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大陸戦乱末の英雄伝説  作者: 楊泰隆Jr.
際会編
3/184

偽物の英雄

「こうするしかなかったのだ…………」

 アーサーンは呟く。部屋には彼しかいなかった。

 ドアを叩く音がした。

「誰だ?」

 アーサーンは剣を取る。誰かが訪ねてくる予定はない。

 扉が開いた。人数は五人。全員がフードを被っていた。先頭の一人が口を開く。

「ルピンと申します。イムレッヤ帝国の使いであなたの元へ来ました。この書状を」

 その一言で、アーサーンは警戒を解き、剣を収めた。

 これはルピンが書いた偽の書状である。

「ウルベル殿は本当に我々、ファイーズ要塞軍の安全を保証してくださるのだろうな?」

 偽の書状を読んだアーサーンは、ルピンが間者だと信じ込んだ。

「ええ、もちろんですとも」

 ウルベル、その名前をルピンは初めて聞いた。話し方からすると、この裏切りを仕組んだ首謀者だということは推測できる。

「イムニアは裏切りを嫌うと聞くが、その辺はどうなっている?」

「今回の件は中央が関わっております。フォデュース将軍は所詮は地方軍の統帥に過ぎません。中央の決定には従わざる得ないでしょう。確認のためにこれからの手順をあなたの口から聞きたいものですね」

 ルピンに誘われ、アーサーンはこれからの展開を説明した。

「他の兵士はともかく、フィラック・レウス様だけはどんな理由があろうと裏切りには荷担しないだろう。心苦しいが、死んでもらうほかあるまい」

「確かに私が裏切ることはないだろうな」

 フードの男の一人がしゃべった。

「フィラック様……」

 アーサーンの浅黒い肌が白くなる。

「アーサーン殿、私は失望した。あなたはシャマタルの宿将だと信じていた。裏切るのは命欲しか? それとも帝国から将軍にするとでも言われたか!?」

 フィラックはフードを脱いだ。隻眼が鋭くアーサーンを見据えていた。

「そうだとしたら、なんですか?」

 アーサーンは剣を抜く。

「何のつもりだ?」

「簡単なことだ。この場であなた方を殺せば、後はなんとでもなる」

「愚かな…………血迷ったか!」

 フィラックも剣を抜こうとするが、それよりも早く剣を構えていた者がいた。

「私が相手になるわ」

 ユリアーナが立ちはだかる。

「お前はゼピュノーラの小娘か!? 俺と剣でやり合うつもりか!」

 そのつもりよ、ユリアーナは答える。

「ふん、女風情が俺に勝てると思うなよ!」

 アーサーンは剣を振った。

 ユリアーナはそれを難なく避ける。

「そう言って私に負けていった男がどれだけいたことかしら」

 ユリアーナの剣技は鮮やかだった。初撃でアーサーンの剣を叩き落とし、喉元に剣を突き付ける。

「降参しなさい。あなたに勝ち目はないわ」

 アーサーンは顔を真っ赤にし、歯軋りをした。

「アーサーン殿、あなたはこのような裏切りに加担するような人ではなかった。何があなたをこのような愚行に走らせたのか?」

 フィラックは尋ねる。

「このような愚行? このような状況で他にとるべき行動があるというのか!」

 アーサーンは叫んだ。

「オロッツェで我々が一方的な敗戦を喫したのはなぜだか知っているか? 指揮系統の統一ができなかったからだ! 本来ならアレクビュー様が本隊を率いてオロッツェへ来てくださる予定だった。それが途中で病気になり、引き返してしまった。結果どうだ? ユーフ連隊長以下、多くの者が戦死した。私がなんとか敗残兵をまとめて敵の追撃を振り切った。生きて戦場を離脱できたのは半数だ。このような大惨事の引き金になった原因は、総帥にある! そして今回、このファイーズが落とされれば、シャマタルは終わりだというのに援軍はたったの三千? ふざけるな! 首都には未だ、精鋭一万が駐留していると聞く。今その軍団を投じないとはどういうことだ! 俺には部下を、民を守る義務がある。イムレッヤ帝国は俺が裏切れば、部下とファイーズ要塞にいる民衆の命を保証すると言ってきた。俺の判断は、負けて殺されるか奴隷にされるよりまともな判断であろう!」

「だから裏切ったか?」

 フィラックが鋭さを失った隻眼で言う。

「ああ、そうだ! 何が悪い?」

「なるほど。ファイーズ要塞が落とされれば、シャマタルが滅亡という状況で三千の寡兵が援軍では、確かに悪手だと指摘されても反論できないでしょうね。アレクビュー様は判断を誤った、この点に関して、私とリョウさんはあなたと同意見です。あなたに悪い点があるとすれば、計画が外部に漏れたことでしょう」

 ルピンの言い方は冷たかった。

「なんだと?」

「謀略が失敗した。あなたは敗北したのです。敗者が賊軍になるのは世の常ですから」

「小娘に何が分かるか!」

 アーサーンはユリアーナに突き付けられていた剣の刀身を握る。そんなことをすれば、掌は無事では済まないが、意表を突かれたユリアーナが一瞬硬直してしまった。加えて力の差は明らかだった。純粋な剣技ならユリアーナの方が上だが、今はただの力比べ、ユリアーナが圧倒的に不利である。

「くっ…………!」

 ユリアーナは剣を奪われなかったが、体勢を大きく崩した。その隙にアーサーンがルピンに迫る。

「素顔を見せろ!」

 アーサーンは、ルピンのフードを掴み、そして引き千切った。 

 ルピンの青い髪と瞳が露わになる。

「…………貴様、その髪はヤハランか?」

 アーサーンはすぐにそう結論付けた。ルピンは驚き、咄嗟に誤魔化すことができなかった。

「その反応、やはりヤハランか! 俺はローエス神国の出身だ。その青い髪と瞳のことは嫌と言うほど、知っている。なるほど、ヤハランか。まだ生き残りがいたとはな。この魔女め!」

