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第四話 こだわり『ガリ』

 浩二の口の中は、見事な中トロの旨味が未だに残っている。

 名残惜しい気もするが、次の寿司を美味しくいただく為には口直しをした方が良さそうである。

 今、吉川は他の客の寿司を握っている。

 口直しをするには丁度いいタイミングだ。


 浩二はガリをつまんで口に放り込む。

 すると、さっきまでトロの旨味に支配されていた口の中に、ガリの辛さと酸味、そしてごく僅かな甘みが広がる。

 一度噛めば、辛みは弱くなる一方で甘みは強くなり、嚥下する頃には口の中は限りなくフラットな状態になっていた。

 食べ慣れているガリではあるが、中トロの後に食べると何だか不思議な感じがした。

 美味しいと表現した方がいいのかわからないが、口の中の感覚は大変心地よいものだった。

 なので浩二はこの感覚を美味と判断した。


「……大将、なんだかトロの後に食べるガリって、ものすごい美味しいんですけど」


 浩二は、さっきまでトロが鎮座していたゲタに乗ったガリをぼんやりと眺めながら、カウンターに立つ吉川に呟いた。

 吉川がその問いに答える前に、洋子が横からゲタを下げにやってきた。

 柔らかい動作でゲタをお盆に載せると、浩二の湯呑みに緑茶を注ぐ。


 独り言のような声量で「どうも」と言ってお茶をもらう浩二に、洋子がふふんと笑いながら言った。


「それは多分、口の中の状態の変化が大きいからじゃないかしら?」

「ほあ?」


 洋子が突然会話に参入した事によって呆気にとられた浩二は、とうとう間の抜けた声をあげてしまった。

 口の中の状態の変化。

 考えてみれば確かにその通りなのだが、よくわからない。

 浩二自身、ガリとは単なる口直しと思っていたのだから、口の中の状態が変化するのは明白な事実である。

 しかし、それがガリを美味しいと感じるというのとは、全くの別の事のように思えるのだ。


「あ、もしかして森岡さん、他所様のところでお寿司食べる時も、ガリは寿司の合間にしかつままないのかい?」

「どういうことですか?」

「先にガリだけとか食べたりしないかい? 回転寿司とかはガリが置いてあっていつでも食べられるじゃない」

「あぁ、そういうことですか。まあ回転寿司とかだったら先にガリをつまんだりするかも知れませんね」


 その浩二の答えを聞いて、吉川はにっこりと人の良さそうな笑みを浮かべた。

 洋子は洋子で「やっぱりね」と言いながら、一人でガリの疑問に納得しているようであった。

 二人の様子を見てますます混乱する浩二。


「どういう事ですか?」


 お茶の入った湯呑みを傾けながら、浩二は聞いてみた。

 少し冷めたはずのお茶は、口の中に入った瞬間に熱くなったように感じた。


「洋子ちゃん、あのランチの時に出してる『白』持ってきて」

「『白』ですか。わかりました」


 浩二は二人が何を言っているか分からなかったが、ガリについて種明かしをしてくれるようだという事は理解出来た。

 洋子が言った『白』とか言うのも、もしかしたら専門用語かもしれない。

 少なくとも浩二にはランチの時に出しているガリが『白』というモノであるという事以外は分からなかった。


 ややすると、洋子が漆塗りの器を持って戻ってきた。


「お待たせしました。はい、どうぞ」


 その器は浩二の前にコトリと置かれた。

 蓋を取ってみると、中にはいたって普通のガリが入っている。

 もしかしたら、さっき自分が食したガリと、この『白』と呼ばれたガリは別物なのかもしれない。

 浩二は二つを見比べてみる。

 すると、若干色に違いがあり、『白』の方はやや不透明感のある色である。


「これはランチの時に出してるガリなんだけど、ランチの時ってこういうガリが好まれるんだね」


 ガリを見比べる浩二に、吉川はにっこりとした表情を崩さずに言った。

 しかし、浩二はまだよく分からない。

 何故ランチの時間帯と夜でガリを使い分けているのだろう。


「ランチはあまり握りが出ないんだよ。一番出るのが『ちらし』なんだ」

「え? じゃあ何で『ちらし』の時は、こっちのガリを出すんですか?」

「そのガリ食べてごらん」


 浩二の疑問には答えずに、実際ガリを食べてみる事を進める吉川。

 百聞は一見に如かず、自分の舌で実際に食べてみて味を『見る』事が手っ取り早い。


 それはもっともであると思い、浩二は『白』と呼ばれたガリを食べてみた。

 まず最初に感じたの強い甘み。

 そのままのガリだけでも沢山食べられそうなほどに食べやすい味である。

 しかし、これはよく回転寿司などで提供されるガリとあまり変わらない味わいであった。

 要するに、これと言って特筆する点はないガリであった。


