。イムレッヤの連中をビビらせて、シャマタルに手を出すのを躊躇わせる。それだけだ」
アレクビューは戦争の天才である。天才は理屈ではなく、本能で動くのだ、とハイネは理解していた。
「なるほど打って出る理由は理解できました。ですが、それを実行なさるのに、現在の兵力で十分とは思えません。平地での戦いは八割兵力で決まってしまいます」
シャマタル独立同盟軍の総兵力は二万。数としては大した数だが、イムレッヤ帝国軍と対するのに、少な過ぎるのは明白である。そして、ほとんどは民兵であり、正面から無策に当たれば、一方的に崩されてしまうだろう。
慌ただしくアレクビューとハイネのいる部屋に向かってくる足音がした。
「い、一大事でございます!」
フィラックがノックもせずにドアを開ける。
「お前がそれほど狼狽するとは、本当に一大事なのだな。何があった?」
「要塞外に軍勢が現れました! 数はおよそ五千騎!」
「五千騎? 敵にしては少なすぎますね。第一、どんなに急ごうともイムレッヤはまだ、ここへ到達できるはずがありません」
「様子を見に行く。ハイネ、フィラック、付いてこい」
三人は宿を出る。そして、フィラックが用意したであろう馬に乗り、正門に向かった。
「こ、こんなことが…………」
そう言ったのはハイネだった。軍勢が掲げる家紋は、グーエンキム家のものだった。ハイネ家に匹敵する名家である。先頭には、当主、ボスリュー・グーエンキムがいる。
ハイネは一歩前に出る。
「ボスリュー・グーエンキム殿とお見受けします。私はアーレ家、ハイネ・アーレです。これは一体どういうことでしょうか?」
グーエンキム家はシャマタルの民の中で唯一、不戦を貫いていた。中央とも関係を持っている。シャマタル人の中ではマシな待遇を受けている方だった。それだけに勝ち目の薄い戦いに命運を託すことを避けていた。
「アーレ・ハイネ殿、私は旗色を見ながらどちらに付くか考えていた」
「酷い言いようですね」
ハイネが一蹴する。
ボスリューは一呼吸起き、
「確かに酷い言い方だ。だが、一族の長として、グーエンキム家の存続を第一に考えるのは当然のこと。そして私はアレクビュー殿にシャマタル人の希望と未来を見た。グーエンキム家は総力を持って、アレクビュー殿に味方する!」
グーエンキム家参戦の報は、すぐさま敵味方に広がった。イムレッヤ帝国軍は動揺し、シャマタル独立同盟軍は歓喜した。ファイーズ要塞に集結した兵力はついに三万を超えた。
「グーエンキム殿が味方してくださることには感謝致しますが、どうしてですか?」
「アレクビュー殿なら、本当にこのシャマタルを救ってくれると思ったからな。私は待っていたのだ。シャマタル人が人権を回復できる日をな。正直なことを言えば、もっと穏便に、武力に頼ることなく、それを成したかったが、こうなっては仕方が無い。これがシャマタル独立の好機だと判断した。我々も運命を共にしよう。ところで私としてはありがたいことだが、中央と関係のある私をこんなに簡単に信用していいのか?」
「私個人の意見を言わせてもらえば、裏切るかもしれないと懸念しております」
これは手厳しい、とボスリューは渋い顔をする。
「ですが、私の夫、総帥であるアレクビュー殿があなたを登用した。私はあの人を支持します。だから、あの人が支持することを、私も支持するのです」
「なるほど。では、お互いシャマタルのために戦おうとするか」
次の日、シャマタル独立同盟軍はファイーズ要塞を進発した。
シャマタル独立同盟軍三万。イムレッヤ帝国軍八万。これが第一次オロッツェ平原の会戦に参加した両軍の総兵力であった。
戦場へ先に布陣したのはイムレッヤ帝国だった。
「これ以上進むと街道は狭くなり、大軍の有利を生かせなくなる。敵が進軍してくる以上、ここで迎え撃つのが定石である」
総帥のターデンはそう宣言した。
アレクビューもオロッツェ平原が戦場になると予想し、軍を進めていた。