 アーサーンはルピンに襲いかかる。

 リョウは咄嗟にルピンの前に立った。リョウは武術が不得手である。数秒の時間稼ぎしかできないだろう。

(痛いのは嫌だな)

 リョウが呑気にそんなことを思っていると、さらにもう一人、割って入った。

「お嬢様?」

 抜き身の剣を握っていた。決意に満ちた表情だった。

「私の……私の友人に手を出すことは許しません!」

 彼女は剣を振った。アーサーンの右の肩口から左斜め下に線が入る。アーサーンは崩れ落ちた。

「ありがとう、助かったよ。お嬢様?」

 カラン、という音がした。剣が地面に落ちた音だ。クラナは倒れてしまった。人を斬るのは初めてだった。

「リョウさん、ネジエニグ嬢が…………」

 ルピンは責任を感じ、狼狽していた。

「心配ない。気絶しただけだよ」

「ごめん、リョウ。私がいてこんなことになるなんて」

「結果的に誰も死ななかった。それだけで十分だよ……アーサーンさんなんだけど、治療してくれないかな」

「生きていますね。ネジエニグ嬢は殺したくない理由があるから、わざと致命傷にしなかったのでしょう。分かりました。治療しましょう」

 ルピンが言った。



「ここは?」

 クラナが目を覚ましたのは夜だった。

「気が付いたかい?」

「リョウさん…………みんなは? それにアーサーンさんはどうなりましたか?」

「みんなはそれぞれやるべきことをやっているよ。どうも暇なのが僕だけでね。だから、こうやって君の側にいる。アーサーンさんはルピンが治療したよ。命に別条はない」

「そうですか…………」

「お嬢様、なんでアーサーンさんを生かしたんだい? 君の剣、初めてみたけどそこらへんの兵士よりも鋭かったよ。打ち損じということはないと思うんだけど」

「はい、私の意志でアーサーンさんを生かしました。彼は前線で戦っていたシャマタルの宿将です。今回の裏切りも私利私欲ではありません。それに帝国と戦うのに優秀な指揮官は一人でも多い方がいいですよね?」

「まぁそうだね。けど、君がそこまで考えていたとは」

「嘘です」

「えっ?」

「だから嘘です。今のは。本当の理由はただ殺したくなかった。人を殺したくなかった。たとえ、救いようのない大悪党でも私には殺せないと思います。………………こんな私に司令官なんて出来るでしょうか?」

「分からない。でも戦争に正義があると言って、殺人を正当化する司令官よりはましだと思うよ。人を殺したがらない司令官が大陸に一人くらいいてもいいんじゃないかな。それに君一人に全てを負わせはしないよ」

「…………ありがとうございます。少しだけ気持ちが楽になりました」

「お礼を言うのは僕の方だよ。助けてくれて、ありがとう。それに問題はこれからだ。ここから立て直すのは大変だよ」

「努力します。リョウさん、私はどうすればよろしいですか?」

「とりあえず、これを」

 リョウは書類を渡した。

「なんですか、これは?」

「演説原稿だよ。君は極秘裏に要塞内に潜入し、アーサーンの謀略を看破。そして、アーサーンさんに代わって、要塞司令官となり、帝国軍と戦う救世主、と役割があるからね。中々、良い筋書きだと思うよ」

「聞いただけで、胃が痛くなってきました…………」

「まぁ、すでに賽は投げてしまったからね。もう引き返せないよ。君も、僕たちも。僕に協力できることなら何でも言ってくれ。君の力になるよ」

「なんでも? 今、なんでもって言いましたよね?」

 クラナは目をキラキラさせた。

「あれ? なんだかすごい既視感だ」

 リョウは苦笑いをした。

「私のこと、名前で呼んでください」

「えっ、そんなことでいいの? 僕はもっととんでもないことを言われると思ったよ。ってことは、ネジエニグって呼べばいいのかな?」

「違います。クラナです。クラナって呼んでください」

「…………理由くらい聞いてもいいかな?」

「私、名前を呼ばれることって殆どないんです。みんな、お嬢様とか、お孫様とか、だからもっと名前で呼ばれたいのです」

「そんな理由? 僕にはよく分からないけど、分かった。君のことはこれからクラナって呼ぶよ。なんなら、グリフィードやルピンにも頼もうか」

「いえ、リョウさんだけでいいです!」

「? 君がその方がいいと言うならそう…………どうしたの? 顔が赤いよ。熱でもあるのかい?」

 クラナの顔はさらに赤くなり、「だ、大丈夫です!」と叫んで毛布に包まってしまった。

 そのことを後でルピンに話したら、

「昔から思っていましたが鈍感な男ですね、まったく」

という答えが返って来た。リョウにはまったく意味が分からなかった。



 アーサーンが目を覚ましたのは、丸一日経ってのことである。要塞内の混乱は、フィラックが抑えつけているが、いつ暴発してもおかしくなかった。

 昨日、アーサーンの部屋に乗り込んだメンバー、そこにグリフィードが加わり、アーサーンと面談をした。

「私を公開処刑にでもするつもりか?」

「これを見てください」とクラナはまとめられた紙の束をアーサーンに渡す。

「あなたの助命を求める嘆願書です。七千人分あります」

 この七千人とは、元々ファイーズ要塞に駐留していた七千人である。

「申し訳ありませんでした」

 クラナは深々と頭を下げた。

「これだけ兵士から信頼され、勇敢で、責任感に満ちた将を裏切りという道に追い込んだことを、祖父アレクビューに代わって謝罪します」

「謝罪?」

 アーサーンは呆気にとられた。

「ええ、謝罪です。もちろん謝れば許してもらえる、などとは思っていませんが、今は非常事態です。私に力を貸してください。私にはあなたの力が必要なのです。あなたには、一個連隊の指揮を任せたいと思います」

