1.始まりはいつも突然に。
「暑い……」
夏の暑さを呪いつつ、柴山洋介は気怠い体を起こした。
室内の熱気に嫌気がさすが、文句を言ってもどうしようもない。
汗で肌に張り付くシャツが、夏の湿度による気持ち悪さを倍増させて、洋介を余計に憂鬱にさせた。
「朝からこの暑さだと、昼間は外に出たくねえ……。エアコン起動もやむなし、だな」
洋介はそんなことをぼやきつつ、今年初めての使用となるエアコンを起動し、風呂場に足を向ける。
風呂に入って汗を流している間に部屋を冷却しようという作戦だ。
今年から大学生になり、田舎から出て一人暮らしを始めた洋介にとって東京の夏は暑かった。
「なんでこんなに都会は暑いんだよ、ヒートアイランドってやつか? ……ってあれ?」
ここで問題が起きた。
洋介の生命に関わる、非常に重大な問題だ。
――エアコンがつかない。
「マジかよ」
予想外の事態に洋介は溜め息を吐いた。
リモコンの電池切れかと思い、入れ替えてみるが一向に動く気配はない。
一層陰鬱な気分になった洋介は、恨みがましくエアコンを睨みつける。
「って、コンセント抜けてんじゃねえか。なんでだよ、はぁ……」
椅子をエアコンの下に運び、その上に立ちコンセントプラグに手をかけようとする。
その時、玄関でチャイムが鳴った。
タイミングが悪いと思いつつ盛大にため息を吐き、洋介は振り返り玄関に向かおうとする。
突然――視界が揺らいだ。
「うおっ!?」
足を椅子の上から踏み外し、体勢を崩す。
姿勢を直そうと足に力を入れる。
片足が椅子から落ちていたため、もう片方の足でバランスをとろうと姿勢を反らす。
しかし、その勢いでさらにバランスを崩し、椅子から落ちてしまった。
洋介が咄嗟に頭を腕で包み込み、床への衝突の衝撃を覚悟して歯を食いしばっていたその時、その場で不思議な現象が起きていた。
洋介の真下には映画で見るような魔法陣が広がり、眩い光を放っていた。
暫くしてその場から真っ白な光が消えたとき、部屋の中には誰も存在しなかった。
倒れた椅子と、その場に仄暗く残る魔法陣の残光が、不気味に部屋の中を照らしていた。
◆ ◆ ◆
――目の前が光に包まれている。
その光は眩しいわけではなく、温かく洋介の体を包み込んでいた。
そのおかげなのか、洋介は椅子から落ちたのに落下する感覚を感じていなかった。
「……どうなってんだ? なんだ、これ」
理解出来ない状況に洋介が呟くと、それに答えるように、声が響いた。
どこか懐かしさを感じる、心に染み入るような温かい声だった。
『今、あなたは別の世界――異世界に呼ばれています』
「……は?」
その声が語る内容を、洋介は理解することができなかった。
――意味が分からない。
夢でも見ているのだろうか――そうだな、そうに違いない。
溜め息交じりに、そう洋介が結論付けると同時に再び声が響いた。
『あなたを新たな世界へ招待します』
謎の声を聞き流しつつ、早く目が覚めないかな、と洋介が考えていると、なにやらすすり泣く声が聞こえてきた――ような気がした。
気のせいだと思いたいが、『無視しないでください……ぐすっ』という幻聴が聞こえてきたような気がしてさすがに気が咎めたのか、観念したように返事をする。
「……はあ、何か用?」
『はっ、はい! あなたには異世界に行って頂きます』
「異世界、ね」
返事をした途端、声の主が一変して喜んでいるのがありありと分かる。
洋介としては、夢だし適当に返事をしておこうと思っているだけなので、引き気味に返事を続けた。
異世界と言う単語に現実味がなく、夢だという想像が確信に近づいていた。
「本当に行けるなら行ってみたいもんだ」
『宜しいのですか? 一度異世界に行ってしまうと、二度と此方に戻ることはできないかもしれません。未練はないのですか?』
実際、未練と呼べるほど今の世界に思い入れはなかった洋介としてはどちらでもいい、というのが実情だ。