「右翼はボスリュー殿、左翼はフィラックだ。二人は何としても戦線を支えよ。それができなければ、敗戦は必至だ。両翼が戦線を維持し、中央だけが後退する。敵を誘い込む」
「包囲殲滅ですか。それにやるには本来、相手より多くの兵を揃える必要があります」
ハイネが指摘する。
「ああ、だが今回はこの兵力で、この作戦をやるしかない。イムレッヤの兵は屈強だ。正面から当たれば、敗戦は必至、ならこうするのが最善の策であろう。ターデンは八万の自軍を手に余す。イムレッヤの奴らは統制を欠く。連携の取れないところを各個撃破する」
「分かりました。あなたがそういうなら、そうなのでしょう。ですが、それは両翼と中央との連携が重要になりますね。総帥殿、ガサツなあなたに繊細な連携などできるのですか?」
「わしには無理だ。正直、ワシの視野はそんなに広くない。前線で戦うのなら誰にも負けん自信はあるがな。第一、八万の敵を、三万の味方で包囲するなどという用兵を行える奴は二人しか知らん。一人はエルメック、もう一人は…………ハイネ、お前だ」
「……はい? えっ!? んんっ!?」
ハイネは目をぱちくりさせた。
「ま、待ってください! その話の流れだと、もしや私が中央軍の指揮するのですか!?」
アレクビューは机に広げられた地図を指差す。
「ああ、そうだ。中央はお前に預ける。ワシは五百の騎兵を率いてイムレッヤ帝国軍の後背を突く」
「なるほど三方ではなく、四方から包囲殲滅を行うのだな。成功すけば、大勝できるだろう」
ボスリューが言った。
ハイネも、アレクビューの構想が成功した時の戦果は多大であると理解できた。
しかし、逆の場合は…………
「もし私が、中央が敵の引き付けに失敗したら?」
ハイネの声は震えていた。
「戦力を悪戯に分散しただけになり、全員死ぬ」
アレクビューは鋭い眼光で、即答した。だから無理強いはせん、とアレクビューは続けた。
ハイネは目を瞑り、深呼吸をした。次に目を開いた時、瞳には決意が宿っていた。
「いえ、やります。やらせてください! アレクビュー殿は女好きで、乱暴で、意地悪ですけど…………」
ハイネは一呼吸おき、
「勝算ないことはやらないし、言わない方です。アレクビュー殿は、私にそれができると判断したから言ったのですよね。私はアレクビュー殿を信頼しています。ここまで来て何を恐れることがありましょうか!」
それを聞いたアレクビューは、満足そうに笑った。
「決まりだな。明日の決戦、右翼はボスリュー、左翼はフィラック、そして中央シャマタル独立同盟軍主力はハイネに任せる。ところでハイネ、地理に詳しい者はいるか? ワシは敵の後方へ出るために大回りをせねばならん。迷子になった、では笑えんからな」
ハイネは、すぐに手配します、と言った。
かくしてシャマタル独立同盟の存亡を懸けた決戦が始まる。
開戦直後、アレクビューは計画通りの行動をする。
「アレクビュー様、この道がイムレッヤ帝国軍の後背に出る最短でございます」
ハイネの紹介した案内人は、山道を正確に把握していた。二十に満たないその青年、名をウィッシャーという。
「アレクビュー様、報告いたします。敵の気配なし。これなら妨害なく、後背に出られましょう」
二十を過ぎたばかりの騎兵大隊長が報告する。尖兵を進んで申し出た勇敢、優秀な男で、名前をカーゼという。
後にウィッシャーはシャマタル独立同盟軍の総参謀長、カーゼはアレクビューの近衛隊長になるが、この時はそのような運命が待ち受けていることなど考えもしなかった。二人は、他の多くの者と同じく、シャマタル独立のために戦いへ参加したのだ。
開戦の前、ハイネは震えていた。隣を見る。いつも一緒にいる…………訳では無いが、戦場なら必ず隣にいてくれたアレクビューがいない。これほど不安なことは無かった。
ハイネは腰の剣を触った。アレクビューから最初にもらったものだった。ハイネは剣術など使えない。それでもハイネはその剣をいつも持っていた。
「ワシに失望したら、その剣で刺せば良い」