「裏切った私を登用するというのか? 裏切り者の私に全軍の半数を預けるというのか?」

「ええ、不満ですか?」

「不満だ。裏切り者は見せしめのために処刑すべき。それでこそ、軍全体の規律が保たれる」

「もしあなたを断罪すれば、兵士はあなたに追従するでしょう。そうなってはこのファイーズ要塞が落ちてしまいます。あなたには、あなたのことを信頼する兵士を指揮していただきたいのです」

「フィラック様の援軍を合わせても一万、これでは帝国の全軍と相対するには不足だ」

「まぁ、勝つことはできなくても追い払うことくらいはできるかな」

 リョウが口を挟んだ。

「大軍を展開できる平地ならともかく、街道は狭く、要塞は強固だ。一万の兵力でも戦える策はあるよ。まぁ、厳しい戦いにはなるだろうけどね」

「小僧、貴様は何者だ?」

「リョウと呼んでもらえればいい。一応、作戦参謀と名乗らせてもらおうかな」

「私はリョウさんより優秀な参謀を知りません」

 ルピンが簡潔に説明した。

「ヤハランの魔女にそこまで言わせるとは何者だ?」

「それはルピンの評価であって、僕自身は、そこまで自分が優秀だと思ったことはないけど、こんな状況で僕にできることがある。だから力を貸す。それだけのことだよ」

 アーサーンは初めにクラナを、次にリョウを見た。

「…………まぁいい、俺は負けた。敗者は勝者に追従するとしよう」

 あっさりと話が決着した。

 リョウは正直、拍子抜けする。

「アーサーンさん、失礼を承知で聞くけど、簡単に転向されると不安になるよ。まさか、また裏切るつもり?」

「小僧、そんなまっすぐな言い方をされて『ああ、そうだ』などと馬鹿正直に言う奴がいると思うか?」

「もっともな意見だね」

「リョウさん、アーサーンさんが裏切る可能性は、今のところないでしょう。ネジエニグ嬢がアーサーンさんを助命したと知れば、兵士たちは感謝します。兵たちを味方に付けられます。将は兵がいなければ何もできないのですから。アーサーンさんほど優秀な指揮官がそのような愚行に手を出すとは思えません」

「気に入らない物言いだが、その通りだ。…………一つ約束しろ」

「なんだい?」

「今後誰が司令官になるか、大体の察しはついているが、その者は敗戦の際、責任を取れ。俺や軍の上層部は仕方無いにしても、下級兵士や民間人まで処断されるようなことはないようにしろ。意味は分かるな?」

 リョウは何も言わなかった。この問いに答えるのは、リョウの役目ではないからだ。

「私でよければ、いくらでも責任をとります。私は決めたのです。英雄の孫でも、娘でもない。クラナという存在として生きると。そして、クラナとして死ぬと。ですから、アーサーンさん、私に力を貸してください!」

「それなら、私に敬称などつけるな。私が部下で、あなたが上司だ。私はあなたを仰ぐべき上司と思う限り、あなたの部下として生き、死んでやると誓う」

 それを聞いたリョウが口を開く。

「死なれちゃ困るけどね。それと小僧は勘弁してほしいな」

「クラナ様の心意気は分かった。リョウ、ヤハランの魔女に賞賛される用兵を見せてもらおうか」

 話がひと段落すると、ルピンがアーサーンの前に出る。

「あなたは私を殺さなくてよろしいのですか? ローエス神国の人間は信仰に熱く、神敵には容赦が無いと記憶しておりますが」

「ならその記憶に訂正を要求する。少数派もいるのだ。俺は神の供物を奪ったせいで、祖国を追われることになったのだからな。餓死しそうだった。目の前に食物がある。それを人間が喰って何が悪い。信仰よりまずは空腹をどうにかすることが大切だろう。お前もそう思わんか、ヤハランの魔女?」

「同感です。…………念のため言っておきますが、私の名前はルピンです。気が向いたらそっちで呼んでください」

「ルピン・ヤハランか…………同じ母国を持ち、お互い母国には帰れない身だ。どうせなら本当の名を聞きたいものだな」

「はい?」

 ルピンは、アーサーンの言葉の意味が本当に分からなかった。

「とぼけるな。ルピンとは二十年前に十才で歴史学者になった天才の名前だ。もし生きていれば、もう三十だろう」

「訂正がありますね。私が歴史学者になったのは一九年前です。だから私は二九歳です」

「二九歳? とてもそうは見えんが…………」

「ローエス神国から逃げて以降、悲惨な目に遭ったせいで成長期を逃してしまいました」

「ルピンの言うことは本当だ」

 なお信じられない、という顔をしていたアーサーンにグリフィードが口を開く。

「俺はこいつと十年来の付き合いになるが、見た目はほとんど変わっていない」

「本当に魔女なんじゃないのか?」

「本当に怒りますよ」

 ルピンとアーサーンの視線がぶつかった。

「…………まぁ、いい」

 そう言って、アーサーンが折れる。

「重要なのは過去ではなく、能力だ。簡単に俺の裏切りを見破った能力がある。それだけで今はいいだろう」

「私たちの話はこれくらいでいいでしょう」

 ルピンとアーサーンの話は決着する。

 グリフィード、ユリアーナも名乗る。ユリアーナは自己紹介の後に「また剣で勝負してもいいですよ」と言った。アーサーンは苦い顔をした。

「さて、僕たちはやるべきことをやるかな」

 その言葉に、クラナの表情が曇る。

「何かあるのか?」

 アーサーンが聞く。

「誰かさんのせいで混乱したファイーズ要塞に秩序を戻そうと思いまして」

 ルピンが答えた。

「では、私とユリアーナさんは化粧をしましょうか」

 ルピンは悪い笑顔を浮かべた。

「はぁ……気が進まないけど仕方ないわね」

 ユリアーナは癖のある栗色の髪を弄っていた。

 


