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第一話 幕開け『白身』

 駅から少し離れた住宅街の一角。

 そこには純和風な佇まいで落ち着いた雰囲気の一軒の店がある。


「いらっしゃい!」


 薄紫色の暖簾をくぐると、威勢の良い太くしゃがれた声が聞こえて来た。

 それと同時に外の気温ですっかり冷えきった肌が、店内の程よい暖房の温度にじんわりと緩む。

 そして、香り高い無垢木の匂いと、甘酸っぱいほのかな酢の香りが鼻をくすぐった。


 ここは界隈で少し有名な高級寿司店「わかぶな」

 店の立地条件はよくないが、店長である吉川哲雄よしかわ てつおの確かな腕と味でこの店のファンは多い。

 最寄り駅からは徒歩で15分ほど掛かるが、週末の夕飯時となると店は満席になるほどだ。

 浩二は二年前に同僚に連れて行ってもらって以来、時間がある時はこうしてちょくちょくと顔を出すのだった。

 今となっては顔も覚えられる程の常連だ。


 カウンター席に歩を進めながら外套を脱ぎ、椅子の低い背もたれに掛ける。


「はいどうぞ。森岡さん」


 着席するや否や桜色の和服姿の店員、篠崎洋子しのざき ようこが温かいお茶の入った湯呑みをコトリと浩二の前に置いた。

 彼女は、浩二が初めてこの店に来た時からここで働いている妙齢の姿容麗しい女性だ。


 浩二は彼女に「どうも」と一声かけると、湯呑みを両手で包み込み、じんわりと暖まる感覚にほっと一息ついた。

 湯呑みから立ち上る湯気は香ばしく、冷えた手を暖めながらずずっと啜る。

 熱いお茶は浩二の胃に落ちて、すぐさま彼の体を温めた。

 周りを見渡すと、カウンター席には誰もいないが、座敷の席には何組かのお客さんが入っていた。

 しかし、普段と比べれば少ない方である。


「大将、今日は少ないですねえ」

「不景気だからねぇ。まあ今日はまた一段と冷えたし、みんな鍋とかつつきたい気分なんだろうね」


 カウンターに立つ吉川は、まな板を布巾で拭きながらニコッと目元の皺を深くさせた。

 吉川の実年齢は48歳だが、総白髪の彼は見た目よりも老けて見える。


「僕は寒くても寿司がいいけどなあ」

「そう? おれは鍋がいいなぁ」

「大将がそれ言っちゃうの?」


 二人は声をあわせて笑った。

 はい、と横から漆塗りのお椀が差し出される。

 ここ「わかぶな」では、お一人様一杯に限り日替わりみそ汁をサービスで提供してくれるのだ。


 お椀の蓋を開けると、真鯛の骨で出汁を取ったみそ汁が湯気を上げる。

 白髪葱がみそ汁の表面を漂い、真鯛の出汁と新鮮な葱、白味噌の香りが混ざり合って、浩二の食欲を刺激した。


「今日は鯛のみそ汁ですか。いや、ラッキーだな」

「おや、森岡さんは鰰汁ハタハタじるが一番好きなのかと思ってたが」

「何でも好きですよ。なんなら豆腐とワカメでも満足です」

「豆腐とワカメはウチじゃ出さないねえ」


 あまりの空腹を刺激する匂いに、浩二は会話もそこそこに箸で葱を沈めて、先ずは汁で口に満たすことにした。

 お椀の縁に口をつけてゆっくりと啜ると、口の中に広がるのは真鯛の豊潤な香り。

 その風味は見事で、丁寧に出汁を取った事が容易に窺える味だった。


 ほんのり薄めの塩加減のそれは、鯛の出汁の旨味を存分に引き立てている。

 汁の中に沈んだ鯛の身を突いて口に運べば、柔らかくも弾力があり、噛めば旨味が口の中を満たす。

 浩二はみそ汁の見事な味に自然と目を瞑った。

 このみそ汁だけでも白米が食べられそうなほど美味い。

「やっぱり鯛が一番かも知れないな」と、浩二はしんみりとみそ汁の味に浸っていた。


「さて、森岡さん今日も白身から?」


 吉川の言葉で、浩二はみそ汁の世界から現実に帰ってきた。


「そうですね。いつもみたいにおまかせでお願いします」

「はいよ」


 浩二はここ「わかぶな」で寿司を楽しむ時は、必ず吉川に順番を任せて握ってもらう。

 吉川の出す魚の順番は、全ての寿司を一番美味しく賞味できるように考え尽くされている。


 淡白な白身を食べたら、次は徐々に少し味の強い赤身に。

 そしてガリで口をリセットしてから、辛みの後引く口に酸味のあるコハダや〆鯖を。

 その後は気分によってまた白身やイカなどを食べてから、貝類やエビなどの歯ごたえの楽しいものを挟み、クライマックスのタイミングで海胆ウニやイクラなどの味の強い主役を堪能。