この剣を渡したとき、アレクビューはそう言った。
「あなたを誰かに殺させません。私も誰にも殺されません!」
ハイネは剣を抜く。震えが止まった。そして叫んだ。
「シャマタルの興廃、この一戦にあり! 全兵一層奮励努力せよ!!」
返ってきたのは、大気が震える喊声だった。
会戦は概ねアレクビューの思惑通り進んだ。ボスリュー、フィラック両軍団が戦線を維持。ハイネの主翼が後退する。ハイネは送られてくる戦況報告を元に、常人なら昏倒してしまうほど緻密な用兵を行った。
「味方が優勢です」
ターデンの元に兵士から報告が届いた。
「大軍に小細工は不要だ。各々部隊で判断し、進軍せよ」
ターデンは勝ちを確信し、宣言した。
倍以上の兵力と優勢に見える現状は、只でさえ高くない総司令部の能力を完全に失わせていた。
イムレッヤ帝国軍は無秩序に進軍し、遊兵を作る。
しかし、ターデンはそれすらも気付かなかった。
そして、開戦から四時間、昼を過ぎた頃にはアレクビューの構想、イムレッヤ帝国軍を包囲陣の中へ誘い込むことに成功した。
ハイネは大きく息を吸った。
「今です! 攻勢に転じます!」
ハイネの合図で、狼煙が上がった。
フィラック、ボスリューは敵の側面を突くために行動を起こした。
両者は一流の指揮官である。その連携に狂いはなく、忽ち、包囲網を完成させた。
イムレッヤ帝国軍は罠に嵌められたと気付き、後退しようとするが、すでに退路はなかった。
「後方より敵です! ネジエニグが現れました!!」
その報告はターデンを恐怖させた。
「ネジエニグだと!? なぜ敵の総帥が後方から現れる! それでは前面の敵は陽動か!! 我々はシャマタルの、反乱軍の兵力を過小に考えていたのか!」
アレクビューの指揮する騎兵五百では後方を遮断することなど出来ない。
イムレッヤ帝国軍は誤解をした。後方にアレクビューがいる。だからシャマタル独立同盟軍に大規模な別働隊が存在する、という誤解を。イムレッヤ帝国軍は大混乱に陥った。乱戦の中でイムレッヤ帝国軍総帥のターデンは戦死した。それ以降は戦いというには余りにも一方的な展開だった。イムレッヤ帝国軍は混乱の中で同士打ちが相次いだ。それを裏切りと勘違いした他の隊が味方を攻撃し、混乱をさらに増大した。
夕方、戦いが完全に終わった。イムレッヤ帝国軍の戦死者は二万人超、そのうち半数以上が同士打ちによる戦死者であった。重軽傷者は不明。シャマタル独立同盟軍の死傷者は千人に満たなかった。大勝、それ以外評価のしようが無い結果だった。
アレクビューとハイネが再会したのは、陽が沈み、辺りが薄暗くなってからだった。
「ハイネ、御苦労だっ…………」
ハイネはアレクビューに抱きつく。
フィラック、ボスリューを初め、居合わせた者は気を使い、席を外した。
「怖かったです…………あなたが側にいてくれないことがこんなにも怖いことだとは知りませんでした…………アレクビュー殿、あなたのせいですよ。責任を取ってください! 今夜はどこにも行かないでください。今夜は私に優しくしなさい」
ハイネは半泣きで、アレクビューに迫った。
「まったく調子が狂うな」
アレクビューは困り果てた表情を浮かべた。
イムレッヤ帝国はシャマタルの力を思い知らされた。また、偶然ではあるが、イムレッヤ帝国は、隣国のフェーザ連邦と戦争状態に突入し、シャマタル討伐どころでは無くなってしまった。当面の間シャマタルへの大規模な軍事行動を起こさないことが、イムレッヤ帝国内で暗黙のうちに決定する。
「このような日が来るとは思いもしませんでした」
放心のハイネは、そう漏らした。
「このような日と何を指す? シャマタルが独立したことか? ワシの妻になったことか? ドワリオを産み、母となったことか? それとも今回、イムレッヤ帝国に大勝したことか?」
「全てです。ここ数年の出来事全てが私にとって驚きでした」
驚きだけか? というアレクビューの問いに、ハイネは顔を赤らめながら、「幸せでした」と答えた。