 作戦統合本部舎の前には、兵士である者、兵士ない者、多くの人が集まっていた。

「アーサーン司令官が裏切ったというのは本当か!?」

「俺たちはどうなる!?」

「帝国に降伏するということか!?」

「非戦闘民の安全は保証してくれるのか!?」

「私たちはいいから子供たちだけでも安全な場所へ!」

 数え切れない声が大気を揺らしていた。

「統合作戦本部から人が出てくるぞ!」

 誰かの言葉で、怒号は沈黙する。

 クラナを先頭に、リョウ、フィラック、グリフィードらが姿を露わした。

 ルピンとユリアーナは居なかった。

 フィラックが前に出る。

「皆の者、聞け! 私はフィラック・レウスだ!」

 その名前を聞いた人々はどよめいた。引退していた『英雄の右腕』のことは、広く知られていた。

「今回の件とこれからについて、新たな要塞司令官、いや司令官代理から話がある!」

 フィラックは下がり、代わりにクラナが前に出た。

「こんなものでよかったか?」

 フィラックは小声で、リョウたちにしゃべりかけた。その問いには、リョウが答えた。

「さすがに場慣れしていますね。それに比べて、クラナは…………」

 クラナの足は遠目でも分かるくらい震えていた。

「大丈夫か…………」

 グリフィードの不安は直後、現実になった。

 クラナは躓き、リョウが用意した演説原稿をバラバラにしてしまった。

「やったな…………助け船が必要か?」

 グリフィードが前に出ようとする。

「ちょっと待って」

 リョウがそれを止める。

 クラナは深呼吸をしていた。そして、何かを呟く。

 それを見たグリフィードは笑った。

「ここからじゃ聞こえないや。グリフィードは解読できたのかい?」

「成せばなる何事も、だそうだ」

「そうかい。なら、僕らはもう少しだけ様子を見ようか。できれば出たくないし」

 クラナは前を向き、口を開けた。

「皆さん、私はクラナです。クラナ・ネジエニグです」

 その名前を聞いて、会場はフィラックの登場以上にどよめいた。

「初めにいっておきます。アーサーン司令官の処分は訓告ということにしました。兵士の方々は分かっているはずです。彼が私利私欲で裏切るような人ではないと。そして、何より彼の力がシャマタルには必要なのです。もう一度、シャマタルの為に戦ってくれることも承諾してくれました」

 これには兵士から安堵の声が漏れた。

「敵は強大です。我々には厳しい戦いが待っているでしょう。しかし、それは今回に限ったことではありません! 私たちの、シャマタルの歴史は苦難の連続でした。私のような若輩者がこのようなことを言うのは、恐れ多いことだと分かっています。ですが、いいえ、だからこそ言わせてください! 私たちは戦わなければならないのだと!! 父祖の代より守ってきたものを私たちも守るのです! 帝国に降伏すれば、文化を、誇りを、信念を、それらを全て捨ててしまえば、生き残れるかもしれません。ですが! 何者でも無く生きることは悲しいことです。それは若くして死ぬよりも…………」

 クラナの言葉は原稿になかった。クラナは自分の言葉で、人々に話しかける。

「私はここに宣言します! 私、クラナ・ネジエニグは祖父に代わり、常に前線に立ち、この身を敵の剣先に晒します! 兵士たちだけを死地に送り出すようなことは絶対にしません。だから、お願いします。シャマタル独立同盟を守るため、共に戦ってください!」

 場が静まり返った。

「どう思う?」とグリフィードがリョウに尋ねる。

「旗印としては悪くない。それにクラナは美少女だ。こんな子に頭を下げられたら、男はその気になるかもね。僕のいた世界でも、一人の少女が戦況を変えたなんて例があるからね」

「その少女はどうなった?」

「敵に捕まって、魔女と罵られ、公開処刑、けど国は助かって、後の世で聖女と崇められるようになった」

「色々と酷いな。死後の評価などになんの価値がある。後世の歴史家を楽しませるだけだろ」

「まったく同意見だね」

 リョウは苦笑いをした。

 誰も声を発さない。無言の空間だ。

「私は戦う」

 沈黙を破ったのは一人の女性だった。その場にいた全員の視線が集まった。女性は少女と手をつないでいた。二人の肌は白かった。

「私も、妹もシャマタル人です。帝国はシャマタル人を許さないでしょう。降伏したら、許してくれる? そんなこと信じられない! みんな、殺されるか奴隷にされるに決まっている。私はそんな運命を受れない。妹にだってそんな運命を背負わせたくない!」

