イムレッヤ帝国の栄光と闇
遡ること約半世紀。イムレッヤ帝国の黄金期を築いた皇帝が居た。
皇帝の名はフーリッヒ二世。農業改革と街道整備を行い、イムレッヤ帝国は飛躍的に国力を高めた。
フーリッヒ二世は名君である。ほとんどの者が口を揃える。
だが、そんな名君にも暗部があった。
彼には弟が居た。イムレッヤ帝国史から名前を消された弟は、最高の武人だった。特に騎兵の扱いに優れ、彼の残した騎兵戦術はイムレッヤ帝国軍騎兵隊の基礎を築いた。戦争では連戦連勝、敵無しだった。
敵は内側に居た。
フーリッヒ二世は弟の名声が怖くなった。さらに悪いことが続いた。フーリッヒ二世が病に伏したのだ。熱に魘されて見た夢の中で弟が玉座に座っていた。フーリッヒ二世は考えた「果たして私の息子たちは弟より優れているだろうか? 弟が今の地位に満足しているだろうか?」と。フーリッヒ二世の心身は衰退していた。そして、最悪の判断を下す。
見舞い来て欲しい、と弟に手紙を出して、やって来た弟を殺してしまったのだ。フーリッヒ二世の乱心はこれで止まらなかった。弟の血縁者、従者を反逆罪で次々に処刑したのだ。女子供容赦なく、それは行われた。フーリッヒ二世は怖かった。弟の人気が怖かった。報復が怖かった。死ぬのが怖かった。
こうして弟の名前は歴史から消えた。
フーリッヒ二世はと言うと、病から回復した。彼にとっての地獄はそこからだった。精神の平衡を取り戻した彼は罪の意識に蝕まれる。病から回復後すぐ、まだ子供だった息子に皇位を譲り、退位する。そして、変死してしまった。病が治っていなかった。自殺だった。弟の残党による暗殺だった。などと宮廷内では噂されたが、真相は不明である。
そして、幼い皇帝に政治能力は無く、以後は門閥貴族の力が強くなっていった。
弟の名前は口にすることも禁止された。弟の旧領民には通常の三倍の税が課せられた。これは極北の民、シャマタル人と同等である。イムレッヤ帝国は故意的にこのような差別階級を作っていた。差別されない多数は優越を、差別される少数は劣等を感じる。これは国家安定の役割があった。
それから半世紀後、世代が変わった。
しかし、領民たちは憎しみを忘れていない。
旗と号令があれば、いつでも馳せ参じる覚悟があった。
皇帝ルードバームの敗死でイムレッヤ帝国は大いに揺れ動いていた。
しかし、それは皇帝の死を悼んでのことではない。
次の皇帝を誰にするかで、力のある門閥貴族は騒々しく動いていた。実のところ、門閥貴族たちにとって、ルードバームの死は有り難かった。ルードバームは王権復古を目指し、門閥貴族の権限を宣言する動きを見せていたからだ。ルードバームはそれを実行するだけの、ある程度の政治能力を備えていた。ルードバーム最大の失態は、自分の能力が軍事にも通用すると考えたことである。ルードバームは自分の過ちを、自身の命を以て知ることになってしまった。
扱いやすく都合の良い皇帝を作るために門閥貴族たちは動く。
幸い、残りの大国はイムレッヤ帝国をすぐに攻めることが出来ない状況である。フェーザ連邦はイムレッヤ帝国に大敗した傷が癒えず、ベルガン大王国とリテリューン皇国は長年に渡る戦争状態でイムレッヤ帝国に対して、大規模な軍事行動をとれない。残るはローエス神国であるが、この国が単独で戦争をすることは希であった。
そんな状況だからこそ、門閥貴族たちは権力党争をしていたのだ。
このことはイムニアにとって幸運だった。
敗戦後、イムニアは再三に渡る中央政府からの呼び出しを無視して、北部にある領土内に籠もっていた。
皇帝不在で、権力党争に躍起になっている門閥貴族たちは、イムニアのことを二の次にしていた。
もし、イムレッヤ帝国の中央がまともに機能していれば、大軍を差し向けられていたかもしれない。いくらイムニアでも、敗戦の傷が癒えぬ状態で戦えば苦戦は必至だった。
「皆、まだ疲れが抜けないだろうが、集まってもらって済まない」
イムニアは最低限の戦後処理を済ませるとリユベック以外の六将とアンスーバ、ウルベルを集めた。
「我々は、いや、私は負けた。本来なら裁かれるべきであろう。しかし、門閥貴族共に笑われながら死ぬのは耐えがたい苦痛だ。だから、行けるところまで行こうと思う。足掻こうと思う。………………私は帝国を敵に回す。ここに義は無い。みっともない悪あがきだ。だから、付き合う必要は無い。残りたい者だけ残ってくれ」
少しの無言が続く。
「こんな面白そうなお祭りに参加しない手はありませんわ」