「この幸せをずっと味わいたい。そう願っております」
アレクビューは、欲張りだ、と笑った。ハイネも笑って返す。
…………しかし、ハイネの願った幸せは長く続かなかった。五年後、ハイネは体調を崩すことが多くなり、さらに一年後、逝去してしまう。
ハイネが逝去する少し前からアレクビューの女好きはなりを潜めた。あまりの変わりように、不安を覚えたフィラックが言及をしたほどだ。
フィラックの問いに関する返答は以下の通りである。
「なに、ワシが女といても、殴り込んでくる膨れっ面のお転婆がいないせいで張り合いが出んだけだ」
それを聞いたフィラックは、何も言えなかった。
「まったく願掛けとはアレクビュー殿らしくもない」
フィラックから報告を受け、ハイネは笑った。その姿はとても儚かった。
「私は幸せ者でした…………しかし、人間とは欲深いものですね。もっとアレクビュー殿と一緒にいたかった…………ドワリオが成人するのを見たかった…………そして、ドワリオがお嫁さんを貰って、子供を授かって、アレクビュー殿に『これであなたもお爺ちゃんですね』なんて言って、『お前は婆さんだ』みたいにお互いが歳を重ねたことを確認して…………」
「ハイネ様…………」
フィラックはかける言葉が無かった。
「それに奥の院のことはあなたに任せっきりで…………」
「私が望んでやっていることです。気に病むことはありません」
「そう言ってもらえると本当に助かります。フィラック、あなたにこれ以上のことを頼むのは本当に申し訳ないと思います。ですが、これだけは頼みます……………………」
ハイネはフィラックの手を取った。ハイネの手をとても冷たかった。
「我が夫アレクビュー殿と、我が子ドワリオをよろしく頼みます…………」
御意、とフィラックは短く答える。
「ありがとうございます。疲れました…………もう休みますね…………」
そう言って、ハイネは横になる。
フィラックとハイネの会話はこれが最後だった。
イムレッヤ=フェーザ戦争が終結し、イムレッヤ帝国がシャマタル方面に軍事行動を起こしたため、フェラックは出陣した。アレクビューが直接指揮を取ろうとしたが、フィラックがこれを止めた。
「恐れながら、アレクビュー様はハイネ様のお傍に…………指揮は私が取ります」
アレクビューは、すまない、とらしくもなく、力もなく、答えた。
それからすぐに〝ハイネ逝去〟の報がファイーズ要塞に駐留していたフィラックのも元へ届いた。
アレクビューは、ハイネが逝去した際に、
「さて、これでワシは一生誰かを抱くことができなくなった。あのお転婆が剣や槍を振り回し、ワシを襲撃したところで大した脅威にはならんが、化けて出られてはワシとてどうすることもできんからな」
アレクビューは大勢の前で笑いながら、そう言った。
それに対し、居合わせた者も笑って返したが、アレクビューを含め、心のそこから笑っている者などいなかった。
イムレッヤ帝国軍の侵攻はなかった。
総大将のエルメックが、喪中の相手と戦うことを潔しとしなかったのだ。
ハイネ・アーレの死はシャマタル独立同盟全体を悲しませた。アレクビューは、ハイネ・アーレが残した遺言状の一枚を公表した。その内容は、
『私、ハイネ・アーレの死に対する一切の殉死を禁ずる』
というものだった。
「いささか口を動かし過ぎました」
フィラックは杯に残っていた酒を飲み干した。
「女好きとやきもち焼きか、とてもじゃないが、シャマタル独立の偉人伝には、書けないことだな」
グリフィードが笑いながら言う。
「ええ、ですけど人間らしい話でしたね。私は好きですよ、完璧な人間など味気ないだけですから」
ユリアーナは、「でも悲しい結末ですね」と言った。それに対し、誰も否定しなかった。
そんな中、クラナが、
「男性が一人の女性だけを愛するのは難しいのでしょうか?」
とかなりずれたところに注目した。
「ネジエニグ嬢は何をもって愛の基準にしたのでしょうか?」
ルピンが意地悪そうな表情を浮かべていた。