 それを皮切りに人々は声を上げる。

「そうだ、徹底抗戦だ!」

「シャマタル万歳!」

「くたばれ、帝国軍!」

「独立の奇跡の再来を!」

 民衆の怒声が大気を揺るがした。

「すごい熱狂だな」

 グリフィードが言う。

「これで崩壊は防げたかな」

 リョウはホッとした。



 リョウたちは統合作戦本部内に戻った。

 クラナは倒れ込んだ。

「大丈夫かい?」

「もう足に力が入りません…………」

「民衆の前でそうならなくて良かったよ」

「自分でもそう思います。発表原稿の件はすいませんでした」

「いいや、いいよ。成功したらな、その過程に拘るほど余裕のある状況じゃないからね。しかし、まぁ、大胆なことを言うね」

「うう………………半分くらい覚えていません…………どうして、私はあんな偉そうなことを言ったのでしょうか…………」

「全くだらしないですね」

 容赦のない言葉が聞こえた。ルピンである。

 化粧し、シャマタル人と同じような色の肌だった。

「大丈夫ですか、クラナ様?」

 続いて、ユリアーナも現れた。ルピンと同じような化粧をしていた。

「火付け役、お疲れ様」

「ばれたらと思うと恐ろしいわね」

 二人は今まで民衆の中に居た。それどころか、沈黙を破った女性こそがユリアーナだった。

「私たちは詰まっている水の流れを良くしただけですよ」

 ルピンは平然と言う。

「名演技だったよ」

「そうかしら?」

「まぁ、ユリアーナさんの言葉から出ていた感情は自分が生き残りたいというよりは、恩を返したいというものでしたけど」

「そこまで細かいことを読まないでくれるかしら?」

「それに私を妹って…………不本意ですが『娘』と言った方が周りに与える影響も大きかったでしょうに」

「まだあんた(見た目)くらいの子供がいる歳じゃないわよ!」

「作ればいいじゃないですか」

「簡単に言わないでよ。こんな生活をしているのに子供なんて育てられるわけないでしょ」

「でも、ユリアーナさんはいずれ国を再興するのですよね? でしたら、跡継ぎは早く作った方がいいのではないですか?」

 クラナが言った。

「ええ、まぁ、そうですね…………」

 ユリアーナは曖昧な返事をする。

「ゼピュノーラ殿」

 フィラックが言った。隻眼が鋭く光った。

「私はあなた方を全面的に信頼致します。ですから、本当のことを話して頂けませんか? それによって、我々があなた方を蔑ろにするようなことはないと誓いますので」

 フィラックは頭を下げた。

「フィラック様は気付いていたのですか?」

「何が、と言うわけではありませんが、違和感はありました」

「そうですか。そうですよね。みんなもいいかしら?」

 ユリアーナはリョウ、グリフィード、ルピンに了解を取る。

「真面目だね」

「馬鹿真面目だな」

「馬鹿な女ですね」

という三者三様の答えが返ってきた。

「あんたたちねぇ…………それにルピン、それだと意味が変わってない!? まぁいいわ、クラナ様、初めに謝っておきます。私はもうゼピュノーラ公国とは一切関係がないのです。それに私は団長ではなく、副団長です。団長はグリフィードです」

 ユリアーナはグリフィードを見た。

「えっ? で、でも、ユリアーナさんはユリアーナさんですよね!?」

「はい、そうです。でも獅子の団は傭兵団です。この時期にシャマタルへ味方する自然な口実に私の昔の地位とか関係を利用しました。本当に申し訳ありません」

 ユリアーナは沈黙し、考える。そして、口を開いた。

「何か変わるのですか?」

「えっ?」

「ユリアーナさんがゼピュノーラ公国のユリアーナさんではなく、傭兵団のユリアーナさんだと何かが変わるのでしょうか?」

「いえ、何も変わりません」

「なら、いいじゃないですか。そんな深刻そうな表情をしないでください」

 クラナはユリアーナの手を取った。

「ありがとうございます…………」

 ユリアーナは頭を下げる。

「ちょっとフィラックさん」

「なにかね?」

 クラナとユリアーナの隅で、リョウがフィラックに話しかけた。

「本当はクラナのためにこの状況を作ったんじゃないんですか?」

「ゼピュノーラ殿が時々後ろめたそうな表情をしているのが、目に入ったので、それがなんなのか気になっただけだな。戦いの前に心に不安があるようでは、集中できんだろ」

「さすがは年長者ですね。僕ら共々よろしくお願いします」

 リョウは頭を下げる。

「あ、あのリョウさん」

「なんだい?」

 クラナがリョウに話しかける。

「リョウさんたちに軍議への参加を要請してもよろしいですか?」

「思い切った提案をするね。うん、喜んで力になるよ」

 リョウは承諾した。

「悪いが、俺は断らせてもらう」

「申し訳ないけど私もお断りいたします」

 グリフィードとユリアーナは拒否を示した。

「考えても見ろ。わけのわからん連中がいきなり増えたら、古参の連中はどう思う? あんまり内部に軋轢を作りたくはないからな」

「私にはリョウほど用兵の心得があるわけでも、ルピンほど情報戦に強いわけでもないので、いるだけになるでしょうし、あんまり新入りの私たちの集団が軍議に多く参加するのも良くないと思います」

「で、では、ルピンさんはどうでしょうか?」

「あまり表に出るのは好きではありません。そもそも、私はこの戦争に参加するのは反対…………」

「いいぞ、使ってくれ」

「ええ、どうぞ。リョウ共々、首から上しか役に立たない二人だから存分に使ってちょうだい」

 獅子の団の団長と副団長が揃って、ルピンの『貸し出し』を承認した。

「そうですか、そうですか。私の意見は無視ですか。まぁ、私の意見が通ることの方が少ないですけどね!」

 ルピンはムスッとする。

「ルピン、拗ねるなって、どうせなんだかんだで協力してくれんだろ~~」

 リョウはルピンを抱きしめた。

「ユリアーナさん、『これ』を排除してくれませんか?」

 ルピンは不快そうに言った。

「リョウ、あんたも懲りないわね」

 ユリアーナは、リョウの頭を剣の柄で思いっきり叩いた。

「何すんだよ。唯一役に立つ頭までやられたどうすんだ!」

「うっさいわね、あんたの頭はとっくにやられてるじゃない」

 ルピンが頷く。

 かくしてファイーズ要塞で起こった内憂は解決した。しかし、大きな外患はすぐそこまえ迫っている。戦争はまだなにも始めっていない。

 また、内憂が全て取り除かれたわけではない。

(これでクラナが実質司令官になった。クラナはこの重圧に堪えられえるだろうか? 一七歳のクラナには重すぎる権限だ。押し潰されないだろうか?)

