銭湯です
「こ、こんばんは月之夜さん」
「どうしたの?何か用?」
まだ午後9時でそこまで深夜という時間ではないが、他人の部屋を訪れるには遅い時間だ。 部屋着なのか、着心地のよさそうなスポーツブランドのジャージの上下に、少し大きめのバッグを持っている。
「銭湯の場所がわからなくて……」
「あぁそうか、きたばっかりだもんね」
「はい、それで案内していただけないかなと思いまして」
だとするとそのバッグは着替えなどということだろう。
「いいよ、ちょうど行くところだったし。じゃあ行こうか」
「あ、はい。よろしくお願いします」
1kmないくらいの短く暗い夜道を、離れてしまわないように、少しペースを落として歩く。空を見ると、月も星も競うように輝いている。
「それにしてもなんで家の前にいたの?インターホン押してくれればいいのに」
「それはですね……もしその、最中だったら悪いなって……」
「最中ってなんのこと?」
「それは……言えませんよ!何言わせようとしてるんですか!」
「ええ!?」
おれそんなに怪しいことしてるか!?
「それに今だって月之夜さん一人でいいんですか?あの人も呼んだ方が良かったんじゃないです?」
「あの人?」
「一緒に暮らしてる美人な彼女ですよ。それくらい察してください」
「ちょ、ちょっと待って!俺同棲なんてしてないよ」
「え?でも朝、女の人とご飯ができたとか話してたじゃないですか」
「あぁ、あれは……」
ただの悪魔だよ、と言いかけて言葉に詰まる。そんなことを言われて受け入れられるわけがないし、魔界のことまで細かく話すのも御法度だろう。
今まで魔界のことは他人に話すという点では、そもそも相手がいなかったので心配してこなかった。天羽 咲は人に吹聴するような性格ではない印象だが、まだ教えても良いほどの信頼関係でもない。
もし万が一、天界だけでなく、人間界まで相手にすることになったらその時は魔界の終わりだ。
「朝のあの人は……俺の姉だよ、近所に住んでるからたまに来るんだ」
「なんだ、そうだったんですね。全然似てませんね、お二人は」
「まぁね」
咄嗟の嘘としては上出来だっただろう。笑いながら頷いている天羽を見ると、少し心苦しくなるが魔界のために仕方がないことだと思う。
「っと着いたよ、ここが銭湯菊の湯」
「すぐ着いちゃいましたね、道も簡単でしたし」
「楽でいいよ」
そう言いながら引き戸をガラガラと開ける。いつもの番頭のおっちゃんが元気に話しかけてくれる。
「お、いらっしゃいにいちゃん!久しぶりだね、どっかにでも行ってたんかい」
「いやまぁ、ちょっと友達のところとかに行ってたんすよ」
本当のことが言えるはずはない。
「そうかいそうかい!まぁゆっくりしてってくれや。後ろのお嬢ちゃんは彼女かい?」
「ち、違います!こんど月ノ夜さんの隣の部屋に引っ越してきた天羽 咲です。よろしくお願いします」
「おう、よろしくな!贔屓にしてもらったら牛乳くらいサービスするからね」
「ありがとうございます」
笑いながら頭を軽く下げる天羽。おっちゃんのノリの良さは本当にすごい、初対面の人でもすぐに仲良くなってしまう。初めて自分が来た時も、こんな調子で慣れない生活の不安を和らげてくれた。
「じゃあはい、250円。天羽さん、30分くらいしたらまたここに来て」
「あ、わかりました。ではお風呂頂きます」
「おう、行ってらっしゃい」
二人とわかれて脱衣所で服を脱ぎ、浴室へ入る。壁の富士山の絵もなぜか浮かんでいるアヒルも変わらない。とりあえず体を洗ってから熱い湯船に浸かる。
「はぁーー気持ちいい……」
少し熱いくらいが俺は好みなので、この温度はとても気持ちがいい。疲労が全てお湯に溶けていくような、そんな感覚。
人間界にはなんどか帰ってきているが、自分の部屋よりもここに来ておっちゃんと話し、こうしている方がよほど実感する。
今度ミラや他の魔物も連れてこれたらいいなぁとぼんやりと考える。そうしたら何か素晴らしい思い出にでもなりそうだ。
この幸福な時間は50分ほど続いた。
そう、50分だ。
「遅いですよ、月ノ夜さん。湯冷めしてしまいます」
「ごめんごめん、ちょっとぼーっとしてたら時間忘れちゃってた」
「おじいさんじゃないんですから」
「まぁまた今度来た時アイスでもおごってあげるからそれで許してよ」
「いいですよ、忘れないでくださいね?」
「はいはい、じゃあお湯ごちそうさまでした」
「ありがとうございました」
「おう!またな兄ちゃん達!」
おっちゃんにお礼をいって銭湯を出る。外は来る時よりも電気の消えている家が多く、少し暗くなっていた。
「どうだった?」
自分が大好きな銭湯に行ってみたの感想を聞いてみる。
「いい銭湯……いえ、いい場所でした。なんだか家よりも家みたいな感じがしましたもん」
同じ感想を持ってもらえて嬉しくなる。あのアットホームな雰囲気はとても居心地がいい。
「そういえば天羽さんはなんでここに引っ越してきたの?」
「私小説を書いてるんですけど、今の作品や次の作品……つまり、私の作品に影響を与えられるような刺激を得るために東京に来たんです。今日のお風呂屋さんもそうですよ?東京とは思えない人との繋がりって感じがしました」
「なるほどね、一人で不安だったりしないの?」
「来る前は不安でしたけど、来てからは吹っ切れたみたいな感じです。隣の人もいい人でしたしね」
一度言葉を切り、天羽咲はクスッと笑うと
「もちろん月ノ夜さんのことですよ?」
と付け足した。
「ありがと、まぁ出来る限りのことはするから」
「ええ、よろしくお願いしますね」
「そういえば今書いてる作品はなんて言う名前なの?」
「アニメもやってるから月ノ夜さんも聞いたことあるかも。その名も『神がなんと言おうがアニメだけはやめられぬ』です!……あ、あれどうしたんですか?」
思わず立ち止まってしまった。目の前のこの穏やかな少女は、人の心を壊し、手駒にするカリスマと言うしかないあの男の、
産みの親であるという事実に。