「そ、それは…………その…………」
クラナは赤面する。
「殿方が複数の女性と関係を持つなどよくある話です」
そうですよね……、と悲しそうにクラナは言う。
「けど、一人の女性を愛し続けるっていうのは、素敵なことだと思うよ」
リョウが言った。
そうですよね! と今度は嬉しそうにクラナは言う。
「まぁ、リョウさんのように鈍感な人には、無縁な話ですよね」
「鈍感? それってどういうこと?」
「自分で考えてください。私はもう寝ます」
そう言うとルピンは、席を外してしまった。
「ルピンの言葉の意味、クラナは分かったかい?」
クラナは俯き、首を横に振った。
「そ、それよりもリョウさん、お酒って、おいしいんですね!」
クラナは話を強引に逸らした。
「まだ数回した飲んでいないのにそんな感想が言えるって、君は酒豪なのかもね」
実はクラナの飲んでいる酒には、かなりの水が入っていた。それはフィラックとユリアーナの話し合いの結果だった。
「リョウさんが飲んでいるお酒って私のと違いますよね? 一口ください」
そう言って、リョウの杯をクラナが取った。
「あっ、やめた方が…………」
この場合、酒の強さを確認しなかった方が悪いのか。それを渡してしまった方が悪いのか。意見が分かれるところである。
確定していることは、それを飲んだクラナが目を回し、昏倒してしまったことだけである。
「ク、クラナ様!?」
ユリアーナが心配そうに近づくと、クラナは寝息を立てていた。
「疲れもあったんだろうね」
リョウは転がっている杯を拾って、新たに酒を注いだ。
「えっと、私は…………」
クラナが目覚めた時、辺りはまだ暗かった。
まだ飲み慣れない酒のせいで、頭痛が酷い。喉も渇いていたので、水を求めて部屋の外へ出る。宿舎の外には井戸があり、そこでクラナは給水した。少しだけ気分がよくなり、宿舎へ戻る。暗く静かな廊下を進んでいると、ある部屋から声がした。それが知らない声だったら、素通りしたかもしれない。
しかし、聞こえてきた声はクラナがよく知る声だった。
「ここは確か、ルピンさんとユリアーナさんの部屋ですよね」
ユリアーナは大部屋で酔い潰れているので、この部屋にはいない。中にいるのはルピンだけのはずだったが、聞こえてきた声はルピンのものではない。
クラナはそっと扉を開ける。
「こんな夜中に忍び込むとは非常識ですね、ネジエニグ嬢」
ルピンの鋭い声が飛んできた。
「す、すいません。でも、この部屋から…………!」
暗闇にいたクラナの眼は、すっかりそれに慣れ、ルピンが誰を抱きしめているか、すぐに分かった。
「ごめんなさい、ごめんなさい…………」
リョウは寝言で呟く。汗びっしょりで表情は苦しそうだった。
「自分の作戦が成功した後はいつもこうなるのです」
ルピンは母性に似た眼差しをリョウに向ける。頭を優しく撫でた。
クラナは何も言えなかった。
「失望しました? いつも飄々としているリョウさんのこんな姿を見て」
「私は…………」
「リョウさんは元々、この世界の人間じゃありません。適用しているようで、無理をしているのです。特に人がたくさん死んだ日の夜は、得意でもない酒を多く取って、酔い潰れるように寝ます。そして、魘されています。それでも以前よりは良くなったんですよ」
「私、リョウさんに頼るばかりで何もしてあげられませんでした。今からでもやれることはありますか?」
同情や偽善からではなく、純粋な感謝の気持ちから出た言葉だった。ルピンはそれを理解する。
「なら、私の代わりにリョウさんの側にいてみますか?」
「えっ?」
「私も疲れているので一人で寝たいのです。ですが、この状態のリョウさんを一人にするのは心配なので、私の代わりにあなたがリョウさんに付き添ってはいかがですか?」
「いいのですか?」
「いいも何も、私の手間が少なくなりますから」
そう言うと、ルピンは立ち上がる。
「言っておきますが、ロマンチックなことにはなりませんよ。覚悟しておいた方がいいです」
ルピンは部屋を出ていった。
