出立前日、アレクビューとフィラック
前回の話の一日前の話です。
ファイーズ要塞へ向かう前の晩、アレクビューの屋敷にて。
「そうか、お前もファイーズ要塞へ行ってくれるか」
「退役した身ですので、私は何物にも縛られません。建前上は、ですが」
フィラックのファイーズ要塞行きは、本人の希望だったが、これを実現させたのはフェローの尽力があったからである。
実際、クラナの元に人材が集まるのを嫌った役人もいた。
しかし、それ以上にフィラックのファイーズ要塞行きを歓迎する役人が多かった。
現在のファイーズ要塞を臨時的に治めているのは、アーサーンである。
アーサーンは、理由があるにしろ裏切ろうとした経歴があった。本来なら、首都アーレ・ハイネに召喚し、その罪を問い、極刑にすべきことである。
それを行わなかったのは、戦勝の恩赦的なところがある。それに残り少ない優秀な指揮官を失うのは、シャマタル独立同盟全体から見ても避けなければならなかった。とはいえ、扱いづらく、心配な要素であるには違いない。
加えて、クラナが転属する。今は大人しいが、若すぎる英雄が何をするか、役人たちにとっては心配の種だった。
役人たちがフィラックに望んだことは、不安要素の多いファイーズ要塞の抑止力だった。
「確かにクラナも、アーサーンもお前の言葉なら聞くじゃろうし、何かあれば、皆がお前を頼るだろうな。だが、肝心なことを役人共は忘れておるな」
「大事なことですか?」
フィラックは首を傾げた。
「お前がファイーズ要塞の不安要素を扇動するということを考慮しておらん」
アレクビューは笑った。
フィラックがそんなことをしない、とアレクビューには分かりきっていた。
「まったく、信用されたものです。なぜでしょうな?」
「昔から問題のあるシャマタルの最高司令官をうまく操っていた功績が評価されたのではないか?」
「ええ、私もそう思います」
フィラックはかすかに笑った。
人にはあまり見せない表情である。
「すまんの。本当は戦争も終わり、退役してゆっくりしたいであろうに」
「お気になさらずに。若者に頼られるというのは、中々良いものです。それにアレクビュー様やエルメック様のように私より上の年齢の方が、未だ現役ですのに私が隠居というのも、考えてみれば情けない話です」
「エルメックか…………」
アレクビューが遠い目した。
「あやつがイムニアに付いた理由が今回の蜂起でよく分かった。もちろん、イムニア自身の才覚も評価していたのじゃろうが、それだけで靡くほどあやつは単純ではない。まさか、ヴェスパーレ皇子の血統が生き残っていたとはの。……………………ある式典でのことじゃ、馬鹿で気の使えん貴族が、エルメックの前で『何が、とは言いませんが、エルメック将軍は賢明な判断をされましたな』と笑いながら言った。一瞬空気が凍ったが、エルメックが『賢明で、最良の判断が出来たと思っております』と返したことでその場は、何も起こらんかったがの。しかし、あやつの後ろに回した手が硬く拳を握り、震えていたのを今でも覚えておる」
アレクビューの瞳は昔を懐かしんだ。
「お前はその右目のことで恨んでいるのでは無いか?」
フィラックが右目を負傷した第二次オロッツェ平原の戦い。またの名を双璧争覇戦と呼ばれる戦いである。二人の英雄がまともにぶつかった大激戦だった。
「戦いの結果ですので、恨んでなどおりません。寧ろ、隠居でき、平穏無事な生活を送れたことを感謝したいくらいです」
「フィーラという若く美人の妻も手に入れて、意外とやりおるの」
「何度、断っても付いてくるので仕方なかったのです」
フィラックは決まりが悪くなり、視線を逸らした。
アレクビューは笑う。
「話は変わるが、一つ、今回のことで聞いて良いかの?」
「何でしょうか?」
「なぜ、出発寸前まであの二人にファイーズ要塞行きを黙っていたのじゃ? 驚かせてやろうと思った、などと考えるお前でもあるまい?」
「念のためです」
「念のため?」
「恐らくですが、首都に居る間、私やクラナ様たちは監視されています。その監視の目の中で会い、余計な勘ぐりをされたくなかったのです。会わなければ、判断材料がないのですから、妙な誤解を招き、私かクラナ様のファイーズ要塞行きが白紙なる可能性も低くなると思ったのです」
「なるほどの。フィラック、クラナのことをよろしく頼む。これを持って行ってくれ」
アレクビューは酒瓶を渡した。
それはアレクビューが大切に保管していた一品だった。
「よろしいのですか?」
「今は薬を飲んでいるせいで、酒の味がよく分からん。味の分かる者が飲むべきだ。いずれまた、飲もうぞ。その時は、クラナやリョウ青年たちもいるといいの」
アレクビューは豪快に笑った。
アレクビューの体調は良くない。
しかし、このまま病に負けるほど弱い人だと、フィラックは思えなかった。
「ええ、必ず皆で集まり、酒を飲みましょう」
フィラックはアレクビューの手を強く握って、屋敷から出ていった。