 リョウは心配せずにはいられなかった。

「ところでネジエニグ嬢」

「な、何でしょうか?」

「ふと気になったのですが、いつからリョウさんにクラナと呼ばれているのですか?」

「えっと、それは…………昨日、私が目を覚ましてからです。私が呼んでほしいとお願いしました」

 クラナは赤くなる。

「そうですか。昨日からですか。結構大胆ですね」

 ルピンにそう指摘されるとクラナはさらに赤くなった。

「あれ、そういえば、その話、ルピンにはしなかったっけ?」

「そうでしたっけ? 忘れてしまいました」

 ルピンは分かりやすく惚けた。



「要塞に籠っているだけでは敵に嘗められる。隙があれば、積極的に打って出るべきだ!」

「いいや、兵力が違いすぎる。防御を徹底するべきだ!」

 軍議は混乱した。

 基本方針は防御。それをどう行うかで意見がまとまらない。

 要塞内に留まり、籠城に専念するのか。

 隙があれば、要塞外に出て敵に損害を与えるのか。

 リョウとルピンは軍議に呼ばれたといえ、末席。皆の目には止まらない。

 クラナもどうすればいいか、戸惑うばかりだった。フィラックとアーサーンは沈黙している。

「全く、軍議をすると言うから来てみれば、これではただ時間を浪費しているだけですね」

 ルピンの挑発的な一言で、全員が言い争うのをやめた。

「おい、小娘、今なんと言った!?」

「大きな声を出さなくて聞こえていますよ。時間を浪費しているだけと言ったのです。そこのあなた」

 ルピンは怒声を浴びせた士官を指差す。

「先ほど打って出る、と申されましが、どのような戦術を持って圧倒的多数で迫る帝国軍に対して、戦果を上げるつもりですか?」

「敵がいかなる大軍といえど、一人一人が決死に戦うのみ!」

「馬鹿ですね」

「なんだと!!」

「だから、大きな声を出さないでくれますか。馬鹿だと言ったのです。決死に戦う、戦争なのですからそれは当たり前です。そして、それは最前列に立つ兵士たちの役割です。あなたは兵士に指示を出す立場なのですよ。具体的にどのような指示を出すのですか? 私はそれを聞いているのです」

「そ、それは…………」

「必死に戦えば勝てる? 子供に言い聞かせるのではないのですから、もっとマシなことを言ってください。戦いにおいて、数が多いことは圧倒的に有利なのですよ。それをひっくり返すためには知略が必要です」

「…………………!!」

 男はさらに何か言い返そうとするが、言葉が見つからなかった。

「ふん、だから防御に徹するが正しいのだ!」

 一人の士官が勝ち誇ったように言う。

「あなた」

 ルピンが今度はその男を指差す。

「防御と言いますが、どうするつもりですか?」

「どうするも何も要塞内に籠もり戦うのだ」

「では、敵がこの要塞に全軍の半数をおいて、残りがシャマタルへ侵攻した場合どうしますか?」

「なんだと?」

「敵が大軍の優位を使って、昼夜を問わず攻め込んできたらどうしますか?」

「そ、それは…………」

「敵が被害を度外視して、力攻めを仕掛けてきたらどうしますか?」

「………………」

 男は何も言えなくなってしまった。

「守っていれば大丈夫、そんなことで思考を停止していれば、この要塞は落ちますよ。攻めるより、守る方が考えることが多いのですから」

 ルピンは禁句を平気で言う。

「小娘、偉そうなことなら誰にでも言える!」

 別の男が叫んだ。

「そこまで言うなら、おまえの考えを聞かせろ!」

 そうだ、言ってみろ! といくつもの声がルピンに浴びせられた。

 ルピンは笑った。

「ええ、良いですよ。しかし、それは私より良策を持っている人に任せましょう。リョウさん、お願いできますか?」

 言い終えると、ルピンは座る。

「発言の場は作りましたよ」

 ルピンは小声でそう言った。

「ずいぶんと熱い視線を感じるけどね」

 リョウは面倒くさそうに立ち上がり、深呼吸をする。そして口を開いた。

「イムレッヤに情報を流してほしい。城を守る兵は一万で、司令官は戦の経験がない少女だと、ね。それから内通者が居たせいで兵士の士気は低く、軍は今にも崩壊しそうだと」

「それに何の意味がある?」

 言ったのはアーサーンだった。彼が発言したことで他の士官は沈黙する。

 アーサーンなりの助け船だった。

「情報は偽物だけが相手に不利益をもたらすとは限らない。正確な情報だから起こる不利益もある。この情報を聞いた敵は多少なり気が緩むはずだ。その隙が大損害を与える好機になる。僕らは戦場で戦いを始めるんじゃ無い。今から戦いを始めるんだよ」