――勉強は怠い、バイトは辛い、部屋は暑い、将来は暗い。そして、彼女はいない。思い入れがないどころか、嫌な思いしかなかった。
――家族のことは心配だが、まあ大丈夫だろ。未練なんて彼女いない歴=年齢なことくらいだ。ああ、女の子とお近づきになりたい。そういや、今期のアニメもまだ視聴途中だな。あれ、案外未練たらたらじゃね。でも――。
洋介はそんなことをいつまでも考えていた。
その思考が止まらなかったことに嫌気が差したのか、それは声をかけた。
『ふむ、未練はアニメを観ることと恋人がいないこと、ですか』
なんでわかったんだ――そう洋介が突っ込みを入れると同時に、再び不思議な現象が起きた。
真っ白な光で満たされていた空間に、突如として人が現れたのだ。
いや、それを人と呼んでいいものなのだろうか。そこに何かがいて、それは人の姿をしているということは判ったが、しかし姿が見えるわけではなく光の中に別の何かが形作られている、という感じだった。
洋介が訝しげに目を凝らすとはっきりと、それは人だと確信できるほどにはっきりと、その姿を色濃く現した。
それでも霞んでいて、正確に顔が判別できるわけではなかった。
服は着ていないようだが、身体の線はぼやけ、性別を判断することもできない。
しかし、それでもわかることはあった。
その人物は、僅かに茶色がかった長い黒髪をしていた。瞳も黒、唇は仄かに赤みを帯びていた。曇りガラスを通したように霞んでいる裸であろう姿の中で、色鮮やかに光彩を放っていた。
おそらく少女の姿をしているその人物の身長は洋介より頭一つ低いくらいだろうか。
洋介が驚いていると、その人物が首をかしげる。
そして、その漆黒の瞳は、真っ直ぐに洋介を見つめていた。誰何すると、今度は驚いた声を上げる。
「私が、見えるんですか?」
「さっきの声の主か? 見えるも何も、姿を現したのはそっちじゃねえか」
「姿を現した、私がですか? あ、先ほどのアニメを『見る』というのが願いとして叶えられたということですか。と言うことはもう一方は契約――ん?」
「……おい。願いだとか契約だとか、何言ってるのかよくわからんぞ。話を進めろ」
途中から何かを考え込むように顎に手を当てブツブツ呟き始めた目の前の人物に痺れを切らし、洋介が説明を求める。
「はい、今のは此方の話ですので。しかしそうですね。それでは、準備は宜しいですか」
「説明はないのかよ。まあいいけどさ」
どうせ夢だし、ということで丸投げすることにした。
「それでは、異世界に行く前にあなたに『加護』を授けます、と言いたいところなのですが、あなたは既に『見る』能力を得ているようなので、これは省略させて頂きますね」
「別に何でもいいんだけどさ」
洋介は、もうめんどくせえ、なんでもいいから早く目覚めろよ俺、と思いながら首肯する。
眼前の人物が少し焦ったように結論を出していることに、洋介は疑問を持つどころか、違和感を抱くことも、気付くこともなかった。
そして、彼(彼女)は頭を下げ、こう告げる。
「ありがとうございます。それでは、これよりあなたを異世界【イルセア】へと招待致します」
言葉が告げられると同時に、異変が起こった。
訳の分からん夢だと思いつつ、洋介が周囲を見渡すとすでにその姿はなかった。
そして、だんだんと洋介の身体を柔らかく包み込んでいた白光が弱まっていく。
やがて、視界の揺れが大きくなり、落下する感覚も復活する。
そんな中、ガチャリ、とどこか遠くで扉の開くような音を聞いた。
『――――を、守って』
そして、光が消える寸前、洋介は誰かの声を耳にした――ような気がした。
どこかで聞いたことのあるようなその声を、しかし洋介は思い出すことが出来ないまま、身を包む光は消失した。
そして――背中から床に落ちた。
「――ッ!」
その衝撃で洋介は意識を手放した。
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