クラナは、ルピンのようにリョウと沿い寝をする。
「リョ、リョウさんの顔がこんなに近くに…………」
クラナは顔を赤くする。好奇心から、リョウの顔に手を伸ばそうとした。
「きゃっ!」
その手をリョウが掴む。クラナはリョウが目を覚ましてしまったのだと思ったが、違った。
「行かないで、何処にも行かないで…………僕を一人にしないで…………」
「痛い…………」
リョウの爪が、クラナの手の甲に食い込んだ。生傷、とルピンが言った意味をすぐに理解する。
「帰りたい…………元の世界に帰りたいよ…………人殺しなんてしたくないよ…………」
「リョウさん…………」
クラナが司令官になった時に「君の負担を僕も受ける」とリョウは言った。なら、リョウの苦悩を少しでも分かってあげるのが、当然の行為なのではないかと、クラナは思う。
リョウはクラナの首元に噛みついた。クラナは悲鳴をあげそうになる。声を上げないようにベッドの敷布を噛んだ。
(生傷の一つや二つなど取るに足らないことです…………)
クラナはリョウを抱きしめた。
ルピンはクラナの献身的な姿を部屋の外から見ていた。クラナが何をされても声を上げなかったのを確認すると立ち去ろうとする。
「何処へ行くつもりだ。お前の部屋はここだろ?」
「グリフィード、酔い潰れたんじゃなかったのですか…………リョウさんの世話をネジエニグ嬢に任せて、私は空いている部屋でぐっすり眠るつもりですよ。私も疲れたので。リョウさんの相手ばかりはしてられませんからね。ネジエニグ嬢には感謝しないといけませんね」
無表情で、無感情に言う。
「ルピン、お前はそれでいいのか?」
「ええ、いいですよ。良いに決まっています。私の体でリョウさんの相手をするのに命懸けでしたから。ネジエニグ嬢なら、リョウさんがどんなに暴れても対処できるでしょう」
「そういうことを言っているんじゃない。俺は…………」
「すいませんねぇ。私は疲れているので、問答は今度にしてください」
ルピンはそう言うと、立ち去った。
「まったく不器用な奴だ…………」
グリフィードは呟いた。
「あれ、なんで僕はルピンの部屋で寝ているんだっけ?」
目を覚ました時、リョウは一人だった。酒を飲んで、目が覚めるとこういうことが良くある。前にルピンに訊ねたら、
「覚えてないんですか? リョウさんは酔っぱらって、私を愚痴に付き合わせた挙句、寝てしまったんですよ」
と言われた。リョウ自身、戦の後、精神不安になる自覚はあったので、その説明で納得した。
「僕、またやっちゃたんだ…………」
自己嫌悪をしながら、顔を洗う為に井戸へと向かう。
そこにはクラナがいた。
「あっ、その、リョウさん、おはようございます」
クラナは顔を赤くしながら、挨拶をした。
「おはよう。どうしたんだい?」
顔が赤いよ、またそんなことを言われるとクラナは思った。
「怪我してるじゃないか」
「えっ?」
「だって、首とか腕に包帯を。どうしたんだい? 昨日の戦闘でかい?」
「違います! えっと、これは…………転びました。そう転んだんです。昨日、夜中に目が覚めて、喉が渇いたので井戸に向かう途中に転びました!」
クラナの動機が早くなる。リョウが不審に思うのではないかと心配した。
「転んだ? そうかい、気を付けなよ」
そう言って、リョウはクラナの包帯の理由を納得したようだった。
「さてと今日も頑張りますか」
リョウは伸びをしながら、軽い口調で言う。
その姿を見て、クラナは複雑な気持ちになった。リョウはやりたくないことをやっている。でも、止めさせられない。リョウがいなくなったら、恐らくファイーズ要塞は陥落する。そんなことになれば、シャマタルは終わりである。
クラナがこの時ほど、非力を悔やんだことはなかった。
「リョウさん!」
「な、なんだい?」
「私に出来ることがあるなら何でも言ってください! 私はリョウさんの力になりたいです。手助けがしたいです!」
クラナの中でいくつかの感情が大きくなった。