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第二話 昇華『光り物』

 浩二はお茶を一口飲んだところで、玄関の方からフワリと冷たい空気が入って来た。

 新しい客が暖簾をくぐって来たようだ。


「いらっしゃい!」


 浩二は入り口をちらっと見ると、スーツに身を包んだ五十代くらいと思われるサラリーマン三人組が入って来た。


「あれ? 確か人事部の波津根はつねさん……」

「お? 知り合いかい?」


 ポツリと呟いた独り言に吉川が反応する。


「知り合いと言うか同じ会社の人ですね。僕も話した事は無いんですけど」


 吉川は「大きい会社だとそんなもんなんかねぇ」と言いながら浩二に出す次のネタを捌く。

 浩二は吉川の手元から先ほど入店して来た波津根に視線を移す。


 会社ではいつも気難しそうな顔の彼が、とても生き生きとして見える。

 浩二自身そこまで関わりはないのだが、波津根は会社ではよく見かける人だ。

「あの人、こんなに楽しそうに笑うんだな」と、普段馴染ない表情を浮かべる波津根を、背中越しにぼんやり眺めた。


 連れの二名はおそらく彼の友人であろう。

 旧知の友と美味い寿司。

 酒を飲み交わして笑い合えば、日々のしがらみから解放されるのだ。

 彼の笑顔を見て「美味い寿司はやっぱり偉い」と心の中で寿司を褒め称えると同時に、「お疲れさまです」と、波津根の日々の激務を慰労する浩二の口元は、心なしか少し緩むのだった。


 そんな浩二の様子を見ていた吉川は、嬉しそうに目を細めた。


「次はあじだよ。ちょっと待っててな」

「お、やった。鯵大好きです」


 浩二は鯵が大好きだ。

 もちろん吉川はそれを知っている。

 吉川は浩二のほころんだ顔が『他人の幸せに共感した笑顔』だった事を見抜いた。

 そして、そんな浩二を喜ばせてやろうと思い、彼の好物である鯵をチョイスしたのであった。

 浩二のような若い世代が、こうして他人の幸せな様子を見て共感出来る事が、吉川は嬉しかったのだ。


 少しサービスしてやろうと普段は作らないものを出すために準備に移る。


「今日は鯵が少なかったから、森岡さんの分でヤマだわ」

「お、ラストですか。なんかすみません」

「いいっての。おーい洋子ちゃん。鯵、ヤマだわ」

「はーい」


 ヤマというのは品切れを意味する言葉である。

 洋子はカウンターの奥に張られた品書きの「鯵」の所に斜線を引いた。


「ハイお待ち」


 吉川は新しいゲタを浩二に差し出す。

 そこには三貫の鯵の握りと、なめろうのようなモノが入った小皿が乗っていた。


「お! 三貫!」

「いつも来てくれるからサービスね。あとそっちのなめろうもどきもサービスだ」

「ありがとうございます。太っ腹ですね」


 光り輝く鯵の握りの上には僅かに五条の切れ目が入れてあり、その切れ目の間には芽葱が挟まっていた。

 差し色に緑が加わったその彩りはとても贅沢である。

 浩二は目の前の美しい寿司をじっと見つめていた。


「芽葱もっと乗せても良いんだけど、これは香り高いからこんなもんが丁度いいよ」


 と吉田は鯵の上に鎮座する深い緑色の芽葱を指差して笑った。


「それじゃ、早速」

「おう。いってくれ」


 美しい造形の鑑賞を切り上げ、浩二は握りを口に放りこむ。

 やはり絶妙な力加減で握られたシャリは口の中で解け、そこに咀嚼によって溢れ出した鯵の旨味と芽葱の香りが混ざり合った。

 その巧みなバランスは鯵という大衆向けの魚を、絶品へと昇華させている。

 先ほど食べた平目よりも少し濃厚な味わいで、それでいて全くしつこくない。

 毎回食べているネタではあるが、毎回感動させられる味だ。


「はあ…………寿司最高」


 涙がこぼれそうなほどに鯵の味に、浩二は声に出して賞嘆した。

 もうその味は、鯵という魚に平伏したくなるような次元にあった。


「そっちのなめろうも食べてみてよ。ネタが余っちゃって作ったのだけど」

「はい、いただきます」


 ネタが余って作ったとは言ったものの、実はこのなめろうほどの量のネタがあれば更に三貫くらいは握れる。

 なめろうは細かく叩き立体的に盛るので、見た目よりも多めに魚を使うのだ。

 しかし、サービスは見えないところでするものと思っている吉川は、ネタの余りと言ってぼやかしたのであった。


 この小さな小皿にちょこんと盛られたなめろうは、普通のなめろうとは少し違った印象を受ける。

 なめろうとは、魚の身を粘り気が出るまで細かく叩いたものだが、よく見ると少し荒めに叩いた身も混ざっていた。


「どうせなら食感も楽しんでもらいたいからね。細かく叩いた後に荒めの切り身も入れたんだよ」


 じっと観察する浩二に、吉川が解説してくれた。


「本当はもっと色々入れるんだけどね、何せ身が少なかったから即席で大葉とガリと醤油で味付けしてみたんだよ。だから言ったろ? もどきって」


 解説しながら他の人の寿司を握っていく吉川。

 今握っているのは波津根達の分だろうと思いながら、浩二は箸の先でなめろうを掬い上げると、若干しっとりとした粘り気のあるそれを一気に口に含んだ。


 一番最初に来たのはガリの優しい辛みと、大葉の爽やかな香りの波。

 一瞬にして脳の空腹中枢を刺激してしまうほどの芳しさだ。

 そして舌に触れた瞬間に、先ほど食べた握りとはひと味違った鯵の味わいが膨らむ。

 咀嚼すれば、粘り気のある部分とコロコロとした粗挽きの身が合わさって不思議な食感を与える。

 いつまでも噛み締めていたい気分になったが、気づけば既に飲み込んでしまった。


「大将。これメニューに乗せないの?」

「え? なめろうかい?」


 突然の浩二の質問に少し面食らった吉川だが、うーんと唸ると首を振った。


「注文されたら作るけど、お品書きには載せないかな」

「こんなに美味しいのに?」


 美味しいという言葉に、ニコッと表情を咲かせて吉川は浩二を見た。


「まあ、お得意様だけの特別メニューだな」


 二人は声に出して楽しげに笑った。

 波津根の分を握り終えた吉川は、洋子に握りの盛り合わされた大きめのゲタを渡す。

 受け取った彼女は、波津根達の座る座敷の方に向かっていった。


「待ってました!」


 普段聞けない波津根の明るい声が奥の方から聞こえて来た。

 その声を耳にすると、浩二と吉川は顔を見合わせて頬を緩ませたのだった。

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