 最後はあっさりとした巻き物などで締めるのだ。


 今日の一番手は何かな? と期待しながら待つ浩二。

 吉川はガラスのケースから手早くネタを取り出すと、それを手際良く切り分けていく。

 その手元はいつ見ても、見とれてしまうような所作だ。

 浩二が吉川の捌く魚を見ると、真っ白な身に薄く皮がついている刺身が、少しだけ厚めに切り分けられている。

 そしてその皮と身の間にはピンク色の層が入っていた。


「あれ? タイですか?」

「そうよ。旬だからね。はいおまち」


 黒のゲタに乗せられた鯛はキラキラと輝き、ゲタの黒と鯛の白、そして皮と身の間に差すピンク色が芸術的な美しさを醸し出していた。


 そして、特筆すべきはネタの上に乗っかった薄紅色の物体。

 浩二もその物体に目を奪われた。


「大将、これは?」

「それは桜の蕾の塩漬け。開花はまだだけどそれも今が旬だろ?」


 吉川は包丁を拭きながらニコッと笑った。


「その桜は少し酸っぱめに浸けたから、厚めに切った鯛とよく合うぞ」


 そう言っておどけて見せる吉川の笑顔は、まるで少年のようだ。

 美味しいものを食べさせたいと思う一心で、客を楽しませる工夫を怠らない彼は生粋の料理人だ、と浩二は思った。


 手で寿司を掴み、軽く醤油をつけて口に運ぶ。

 結論から言おう。

 この日一番手の寿司は、浩二に忘れがたい感動を与えていた。


 口の中でほどける銀シャリ。

 旨味がぎっしりと詰まった少しだけ厚切りの鯛。

 そこに少し塩酸っぱい桜の蕾の塩漬け。

 程よく効いたワサビ。


 それは全てが見事なまでに融和していた。

 甘い酢飯は醤油の塩気にとろけ、旨味の強いネタを桜の酸味が引き立てる。

 計算され尽くした味のケミストリーに、驚きを隠せない。

 浩二は目を閉じてゆっくりと咀嚼し、至福の味を堪能した。


「大将、これ一発目からウマすぎです」


 二貫盛られたゲタを空にすると、浩二は吉川に頭を小さく下げた。


「よかったよかった。はい、次は平目ヒラメだ」


 浩二の目の前には直ぐに新しい寿司が出された。


「平目ですか。美味しそうですね」

「たまにこの時期の平目は『ネコマタギ』が混ざってるんだけどね」


 ネコマタギとは美味くない魚の総称である。

 なぜそのように呼ばれているかと言うと『猫も跨いで通り過ぎるほど美味くない』という事でネコマタギと呼ばれているのだ。

 産卵の終わった平目は身が水っぽくて美味しくないので、ネコマタギと呼ばれる。

 平目の産卵時期は四月から初夏。

 この時期は一般的に産卵はまだだが、早い個体では既に産卵を終えているものもある。


「でも今日はすごくいい養殖の平目が入ってね。オススメだよ」


 そう言うと吉川は背後の品書きを指差す。

 浩二はカウンターの奥に目をやると、大きな紙に毛筆で書かれた品書きの「平目」のところに赤いインクで二十丸が書かれてあるのを目にした。

 確かにオススメのようだ。


「これはね、是非とも塩でいってほしいね」


 少量の塩と酢橘すだちを小皿に盛って、吉川は浩二に手渡した。


「へえ。塩か」


 酢橘を皿に絞り、塩と混ぜ合わせる。

 箸でぐるぐると混ぜ酢橘の果汁に塩を溶かすと、ちょんと先っぽをつけて口に運んだ。


「んお!」


 確かに吉川の言った通り、この平目はかなり上物だった。

 あっさりとした一方で、しっかりとした旨味があり、噛めば噛むほど旨味が広がる。

 そしてそこに酢橘の酸っぱさが絶妙にマッチしている。

 同時に塩という選択が、この平目の持つ純粋な美味さを十二分に引き出していた。


「どう?」

「……最高っす」

「ははは! ムラサキ(醤油)で食うより面白い味わいでしょ」


 再び感服した浩二は吉川に頭を下げるのであった。

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