「一つ、注文を付けてもいいでしょうか?」

 ルピンが言う。

 軍議に参加した人々は固まる。ルピンの言葉は意外だった。予想外だった。

「打って出ましょう。初戦は街道で戦いましょう」

「理由は?」

「勝利がほしいのです。軍はなんとかまとまっていますが、不安が燻っています。それを払拭するために勝ちが必要なのです。勝算もあります」

「聞かせてくれるかな」

「帝国から進軍してきている軍は現在三個軍団、将軍はフェルター、ガリッター、エルメックなのですが、エルメック軍団は出立が遅れ、ガリッター軍団も、フェルター軍団と足並みを揃えることが出来ていません。こちらが急ぎ、出撃すれば、フェルター軍団とだけの戦闘に持ち込めます」

「各個撃破か。だけど、数は互角だよ」

「ええ、互角ならどうにか出来るでしょう。リョウさんなら」

「無茶を言うなぁ………………こういうのはどうだろう」

 リョウはフェルター軍団を打ち破る策を説明した。

「フェルター将軍の性格を利用する。アーサーンさん、この作戦は成功しそうかな? あなたはフェルター将軍と直接戦ったのですよね」

 ここでアーサーンが首を縦に振らないと恐らく、この作戦は実行されないだろう。

「フェルター軍団の突破力は驚異だが、やってみる価値はある。フィラック様はどうだろうか?」

「初めてアーサーン殿に賛同できる」

 二人がリョウの作戦を肯定した。それ以上に強力な後押しは無い。

「司令官、作戦の許可がほしいだけど良いかな?」

 半ば空気と化していたクラナに、リョウが了承を求める。

「えっと、は、はい。お願いします」

 そして、明日、要塞を出撃することが決定した。

 軍議が終わった後、ほとんどの者が準備のために退出する中、クラナは残っていた。

「お疲れ様」

 リョウが近づく。

「いえ、私は何もしていません」

「本当に何もしていない人が、その言葉を使うと腹が立ちますね」

 ルピンは相変わらず、クラナに厳しかった。

「言い返せません…………」

 クラナは落ち込む。

「まぁ、今はお飾りで構わないよ。今から色々を学べばいい。それよりクラナ、この後、僕らのところへ来てくれるかい? フィラックさんやアーサーンさんにも声はかけてあるんだけど」

「大丈夫です。でもどうしてですか?」

「作戦の中で言ってなかったことがあるんだよ。言ったら、恐らく怒声が飛んできただろうからね。だから、秘密裏に、姑息にお願いしようと思ってね」



「街道で戦う? また無茶を…………」

 ユリアーナは頭を抱える。

「で、勝ち目はあるのか?」

 グリフィードが尋ねた。

「まぁね。勝利の鍵は君かな」

「ほう」

 グリフィードは笑う。

「フィラックさん、アーサーンさん、実はさっき言っていなかったことがあるんです」

 フィラックとアーサーンは口を揃えて「なんだ?」と尋ねる。

「三百の騎兵を僕ら、厳密にはグリフィードに渡してほしいんだ」

 この頼みに対して、二人は即答をしなかった。

「グリフィードさんには、すでに五十の兵が従っています。それでは不足ですか?」

 沈黙を破ったのはクラナだった。

「ああ、不足だね。正直なことを言えば、僕はグリフィードには百万の大軍を指揮してもらいたい。グリフィードにはそれだけの器量があると思っているからね。実績のない者に貴重な兵を預けるのは不安かもしれないけどグリフィードには才能があるんだ。僕の言葉を信じてほしい」

 リョウは頭を下げた。

「分かりました」

 フィラックが言う。

「フィラック様!」

 アーサーンが異論を口にしようとした。

「アーサーン殿、私はこの者たちに救われたようなものだ」

 フィラックは笑った。アーサーンは言葉に詰まる。

「それにリョウ殿やヤハラン殿には才能がある。ゼピュノーラ殿の人となりは知っている。彼らを束ねる青年に投資するのは悪い話では無い。そうは思わんか?」

「…………分かりました」

「ありがとうございます」

 リョウは頭を下げた。

「まったく、お前は『僕の能力を過信しないでほしい』とか言っているくせに俺の能力は過信し過ぎだ」

 グリフィードは笑った。

「過信なんてしてないよ。妥当だ」

「まぁいい。できる限りのことはしよう」

「それからルピン、純白の外套を三百着、都合出来ないかな?」

「何に使うのですか?」

「グリフィードの部隊には防具の上からそれを羽織ってもらう」

「そんなことをすれば、戦場で目立ちますよ」

「ああ、それが狙いさ」

「…………リョウさんの意図をすべて察することはできませんが、了解しました」

 ファイーズ要塞軍は、三つの部隊に分けられた。

 一つ目は、アーサーン連隊。イムレッヤ帝国の侵攻を最前線で支えてきた精鋭で構成されている。

 二つ目は、フィラック連隊。これは首都より派遣された増援部隊とファイーズ要塞駐留兵の混成団である。

 三つ目は、三百のグリフィード騎兵隊。リョウは、これを白獅子隊と命名した。



 その日の夜、リョウは眠れなかった。これが興奮からなのか、不安からなのか、リョウ自身は分からなかった。もしかしたら、両方かもしれない。

 リョウが外を歩いていると人影を見つけた。近づくと知っている顔だった。

「クラナ、どうしたんだい?」

「リョウさん……私、明日のことが不安で、一度は横になったのですが、寝付けず、こうして外の風にあっていました。…………リョウさんはどうしたのですか?」

 同じようなものだよ、とリョウは返した。

「おじい様は誰もが認める英雄です。父や母も英雄だったと聞いています」

 早世してしまったクラナの父、名前はドワリオという。フェーザ連邦内のアスバハ、ピュシア、カデュパフという三カ国が、フェーザ連邦中央の命令を無視し、五万の大軍を持ってシャマタルへ侵攻した際、ドワリオはシャマタル独立同盟軍の参謀としてこの戦いに参加していた。ドワリオの妻であるカリンも連隊長とした戦いに参加した。シャマタル独立同盟軍の総大将はボスリュー・グーエンキム。総兵力は三万だった。