「まあ普通のガリですね」

「そしたらそっちのガリも食べてみて」


 続いて、先ほど中トロの後に食べたガリを食してみる。


「うん?」


 直接口の中を満たしたのは、先ほどの『白』よりも強い辛みがあった。

 中トロの後に食べた時とは全く違う味である。

 口の状態がフラットになる感覚はない。

 むしろ辛みが舌に残るようである。


「どう?」

「なんか……さっき中トロの後に食ったのよりも辛いですね」

「そうなんだよ!」


 吉川は手をポンと打った後、ガリを指差した。


「よく回転寿司で置いてあるガリは市販モノで、甘みが強いんだよ。だから寿司を食べる前にもつまめちゃうでしょ? でもウチは寿司の後にガリを食べてもらう為に、ガリはゲタに添えるんだ。口に旨味が残ってないとウチのガリは辛過ぎるからね。さっき中トロの後のガリは辛みをあまり感じなかったでしょ? でも今食べたら辛く感じた。何故かと言うと、森岡さんは既に口直しがされてる状態でガリを食べたから、本来のガリの味を感じたんだ」


 吉川による解説が始まった。

 その様子を見て洋子は笑っている。


「夜に出してるガリはね、辛めに仕込んでるんだよ」

「なんでですか?」

「夜は握りがメインでしょ? 握りってのはシャリが少ないから魚の旨味を思う存分に味わえちゃう。でも旨味の強い魚の後は、口の中にずっと風味が残っちゃうよね。ウチのネタは新鮮で旨味を重視して握ってるから、普通のガリじゃあさっぱりしきれない。お客さんには一品一品の確かな味を楽しんでもらいたい。だから辛みを残して仕上げてるんだよ。口直しが出来てこその『ガリ』ってわけだね」


 眉毛を八の字に曲げつつも、どこか自慢げに語る吉川は生き生きして見える。


「昼はちらしがメインで出るでしょ。ちらしはどうしてもシャリが多くなっちゃうから、そこまで強い口直しは必要ないのよ。だから『白』は市販のガリに似せて、甘めに作ってるんだよね」

「なるほど」


 神妙な顔で聞き入ってる浩二を見て、吉川は得意げに話を続ける。


「それにお昼に来てくれる奥さん達は、みんな市販のあまーいガリに慣れてるから、夜のガリは辛すぎるってわけだな。だからウチは昼用の『白』と夜用の『夜』ってなふうに別々に仕込んでんのさ。 

中トロの後のガリが美味く感じたのは、口直しがさっぱり出来たからだね。ほらトロって言ったら味が強烈じゃない。次のネタの味が霞んじゃったら困るでしょ」

「ほう。そういう事だったんですね」


 ゲタの脇にちょんと座っているガリと、漆塗りの器に入ったガリを見比べると、浩二はスッキリとした表情で吉川に向き直る。


「大将のお客様至上主義、恐れ入りましたぁ!」


 ガリ談義をひとしきり聞いた後、浩二は茶目っ気たっぷりに頭を下げた。

 それを聞いて、吉川と洋子はとても楽しそうに笑う。


「ははは! 職人として当然のことだけど、そう言ってもらえると日々の苦労が報われるねえ」

「よかったですね、店長」


 ご機嫌な吉川に洋子は上品に笑いながら、ひじ鉄砲を打つ仕草をしてみせた。


「これは我々サラリーマンも見習わなくてはなりませんね」

「そしたら効率のわるーい社会になっちゃうんじゃないの?」

「なんでですか?」

「いや、だってサラリーマンの人たちは限り時間の中で、出来るだけ効率よくやろうとするじゃない。凄いよねえ。職人ったら一つのネタにじっくりと時間をかけて、粘って粘って「美味しくなれ」って思って仕込むでしょ。仕込んでる時は他の事は考えないからねえ。器用じゃないのよ。馬鹿、寿司馬鹿よ。日本のサラリーマンが全員職人みたいに一つに事に意固地になってたら大変だ」


 吉川の自虐的なブラックユーモアを聞いて、浩二は「まあ確かにサラリーマンは効率主義ですねえ」と言いながら頬を緩める。

 そして興が乗ったのか、吉川はおどけて続ける。


「でしょ。そしてみんな職人気質になって寿司屋なんか始めっちゃったら、ウチも大変だ」

「わかぶなはこの味があるじゃないですか。安泰ですよ」

「そう? でもライバルが多かったら疲れちゃうよ。そうなったらいっそのこと改装して鍋屋にしちゃおうか? ほら今日寒いし」


 とびっきりのアイディアを思いついた少年のような顔をして吉川が言う。


「でも大将、寒い日以外は寿司出すんでしょ?」

「まあね。あと鍋の後の口直しにガリも出そうか」


 洋子を含めた三人の笑い声が合わさった瞬間だった。

 ひとしきり笑った後、座敷席の方から「お愛想」と聞こえてきて、吉川の元気な「ありがとうございます」の声とともに、洋子が座敷に向かったところで、このガリ談義は終了した。

飯時を逃してしまった感があります!

くっそ!

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