初めに発言したのはカタインだった。
「帝国を敵に回す。考えただけでぞくぞくしますわ。アンシェ・カタインは改めて、閣下と共に戦えることを誇りに思います」
「楽しく思う、の間違いでは無いか?」
「どうでしょう?」
カタインは不敵に笑った。
「先を越されてしまったの。ワシのような老いぼれが中央に戻ったところで、居場所などあるまい。最後まで面倒を見て貰うかの」
エルメックが続いた。
「我が輩は幼き頃より、エルメック様に恩があります。そのエルメック様が、閣下に付くというなら私も忠誠を誓いましょう」
ガリッターも続いた。
「私がこの年で将軍になれたのは、閣下が私を高く評価してくださったからです。私は閣下に向ける剣を持っておりません。最後まで付き従います!」
ミュラハールは声を荒げた。
「普段、俺のことを猪突しすぎだの、前に出過ぎだの、言うくせに何だ? 皆、俺より突っ込んでいるじゃ無いか。だが、先鋒は譲らないからな!」
フェルターは勇んだ。
「私は閣下に命を救って頂いたも同然の身、その恩を返すまでは側を離れるわけには行きません」
アンスーバは頭を下げた。
「私は閣下に従いましょう。元よりそれ以外に道は無いでしょう」
ウルベルも言った。
そして、全員が知っている。リユベックがイムニアを裏切ることは無いと。
「皆、感謝する。では、ウルベルを総参謀長、アンスーバを新たに大将軍として、六将に加える」
「閣下、アンスーバ殿が加わるのならば、七将では無いですか?」
カタインが少しからかうように言った。イムニアにこの態度を取れるのは、エルメックとカタインだけである。
「いいや、六将だ。リユベックは将軍から外れる」
その宣言に、エルメック以外の将軍たちはさすがに表情を変えた。
「リユベック殿は離反するのか!? この場に居ないのはそういうことか!」
フェルターは顔を真っ赤にした。
「落ち着け、フェルター殿」
ミュラハールが宥めるが、収まらない。
「これが落ち着いて居られるか! リユベック殿が閣下の一番の側近だ。リユベック殿が離反すれば、こちらの内部情報が全て…………」
「うるさいわね」
カタインはフェルターに水をぶっかけた。
「何をする!」
「少しは落ち着きなさい、坊や。閣下が全てを話す前に何を焦っているのかしら。ですよね。閣下?」
カタインは不敵に笑う。
「カタインの言うとおりだ。リユベックは裏切っていない。だが、これからは私もリユベックと軽々しく呼べなくなるがな」
イムニアは少しうれしそうで、少し寂しそうだった。
「リユベック、いやあの方はな…………」
それを聞いた時、驚かなかったのは、全てを知っていたエルメックだけだった。
ブラッツ・ジーラーという名前の男を知っている者はどれだけいるだろうか?
皇帝の弟、戦の天才ヴェスバーレ皇子には、優れた腹心が二人居た。そのうち一人は、後に双璧と呼ばれるようになる『シュナイ・エルメック』である。そして、もう一人がブラッツ・ジーラーである。
ヴェスバーレ皇子とエルメックが前線指揮に優れていたのに対し、ブラッツ・ジーラーは後方支援にその手腕を振った。無理な遠征でも補給の滞ることが無かったのは、ブラッツ・ジーラーが居たからである。
右腕と左腕と言うべき二人がヴェスバーレ皇子の死後に粛正されなかったのには理由があった。
エルメックは待遇の不満を言い、ヴェスパーレ皇子から離れた。
ブラッツ・ジーラーは補給物資の横領が露見し、追放されてしまったのだ。
端から見れば、ヴェスパーレ陣営の崩壊だっただろうが、真相は違った。
エルメックは待遇に満足していたし、ブラッツ・ジーラーは輸送物資の横領などしていなかった。
ヴェスパーレ皇子が意図的に二人を遠ざけたのである。兄が近々、自分を殺すだろうと予感していた。だから、腹心の二人には自分から離れ、来たるべき時まで身を潜めて欲しかった。
エルメックはヴェスパーレの思惑通り昇進を重ね、帝国随一の名将となった。ヴェスパーレ皇子との関係から、元帥には成れなかったが、元帥でもエルメックに敬語を使う。そんな地位まで昇った。
一方、ブラッツ・ジーラーの行方を知る者は少ない。彼はヴェスパーレ皇子の死後、シャマタルと隣接する辺境で、小さな地主になっていた。そして、彼の人生は終わった。
しかし、ヴェスバーレ皇子はとんでもないものをブラッツ・ジーラーに託していた。
それは半世紀が経過した現在、やっと芽を咲かせ、イムレッヤ帝国に衝撃を与えることになる。