 一方、アレクビューは三万の兵士とともにファイーズ要塞へ向かった。シャマタルはイムレッヤと慢性的な戦争状態にある。シャマタル独立同盟がフェーザ連邦と対峙している状況を好機とみて攻めて来ないとも限らない。アレクビュー、ボスリューの二人は、兵力分散と知りつつも二正面作戦を取るしかなかった。結局のところ、イムレッヤ帝国軍の侵攻はなかった。第一の理由は、当時イムレッヤは帝位の相続問題で内乱状態になっていた。第二の理由は、シャマタル方面司令官エルメックは、シャマタル独立同盟と闘いながらも、窮したシャマタル独立同盟を討つことを潔しとはしなかった。

 理解しがたい軍事ロマンチシズムだ、と思いつつも長い戦争状態にあれば、そういったことも起こるのだろう、とリョウは納得した。理解できないが、納得できる、おかしな言い方だ、とリョウは思った。

 とにかくファイーズ街道方面での戦闘はなかった。

 しかし、フェーザ連邦が侵攻してきたザーンラープ街道はそういうわけにはいかなかった。両軍はランオ平原で激突した。シャマタル史に名高いランオ平原会戦である。戦いは両軍総力戦。激戦が繰り広げられた。戦いの結末は、連合軍の連携の不備を生じさせたドワリオの策によって、シャマタル独立同盟軍の大勝で幕を閉じる。特にカリンの働きは凄まじく、ピュシアの総大将を初め、二十を超す首級を上げた。連合軍の半数は祖国へ帰ることが叶わなかった。ドワリオは英雄の息子では無く、英雄になった。カリンと合わせ、英雄夫婦と呼ばれた。

――――その期間はあまりにも短かった。ドワリオは半年後死んだ。原因はランオ平原会戦で受けた傷だった。享年二十歳。これには多くの者が涙した。特にアレクビューは唯一の跡継ぎを失ったショックから、ドワリオの葬儀の後、三日間、誰とも会わずに自室に籠った。その時すでにドワリオの妻、カリンは、クラナを身籠っていた。これをアレクビューが知った時、大層喜んだ。民衆も喚起した。

 英雄の血が絶えることがなかった、と。

 カリンは出産後、姿を消す。

『私のお役目を終わりにさせて頂きたく思います。私はこれから、愛すべき者へ会いに行くつもりです。クラナのことをよろしくお願い致します』

 失踪したカリンの部屋から、そんな手紙が見つかった。カリンを探そうとする者は誰もいなかった。

 十七年前の出来事である。

「おじい様は英雄です。お父様やお母様も英雄だったのでしょう。ですが、私は違います。血などで人間の優劣が決まるはずありません」

「それには激しく同意」

「ですよね…………私は不安です。私は英雄の娘や孫娘であって、英雄ではないのです。私は好奇の眼の中で育ってきました。屋敷の者たちは皆、私におじい様や両親の武勇伝、英雄譚を話してくれます。最後の言葉いつも『そんな聡明な祖父や両親を持ったクラナ様の将来が楽しみです』で締め括られます。みんな、私を英雄の孫や娘としてしか見てくれない。私自身を見てくれない。私はうんざりしていました。フィラック、フィーラさん、ルパちゃんは違いましたけど、その他の大勢はそんな感じでした。おじい様のことは好きです。でも、あの屋敷は嫌いです」

「クラナ、もしかして君は屋敷から出たかっただけ?」

 ルピンが、つまらない理由だと言ったのにも納得がいく。

 クラナは、しまった、という表情をしていた。

「…………はい、私はあの屋敷以外の場所へ行ってみたかったのです。それに今のシャマタルの状況は知っています。不謹慎な話ですが、このままシャマタルが滅びれば、私の一生は、あの屋敷の中で完結することになってしまいます。英雄の孫や娘で終わってしまう。それは嫌だったのです。少しでもいいから、外の世界を見てみたかった。そして、英雄の孫でも、娘でもない自分を、私の存在を実感してみたかったのです」

「で、感想は?」

「不安です。怖いです。裏切り、敵の大軍、それ以外にも色々なことが、屋敷にいた時にはなかったことばかりです」

「後悔は?」とリョウは尋ねた。

「ありません」とクラナは即答する。

「あの屋敷で何も成さずに一生を終えるくらいなら、利用されるだけでも、傀儡でもかまいません。最初は戸惑いましたけど、今は気持ちの整理が終わっています。リョウさんは私の願いを叶えてくれました。敵に捕まり、処刑されることになっても私はもう満足なのです。外の世界で死ねるなら、ファイーズ要塞でも、戦場でも、処刑台でもいいです。だってそれは私の意思で選んだ結果なのですから」

「僕がそんなことはさせない!」

 普段、飄々としているリョウが声を上げた。

 クラナは驚いた。

 リョウはまだこの世界の命の軽さに慣れない。昨日まで一緒に食事をしていた仲間が次の日には死ぬ。

 これに慣れた時、自分は元の世界に帰る権利を失うのだ、とリョウは考えている。

「リョウさん?」

「…………ごめん。だけど、死ぬなんて簡単に言わないでくれないかな。人間は最後の一瞬まで足掻くべきだと思うよ」

 リョウは、クラナに詰め寄った。

「わ、分かりました。もう言いませんから! リョ、リョウさん、顔が近いです」

 クラナは紅潮した。両手の平を自分の熱くなった頬に当てる。

「…………ごめん」

 開戦前夜はこうして更けて行く。



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